3 覚醒
「うっ……」
恭介の指が微かに動く。瞼を開ければ、剥き出しの地面が目の前にあった。意識を取り戻し始めた恭介は、神経を辿り体の有無を確認する。指は動く。爪先にも感覚がある。もちろん心臓は脈動していた。
(生きてる……)
覚醒し始めた意識で思考を巡らせる前に、腕を動かし大木の感触を確認すると、ふらつく体を制御しながら立ち上がった。しかし、どうも上手くいかない。バランスを崩した体を大木にあずけ、なんとか視線を高くする。ぼんやり見つめた視線の先には、気を失う前からそこにそびえる光の柱が辺りを照らしだしていた。
「何があったんだ?」
目を細めながら柱を見つめる恭介。冷静に記憶を遡り、気を失うまでの流れを再生すると、原因が浮かび上がった。そう、銀色の物体だ。
寒気を走らせながら反射的に自分の右腕を突き出した。おぼろげに思い出した記憶が、夢ではなく現実だった。その事を証明する証拠が右腕に巻きついている。銀色に金属の様な輝きを見せるその物体が首筋に触れた瞬間、あの電撃が全身を襲ったのだ。恭介は、憎々しく右腕を睨みつける。
「こいつが……」
そう独り言ちると、感覚がはっきりしてくる。体のふらつきも、どうやら“コイツ”のせいだった様だ。少し、右腕が重い。バランスが悪くなっているのだから、それを微調整すれば、問題ない。動ける。そう拳を握り締めた恭介は光の柱を睨みつけた。
元凶は銀色の物体だ。その原因は目の前にあるこの柱だろう。そう判断した恭介は、首を鳴らし大木から背中を離した。そして、光の柱に歩み寄る。
瞬間。
『離れろ』
頭の中で声が響いた。同時――背筋に悪寒が走る。とっさにその場から跳び退いた恭介。
今までいた空間に、牡鹿がその象徴ともいえる立派な銀色の角を振り下ろす姿が見えた。勢い余って叩いた地面が微かに震える。それを見せつける様に角を振り上げた牡鹿の黒い眼差しが、恭介を捉える。あんな一撃を受ければ、人間などひとたまりもないだろう。生唾を呑み込んだ赤毛に、鼻息荒く明確な敵意が飛んできた。蹄が砂を巻き上げる。
「何だよ、いったい」
狙われている。それしか状況がつかめない恭介。冷静に考えてみても答えは出てこない。溜め息に変えた舌打ちをしながら、次の一撃をかわすために腰を低くすると、牡鹿をまっすぐ睨みつけた。
その時……
『聞こえるか』
「ああん?」
同じ声が頭の中に響いた。
『聞こえているか、地球人よ』
聞き覚えのある声だった。離れろと忠告したこの声。この声を最初に聞いたのは確か……そう、恭介が意識を失う寸前だ。
「誰だてめぇは? お前か、鹿!」
目の前の牡鹿に向けて恭介は気持ちを吐き出す。しかし、牡鹿は相応の反応を見せない。鼻息を荒くしただけで威嚇行為を続けている。
『そうではない……私は……』
(まさか……)
頭の中に響く声に恭介は一つの可能性を突きつけるため、その相手に視線を向けながら口を開いた。
「てめぇ、俺の腕に絡みついてる奴か?」
『そうだ。が、相手から視線を外すな。来るぞ』
俊敏に反応した恭介。声が示す相手とはもちろん牡鹿だ。その相手が恭介に向け上体を反らし、天高く振り上げた銀色の角を今にも振り下ろす瞬間だった。それを、地面を転がるようにして牡鹿の脇に抜けた恭介は、素早く立ち上がり、相手との距離をとる。
「って、危ねぇ。もっと早く言えよ。この銀色」
『獣相手に目線をそらした君が悪いのだ』
「うるせぇ。そんなの知ったことか」
そう悪態をつきながら、恭介は牡鹿の瞳を睨みつけた。襲いかかろうとする動物から目線を逸らせてはいけない。そんな事は知っていた。もちろんライトノベルからの知識だったが、それを忘れるほど、恭介の頭の中には疑問符が溢れ返っていた。
なぜ、自分の右腕についた銀色の物体の声が聞こえるのか。
なぜ、自分はそれらを自然に受け入れているのか。
なぜ、自分が牡鹿に襲われなければならないのか。
次から次へと降り積もった疑問。しかし今、自分を狙う牡鹿と対峙する恭介にとって、それらの疑問は今はもう、どうでも良い。それより、何より、今の自分が許せない。
