8 星の誘惑
朝の教室。まだ、他に生徒は登校してきていない。一色は背負ったランドセルを落書きだらけの机の上に置いた。手際よくランドセルの中から筆箱を取り出すと、消しゴムを手に取り、黙々と落書きを消し始める。これが一色の日課。そして、これが一番苦痛だった。
毎日毎日、何度も何度も、消しても消しても、書き込まれる落書き。
『バカ』
『カス』
『調子にのるな』
『存在が気にくわねぇ』
そして……
『死ね』
無知とは残酷だった。その言葉が一体何を意味するのか、本当に理解をして使われているのだろうか。記した者の年齢を鑑みれば、そうは到底思えない。ただ一色を傷つけるためだけに、心無い言葉を連ねているだけなのだろう。そういったクラスメイトによる陰湿ないじめは、もう半年も前から続いている。
繊細で壊れやすいこの年代にとって、いじめという行為は人生の致命傷となろう。一色もまた、その例外に漏れる事なく、日々傷ついていた。なぜ、僕だけ……こんな目に合わなくちゃいけないんだ。
一色は耐えていた。こんな不条理に屈してなるものか。しかし、そう思っていたからではない。逃げる事を知らなかった。いや、逃げる事が出来なかった。共働きの両親からは学校には必ず行くようにと言われている。それが物心ついた頃から一色にとって絶対だった。だから、登校拒否という逃避は選択肢の中に存在しない。いつも味方のいない空間で一人、少年は戦っていたのだ。
自分を否定する“敵”たちと。
一過性であろうこの行為が終わることだけを願い、じっと耐えていた。それが、彼の選択できる自分なりの戦いだった。
しかし、降りかかる火の粉を払わなければ自分の身を焼く。内に溜まるフラストレーション。それを解消してくれるのは、頭の中で繰り広げられてきた歪な妄想だった。大好きなゲームを題材とした舞台に無理矢理“敵”を引っ張り上げ、勇者となった自分が正義の名の下、最強の力を持って惨殺する。一度で足りなければ、何度も、何度も舞台に引っ張り上げ剣を突き刺す。伝説の武器として名高い聖剣ゲシュタルトを持って悪を切り裂くのだ。
血塗られた聖剣を振りかざす勇者は常に称賛され、臓物をぶちまけ倒れる“敵”は罵倒されながら晒される。毎朝の日課をこなす一色の脳裏には、常にこの妄想が繰り広げられていた。
だが、一色には今、力がある。勇者にも魔王にも負けない、最高の力が。
しかし、それをもってしても恭介からは逃げてしまった。同じ力を持ち、虎を一撃のもとに沈黙させた新たな“敵”。今の力では勝てそうにない。もっと経験値を、力を手に入れたい。どうすれば良いのか……。そんな事など、怒りを含んだ歪で幼い思考から、すぐさま答えが弾き出される。
手頃で弱い“敵”を倒せばいい。僕をいじめたあいつらを……
心を吸った聖剣が、我が身を振るえと働きかける。膨張し始めた怒りが少年の妄想を現実に引っ張り出した。
上空から見降ろす研ぎ澄まされた世界に“敵”が見えた。空白だった覚悟が復讐に塗りつぶされていく。
「ゲシュタルト……いつもの通り。モンスター退治だ」
一色の見詰める先。そこにはランドセルを背負う三人の少年たちがいた。舞台は現実。時は夕暮れ。人気の少ない、未だ分譲が始まらぬ新興住宅地の一角。この場所を少年たちは近道と称し、仲良く下校していたのだ。敷かれてまだ新しいアスファルトが平らな世界を作り出す。自然とは違う人工的な舞台。その舞台を踏みしめて一色は、少年たちを待ち構える様に睨みつけた。
徐々に近づいてくる少年たち。周囲を気にせず発せられている話し声が、一色の耳にも届き始める。
「結局、今日から不登校だぜ。あのバカ」
「つまんねぇ。良いおもちゃだったのにな」
「まあ、でも良くもった方じゃない。壊れるまでさ」
「あ~あ、明日も来なかったら、次だれにする?」
「だれでも」
