6 星集め 『黒い猫又』
木枯らしに成り切れない、肌触りの良い風が舞う秋空の下。もうすぐで真南に差し掛かる陽射しが、大地の温度を上げている。ここは閑静な住宅街。と言うより、木目が目立つ長屋が押し寿司の様に密集している場所だった。
その細い路地を敏捷に駆け抜ける一匹の黒猫。その口には一尾の秋刀魚がくわえられていた。しなやかに躍動する体。それらに同調し不規則に揺れる三本の銀色の尾が、彼女が宿主である事を明示している。
「待てコラァ!」
黒猫は背後から聞こえた人間の声を一瞥すると、鬼の形相で追いかけて来る赤毛が、燃える様になびいている。そう、彼女を追いかけているのは、魚屋の店主でも、裸足で駆けてく陽気な若妻でもなく、銀色の腕を持つ北内恭介だった。
その姿に一度体毛を逆立てた黒猫は、長屋の壁に跳躍すると、更にもう一度対面長屋の屋根に跳び上がる。それを睨みながら瞳で追った恭介は、力の限り大地を踏み切ると、長屋のひさしを銀星で掴み、強引に体全てを屋根の上に放り上げた。着地の拍子に瓦がカチャリと悲鳴を上げる。
さすがに、もう追って来れはしないだろうと、黒猫は高をくくって尻尾フリフリ優雅に歩いていたのだが、背後に感じた殺気に、尻尾がピンと天を突く。
「俺から逃げようなんて、百年はえぇ!」
獲物を狙う恭介の八重歯が、吊り上がった口角によってその姿を覗かせた。それを恐る恐る振り返った黒猫が瞳で捉えると、再度全力で屋根の上を疾走し始める。
「だから、逃げんなって言ってんだろうがぁ!」
銀星のため、そして自分のため、世界に散った銀星のカケラを集め始めたのだ。それによって、今の無差別級鬼ごっこに発展したのだが、なかなか決着を見ない。黒猫にとってこの町は隅々まで知り尽くしたホームグラウンド。それ故、恭介は黒猫に巻かれる事が度々あったが、多少見失ったところで、銀星の同族レーダーが捉えてくれる。だから、エンドレス。この鬼ごっこは、どちらかが諦めるまで続くのだ。
『恭介、このままでは終わりを見ない。作戦を立てなければ永遠のイタチごっこだ』
脳内に流れた銀星の声を聞きながら、恭介は全身の筋肉を鞭の様にしならせ屋根から跳び立つ黒猫の姿を見据える。
「それくらい考えてらぁ……っと」
そう言葉を返しながら、恭介も語尾に合わせて跳躍する。着地場所は、砂利と枕木が敷き詰められた、鉄道の路線。単線のそこを、黒猫は河川敷に向けて猛スピードで駆けていた。瞬時にその後姿を捉えた恭介は、筋肉に酸素を送り込み再動を始める。
『どうするつもりだ?』
「決まってんだろ。走って、走って、あいつを捕まえる」
砂利を巻き上げ、枕木を鳴らし、恭介は加速する。
『それでは、決着を見ないと先も言っただろう』
「じゃあ、どうすりゃ良いって言うんだ銀星?」
『だから、作戦を決めようと言っている』
その言葉に恭介は軽く鼻を鳴らし、同じじゃないかと皮肉を漏らす。
「何だよ銀星。てめぇもノープランじゃねぇか」
『いや、作戦は数千ほど用意したが、恭介はどれを選択するのだ?』
「はぁ? それを今から全部説明するのか? 冗談はよしてくれ」
『ならば、君のイメージをくれ。そうすれば、それに最適な作戦を私が選択する』
銀星の提案に、恭介は「わかった」と小さく頷くと、力の入ったそのイメージを腹の底から繰り出す。
「何人たりとも俺の前は走らせねぇ!!」
時間が止まった。いや、正確には世界が呆れた。
『馬鹿か君は。それは無理だと言っているだろう』
それらの代弁となった右腕の言葉に、恭介は睨みをきかせながら言葉を向ける。
「コラ銀星。てめぇ馬鹿って言いやがったな」
『聞き分けのない君には、その単語がぴったりだろう』
「ふざけんじゃねぇ。俺はな、自分の足であいつを捕まえるんだ」
『君の意志は汲むが、それは少し難しいぞ』