なぜ、自分は襲い来る鹿に逃げてばかりなのか。
過去に誓った信念が、恭介に拳を握らせる。
『戦うつもりか』
頭の中に声が響いた。どこか恭介に同調する声。その声に目を見開いた恭介は奥歯を噛みしめ言葉を漏らす。
「だとしたら……」
『覚悟はあるか』
「覚悟?」
眉の端がピクリと動く。
『そうだ。あの鹿の角は銀色だろう。あれは私と同じ者があの鹿に寄生している証拠だ』
「て、てめぇ。俺に寄生してんのか」
『話は最後まで聞け。本寄生されたものは通常の身体能力をはるかに上回る力を手にする。が、私は君に対して本寄生をしていない。仮寄生と呼べる状態にある。あの鹿と対等以上に渡り合いたいのであれば、本寄生を……私を受け入れる覚悟があるか? 共に生きる覚悟があるか?』
頭に響く力強い声。確認するという事は恭介に不利益を被らせるという事なのだろう。だが、今の恭介にとってその質問は愚問だ。口角を吊り上げた恭介は自分の信念を、悔しさを、口にして咆えた。
「ああ、あるぜ。尻尾を巻いて逃げるのも、あの鹿に殺されんのもまっぴらごめんだ。俺は誰にも負けねぇ! そのためだったら、悪魔にだって魂売ってやる!!」
その咆哮が大気を震わせ、感情を鼓舞させる。高鳴る鼓動が、体中を駆け巡った。
『その心、確かに受け取った!』
そう聞こえた瞬間、恭介の体に電流が流れる。満たされた感情とは裏腹に、微かな痛みを伴って体の力が抜けていく。不甲斐ない痺れの様な感覚が、再び恭介に膝をつかせた。
「な、何しやがっ……た」
気を失うほどではない。が、体の自由が利かない。こんな時に牡鹿が向かって来ようものならば、避ける術など皆無だ。恭介は必死で牡鹿の瞳を睨みつけた。しかし、牡鹿も馬鹿ではない。銀色の角が円を描き、恭介に狙いを定める。そして、一度前足で地面を掻いた牡鹿は恭介に向け突進を始めた。
重戦車が轢殺そうと迫り来る。だが、体が言う事を聞かない。これでは、ただじっと自分の死を待つだけということか。
――キョウちゃん――
「それじゃあ、意味がねぇんだ!!」
恭介の叫びが響き渡る。それと同時。右腕に巻きついていた銀色が薄い膜の様に広がると恭介と牡鹿を隔てる壁となって、地面に深々と突き刺さる。そして、その軟弱そうに見えた銀色の壁が、牡鹿の突進を甲高い金属音と共に受け止めた。
『待たせたな。本寄生完了だ』
そう聞こえたと思えば、痺れが体から消え去り恭介の体の感覚が研ぎ澄まされていく。壁越しにでも牡鹿の状況が手に取るようにわかる。まるで、壁が透けて見えている様だ。
立ち上がる恭介。一度首を鳴らすと、夜空を見上げた。本来ならば光の柱によって掻き消され、見ることができないはずの星が、しっかりと瞳に映る。
「星が、見える」
噛み締める様に零れ出た言葉。その言葉を聞いてか聞かずか、牡鹿が壁から距離を取る。それを待っていた様に、銀色の壁が微かに蠢いたと思えば、一瞬にして恭介の右腕全体を包み込んでいく。継ぎ目のない柔らかな手袋をはめた様な感覚が右腕に広がっていった。
まるで、西洋の甲冑を思わせるディテール。しなやかな曲線と、鋭角な直線が織りなすその籠手が、指先から片口までを武装する。そして、肘から上に向って特徴的な数本のパイプがシンメトリーを形成し突き出していた。
「何だ? これは……」
『武器だ。君が望むのならば、右腕は何よりも硬く全てを打ち抜く鎚であり、全てを弾く盾となった』
ファンタジーな展開に恭介の心が躍る。武器を手にした。牡鹿と対するならば、後は勇気だけだ。が、そんな心配は無用。なぜなら、彼には絶対に曲げない信念、そして、覚悟があった。
これで……という思いが、腹の底から湧き上がり恭介の口を激しく突き動かす。
「さあ来い、鹿! 男同士のタイマンだ!!」
信念を賭けた戦い。それを示す言葉と共に右腕を突き出した。気合いの入った恭介の咆哮が響き渡る。
ゴングが鳴った。
