第101話 一学期・期末テスト(4) at 1995/7/3
冷静さを欠いた僕を現実へ引き戻してくれたのは、かすかに震える暖かな純美子の手だった。
右腕にかかる重みと伝わる温度に、はっ――として、隣を見る。
純美子がその時浮かべていた今にも泣き出しそうな表情が、僕に救いを求めていた。
(何を迷ってるんだ、古ノ森健太! 今何をすればいいかなんて、目の前にあるじゃないか!)
僕は一つうなずき返すと、椅子を引いて立ち上がった。カラダがやけに重い。
ヴーッ。ヴーッ。ヴーッ。
『選択を承認しました』――この時すでに、スマホのスクリーンにはこう表示されていたのだ。
「……なんだぁ? またカッコつけようってのかよ、『ナプキン王子』のモリケンがよぅ!?」
「その呼び方はやめてくれ、そう言ったはずだよ、小山田」
僕が動いたのを見逃す小山田ではなかった。
そう、小山田はこの瞬間を待っていたのだろう。ずっとおとなしくしていた――そもそもそれが、到底あり得ないことだったのだ。この前までの幾度かの衝突でサッカー部顧問である梅田センセイから目を付けられお叱りを受けて、それを同級生の親から伝え聞いたらしい父親――『小山田不動産』の社長、小山田完治氏からもこっぴどくやられたらしい。そんな風の噂だ。
「てめぇのせいで、いろいろ頭に来てんだよ、こっちは。呼び方くらいでガタガタ言うな」
「僕が嫌だからじゃない。それを聴いたみんなが不愉快な思いをするからだよ、ダッチ」
「……気安いんだよ、てめぇは。生意気に俺をあだ名で呼ぶんじゃねえ」
歩み寄った僕を迎え撃つかのごとく、ずい、と下から潜り込むようにして小山田が距離を詰めてきた。わずかに広がった鼻孔から吐き出された、熱を帯びた彼の息が僕の頬を焼き焦がす。
「なんだよ、また俺のやることにケチつけようってのか? あぁあ!?」
「別にケチとかじゃない。ただ単に、誰かが嫌な思いをしているのを見過ごせないってだけだ」
「ち――っ、偉そうに。てめぇに何ができるってんだ!」
「僕には何も……できないよ」
「………………はぁ?」
さすがの小山田もそのセリフには驚かされたようだ。一瞬、ぽかん、と呆けた顔付きをすると、あんぐりと開けられたままの口から素っ頓狂な声が漏れ出た。やがて、ムッとしかめる。
「寝ぼけたこと抜かしてるんじゃねえ。じゃあなんで、のこのこ俺の前まで出て来やがった!」
「……手を貸してあげて、居場所を作ってあげることくらいはできるかな、って思ったんだ」
「はぁ? だからなんの話だよ? 誰のことを言ってやがるんだよ?」
そこで、周囲のすべてを拒絶するように丸くうずくまったまま震えている女の子を指差す。
偶然にも彼女はそれに気づいたようで、その姿勢のまま顔を上げ、前髪のわずかな隙間からこっちを見た。彼女の戸惑いを隠せない揺れる瞳を真正面からとらえて、僕はこう続けて言う。
「水無月さん、君にだ。平凡で地味なこの僕にできることなんてそんなモンさ。でも、君自身が手を伸ばしてくれなけりゃ、そんなちっぽけなことすらできない。君は――どうしたい?」
「あ………………」
囁きに似たかすかな声だった。
「あたし……あたしは……」
ごくん、と唾を飲み込む音が、静まり返った教室内に響いた。
「あたしは………………あたしは! あたしじゃないあたしに……なりたい……です……っ!」
湿った涙声で確かにそう叫んだのは、まぎれもなく水無月さんだった。