「ああ? 何故だ?」
そう睨みつけた右腕が、一つ間を置き言葉を紡ぐ。
『とりあえず前は見るべきだ』
「あん?」
そう言いながら視線を正面に移した瞬間。汽笛の様な警告音が鉄橋の上に鳴り響く。正面には、時速数十キロで迫る箱型の鉄の塊。銀の車体に緑の筋を引いたその電車は、火花を散らした車輪と共に、耳障りな金属音を伴いながら恭介に向って来る。
「もっと早く言えぇ!!」
そんな悲鳴を上げながら、恭介は鉄橋から飛び退く。重力にその身を引かれた銀腕が、下で流れる水面に、一本の水柱が噴き上げた。
『無事か?』
チャプンと顔を出した恭介に銀星の声が聞こえる。それに答えるよりも、彼の頭の中は一つの事で一杯になっていた。黒い相貌が見つめる先、列車が通り過ぎた鉄橋の上。そこから自分を見下ろす金色の猫目。ずぶ濡れの恭介を嘲笑うかの様に細くなったその瞳と、秋刀魚の間からニヤリと覗いた牙が、震えるほど腹立たしい。そして、スンと転回する銀の尻尾が挑発する様に揺れた。
「ぎ、銀星……」
『どうした?』
「作戦をくれ」
『どれを望む?』
「一番確実な奴だ」
そう言い放たれた恭介の言葉。彼の瞳に明確な炎が、浮かび上がっていた。
『さあ、虎穴に入ろう』
そう言った銀星の言葉を聞きながら恭介が見上げるのは、一つのオフィスビル。全面ガラス張りで、陽光を鏡の様に反射し、輝きを放っている。鉄筋コンクリート製地上三十階、地下三階のビルの中に、あの黒猫がいるのだと、銀星が教えてくれた。そして、この中から動こうという気配は感じられないのだという。つまり……
「ここが、あいつの塒か……」
という事だ。
そのビルの中には複数の事務所が構えられている。ベンチャー企業、保険の支店、IT関連、旅行代理店から、探偵、末にはヤクザの事務所まで。混沌としたビルだが。それがこのビルなのだ。そこを塒にする黒猫は、不自然な空間を生き残る術を心得ているのだろう。本当に動物の適応力というものには感心させられる。
エントランスには、やはりと言うか、当然と言うべきか、群青色の制服に身を包む警備員が一人常駐していた。不審者に対する警戒が彼の仕事だ。ずぶ濡れではなくなったものの、よれよれの被服に身を包んだ恭介は、十分彼の仕事対象となる。
「おい君。ここに何の用だ?」
三十過ぎの警備員が恭介に声をかけた。警察官の制服とも見間違えそうなその姿に、恭介は眉間に皺を寄せた。
「ああん?」
鋭い目つきに警備員は一歩後ずさり、もしかしたらという考えが導き出される。この人間は、あの事務所の関係者ではないかと。
『恭介、くだらない事に構っている暇はない。さっさと行くぞ』
「どこに行けば良い?」
「さ、最上階です」
怯えながら零れ出る警備員の言葉。それを無視した恭介は、銀星の言葉を待つ。
『最上階? ……いや、屋上だ』
それに黙って頷いた恭介は、視線でエレベーターを探す。その姿を見た警備員が震えた指で、それを指示した。曲がり角の影になってわかりづらいが、確かにあった。恭介が目指す鋼鉄の籠が。
「ありがと」
そう軽く礼を言い残した恭介は向かう。猫又の住む屋上へ。
恭介が屋上へと続く金属製の扉に手をかけた。立ち入り禁止と大きく記された赤文字を無視した銀腕は、ドアノブを回し錆びた音を立てながら、その扉を押し開ける。鍵は、銀星の力によってすでに解除されていたのだ。
ここに至るまで少し最上階の住人と争いがあったが、それは、一方的な勘違いと、それに付随した暴力の行使で始まり、それらを振り払う銀腕の破壊力で終幕となった。凄惨な状況を作り出した恭介は、完全に沈黙したその場を通り抜け、階段を上ると、強い風が吹く屋上へ辿り着いたのだった。