「じゃあ、亀山にしねぇ? あいつ最近ムカつく」
「だな」
馬鹿笑いが聞こえた。その笑い声を絶望の叫びに変える瞬間を想像すると、一色の口元がつい緩んでしまう。抵抗できない絶対的な力を振りかざし踏み潰そうとしている相手が、愚かで醜いモンスターに映る。込み上げてきた思いが、それらを嘲笑した。飛んで火に入る夏の虫だと。
その瞬間、舞台に全てが整う。緞帳が上がる様に、一色の背後から一陣の風が通り抜けた。動物園で孕んだ血なまぐさい空気が風に乗り、少年たちに一色の存在を気付かせる。毎日自らの優越感を示すため、いじめ続けた相手が目の前にいる。物足りなかった一日のスケジュールがここで補填されるのかと、三人の馬鹿笑いが獲物を見つけた肉食動物のそれに変化させた。
「なんだ、カスじゃねぇか」
「もう、卒業まで顔が見れないかと思った」
「お前も、物足りなかったんだろ? 俺たちが遊んでやるよ」
三人は舌舐めずりをするがごとく、一色に歩み寄る。それをまっすぐ見つめ返す瞳には、揺らめく炎が見て取れた。言葉を返す必要などない。どうせこいつらは心無いモンスターだ。勇者に倒される無様な雑魚モンスター。考えるだけで嬉しさが込み上げてくる。どうやって殺してやろうか、一撃で首をはねようか、それともじわじわとなぶり殺しにしてやろうか。
もう、一色の中に“恭介を倒すため”という目的はない。目前で戯言を囀る相手を妄想ではなく現実で、どう殺害するかにすり替わっていた。
「ほら、とりあえずお前が持てよ」
少年の一人が背負っていたランドセルを一色の足元に放り投げる。ドスと鈍い音が皆の鼓膜を震わせる。それを一色が口角を釣り上げながら見下ろすと、視界の外から残り二つも飛んできた。
「拾えよカス。お前は俺たちの奴隷なんだ」
「かしこまりましたご主人さまって、傅いて拾え」
優越感に浸りながら向けられる心無い言葉。いつもの事だ。少年たちが一色を見れば口を開く、くだらない行為。しかし、今日はもうそれに耐える必要がない。我慢しなくても良いのだ。嬉しさが一色の肩を震わせる。決めた。こいつらは串刺しだ。
「力を示せ……」
言葉と共にスウと差し伸ばす右腕が、一つのランドセルを目標に捕らえる。
「ゲシュタルト」
瞬間。袖口からその姿を現す聖剣ゲシュタルト。鋭い切っ先が目標を貫き、アスファルトを割る。それを斜めに切り上げながら振りかざすと、空中でランドセルが紙片を振りまき切り裂かれた。舞い散る物体。それを境に少年たちの視線が交錯する。恐怖におののく六つの瞳と、獲物を見据える二つの瞳。世界が変わった。自己満足で築きあげていたヒエラルキーが反転する。少年たちは敏感だ。瞬時にそれを感じ取り、行動を起こす。
逃走だ。
何振りかまわず反転すると、全力で駆け出した。しかし、規格外で根本たる恐怖が足元をすくい上げる。おぼつかない足運びが空転し、アスファルトに少年たちを叩きつけたのだ。それでもまだ、逃げようと足掻く這いつくばったモンスターを見据え、一色は声を上げて笑った。
「何だよ、いつもの勝ち誇った顔はどこいったんだ」
じりじりと歩み寄る一色。その姿はもう、勇者を形容する事が出来ない。ただ欲望のままに追い詰める狂戦士。復讐の鬼が姿を現す。
「や、やめろよ」
「俺、やりたくてやってたわけじゃないんだ。やらなきゃ俺たちがやられる」
「た、助けてくれ。俺たちの仲だろう」
都合の良い言い訳だ。弱者に回ればこの程度か。こんな奴らにいじめられていたのかと思うと、怒りが腹の底から込み上げてくる。尻もちをつきながら後ずさる弱者を、蔑む視線で見据えた一色が、魔剣と堕ちたゲシュタルトを天高く振り上げる。串刺しは止めだ。見せしめにまず一人、首をはねてやる。
「まずはお前だ」
冷淡に声を漏らすと、振り下ろした切っ先が弧を描き、横方向の斬撃へと変わる。一色の復讐が今、始まった。