敵対心を向けられた牡鹿が、応える様に一度いななき、恭介に向けて加速する。そして、上半身を持ち上げ目一杯反り返らせると、後ろ脚で地面を蹴った。牡鹿の巨体が宙を舞い、振り上げられた銀色の角が恭介に向けて迫りくる。常人ならば腰が抜けてしまうほどの圧力だ。が、それを見据えた恭介は軽く鼻を鳴らす。
「まっすぐな攻撃。嫌いじゃねぇ」
左半身に構えた恭介は、突き出した左腕で狙いを定め、全身の筋肉を引絞って右拳という弾丸を装填する。そして、振り下ろされる牡鹿の角を睨みつけた恭介は、大地をしっかり踏み締めた。
左腕が牡鹿の角を潜り抜ける。タイミングは今だ。全ての力を集約した銀の拳を握り締め、無駄のない直線を描くと牡鹿の額に叩きこんだ。肘に突き出たパイプから、光と大気が押し出され、体を支える両足が微かに地面に沈み込む。僅かに残った腰の回転で振りぬくと、己が力の軌道を辿り、牡鹿が地面に打ちつけられる。
一撃だ。
力なく横たわる牡鹿を見据え、恭介が大きく息を吐き出した。緊張をほぐす様に肩の力を抜く。これで終わったのだ。
しかしその時、声が聞こえた。
『最後の仕上げだ』
「あ、何言ってんだ。勝負は着いただろうが」
恭介は不機嫌そうに表情を歪める。
『今は……』
含みのある言葉に、恭介の脳裏に極論とも呼べる結末が浮かんだ。
「殺すのか?」
強がりと、脅えが入り混じったぶっきらぼうな問い掛け。それを口にした恭介は、自らを嘲る様に鼻で笑う。
『大丈夫だ。殺しはしない』
心を見透かした様な返答に、恭介の思考が混乱する。この銀色はいったい何者なのだろうか。恭介の、彼の何を、どこまで深く、知っているのだろうかと。
『あの鹿に寄生した者を引き剥がす。そうしなければ、また争わなければならない。……触れてわかった。彼は今、人に対する憎悪に支配されている。憎悪を増幅させたのは、あの者だ』
淡々と語られる言葉。
何が原因なのかを告げる言葉に、恭介は怪訝な表情を見せる。「憎悪?」そう、口から出かかった言葉を彼は頭を振って飲み込んだ。何が牡鹿に憎悪を植え付けたかなど、この裏山を愛する恭介が考えればすぐに答えが出る。人間のエゴが憎悪を生んだのだ。そして、その憎悪が銀色の角によって増幅され、人間である恭介がその矛先になった。自然を侵食し、壊し、無愛想な四角い幾何学模様を押し付ける。それを、野生の動物が受け入れられるはずがない。故郷を返せ。仲間を返せ。摂理を犯した人間に罰を。滅亡という罰を与えよ。
そういった湧き上がる憎悪に、牡鹿が飲み込まれてしまう事こそ不幸だと、そう言いたげな右腕の言葉に耳を傾ける。
『すまないが、鹿の所まで移動してくれるか。抱いた感情ごと“あの者”を私が取り込む』
その言葉に恭介は、横たわる鹿に視線を移す。ぴくりとも動かない牡鹿。それに恭介は静かに歩み寄った。倒れた牡鹿を見下ろせば、後頭部から両方の角にかけて銀色の物体が絡みついている。
視線を外さずその場にしゃがみ込んだ恭介が、左手をそっと牡鹿の頬にあてる。チクリと感じる短い毛並みが掌から伝わってきた。湿気と温かさを伴ったその感覚によって、牡鹿が同じ生物である事を再認識させられる。
(ごめんな……)
何に対しての謝罪。そんな認識など彼にはない。ただ、言わなければならないと思った。言うべきだと思った。しかし、口には出せない。己がエゴを貫くと決めた自分が、それを言ってしまえば、倒れている牡鹿が無念でならない。エゴを賭けて戦ったのだ。だったら、それは口には出せない。出すべきではない。
『後頭部が接続部分だ。そこに右手を添えるといい』
頭の中に響く声。それに恭介は首を傾げるが、頭に浮かんだ疑問はすぐに霧散する。考えたところで結論は出ないのだ。ならばと恭介は、右掌を開きそっと憎悪を宿した牡鹿の後頭部に触れる。瞬間、牡鹿に絡みついた銀色が激しく輝き、液状に変化した。そしてそれが、恭介の右腕に吸い込まれるように移動し始める。
「な、何だ?」
『吸収、と表現するより融合と表現した方が良いか』
「どっちにしても、意味がわからん」