そこには、空調設備の室外機及び、水道の貯水タンク並びに、それらに繋がるパイプが設置されている。一応腰くらいまでの外壁が設けられているが、その意味は希薄で、安全対策に問題が見受けられた。基本立ち入り禁止だからといっても、これは明らかに杜撰過ぎる。
そんな空間を見渡した恭介は、その外壁の上に乗りながら、自分に向けて体毛と尻尾を逆立てる黒猫が目に入った。逃げ場がないと相手も感じているのだろう。それに恭介の口角が少し上がる。
「ここが、年貢の納めどころだ」
そう、零れた言葉。だが、目を凝らせばその黒猫の後ろに、同じ毛色の子猫が三匹、猫又に縋り付く姿が見える。その姿に、恭介の頬から力が抜けた。良く見れば、骨だけになった秋刀魚が、転がっている。吐き出した息と共に、体の力も抜けた。
「何だよ……そういう事かよ。そりゃぁ、全力で逃げるわな」
この威嚇行為だってそうだ。我が子を守るための虚勢だろう。だが、それをしなくては生きていけない世の中なのだ。それを噛み締め、恭介は銀星に言う。
「どうしても、回収しなきゃ駄目か?」
『君が望むなら、それは必要としない……だが……』
銀星が言葉の続きを流し込もうとしたその時だった。残酷な風がその猛威を揮う。強烈な風に煽られた猫又は、爪を突き立て必死でこらえるのだが、その子供たちは宿主でない。コンクリートにしがみつく事などできなかった。小さな黒猫が、ビルの外へと放り出される。それは、ほんの一瞬。
だが、猫又は迷わず飛び立った。
地上三十階から舞い落ちる子猫たち。各々が空を泳ぐように四肢を動かすが、空を泳げるわけではない。
落下速度が生む風の中、足掻いているにすぎないのだ。それを追い、宙を翔け抜ける猫又。先ずは一匹、口でくわえ込む。そして二匹、前後両足を使ってしがみついた。だが、このままでは、後一匹に追い付けない。未だ彼女には扱い切れない銀の尻尾がただ揺れるだけ。このままでは、一家そろってアスファルトに叩きつけられてしまう。
絶望か、悲しみか、それとも、乾燥が生み出したのか、猫又の瞳から涙が流れ……舞い上がった。
「諦めんじゃねぇ!!」
声が聞こえた。耳を器用に後ろに回せばそれが幻聴でない事に気がつく。あの人間の声だ。赤毛と鬼の形相をした人間の声。その意味などわからない。だが、なぜここにあの人間が来ているのだ。
恭介は身を細くし、赤毛を激しくはためかせながら猫又を追う。理由なんてなかった。いや、厳密にいえばあるのだが、それを考える時間などないまま、体が動いていたのだ。
なんとか猫又に追い付いた恭介は、銀腕で彼女らを抱え込んだ。そして、更に加速をすると、残りの一匹を左手で掴み取る。そして、相棒の名を心から叫んだ。
「銀星ぇえ!」
『望め恭介。君にはそれができるのだ!』
オフィス街に生まれた光の柱。その傍らで恭介は、腕の中で眠る黒猫一家を見下ろした。銀の尻尾が子猫を包み込むように丸まっている姿が、母親の強さなのかと下唇を噛む。
「なあ銀星。屋上で、言ってたよな。“だが”って。その続きは何だ?」
緩やかな抑揚に銀星は、口調を合わせ言葉を紡ぎ出す。恭介が何を望んでいるのかは、わからない。が、事実は告げるべきだろう。
『“だが”の続きか? それは、この者を、離反者と戦わせたいのか? と、言う事だ』
銀星の言葉が心に突き刺さった。そこまで、考えた事など微塵もない。ここで吸収しなければ、いずれこの猫又は離反者と戦う事になる。そうなれば、子猫の事など構っていられなくなるだろう。いや、もしかすれば、その命を失い、子猫の下から姿を消すのだ。母がいなくなった辛さは、痛いほどわかる。例え、力を失った事で生活が苦しくなったとしても、この子猫たちには母親が残るのだ。それだったら……
流れた長い沈黙。
そして、完結を見せた恭介の思いが、今、零れ出る。
「お袋を、大切にしろよ……」