2 流れ星
恭介の家は、田舎の端に建てられた鉄筋コンクリート製の薄汚れた四階建て市営団地の最上階だ。少ない間取りの小汚い家だったが、幼いころから住みなれたこの家は、父親と恭介が二人で暮らすには十分だった。そんな家の金属製玄関扉を前に恭介は眉の端を釣り上げる。扉越しにも人の気配が感じられない。どうやら今日も、父親はまだ帰宅していないようだ。そう感じた恭介は目線を落とし、玄関のわきに置いてある植木鉢を持ち上げる。
「やっぱりな」
そう言いながら眉間に皺を寄せた恭介が、植木鉢の下に隠されていた鍵を拾い玄関の鍵穴に差し込み回す。カタンとロックボルトが移動したのを確認した恭介は、家に誰もいないとわかっていながらも、体に染みついた言葉を口にする。
「ただいま」
恭介は金属製の玄関を引き開ける。もちろん「おかえり」と父親の声は返ってこない。一人では有り余る暗い家。手探りで明かりをつけるとぼんやり世界が色を帯びてくる。飾り気のない必要最小限を基本とする灰色がかった世界に、目を細めた恭介はまっすぐ自分の部屋へと向かった。
恭介の部屋は几帳面に整頓されている簡素なものだ。灰色を基調としたベッド。ライトノベルが整然と並ぶ本棚。何も置かれていない小さな机。たったそれだけ。そして、ベランダにつながる大きな窓からは、最近になって徐々にその勢力を拡大してきている人工の光が遠くに見えた。
手に持っていた紙袋をベッドの上に放り投げた恭介は、窓を開けベランダに出る。乾いた風が恭介の髪を横に撫でた。
ここからはまだ、星が見える。恭介がベランダの柵に手をかけながら夜空を見上げると、小さな自分をはっきりと自己主張する輝かしい星々が、吸い込まれる様な黒いキャンパスを彩っていた。だが、恭介の瞳には少し滲んでそれらが映る。いつからだろうか、星が綺麗に見えなくなってしまったのは。そんな事を片隅で考えながら、夜空の中から特徴的な三連星を見つけた恭介は、特に輝きの強い星を指でなぞって線を引く。そうすると、冬を象徴する星座の代表であるオリオン座の完成だった。
満足げな笑みを浮かべる恭介。しかし、誰がその姿を見ているわけでもないのに、照れ隠しだと鼻を鳴らす。
その時夜空に、一筋の光が流れた。
流星だ。
一際大きな流星が、オリオン座のベルトに差し掛かった瞬間、夜空に閃光が走った。流星が激しく輝き、無数に別れる。一瞬の内に流星群と変化した光のシャワーが、世界を彩っていく。あまりにも幻想的な光景に、恭介は思わず溜め息を漏らした。
(奇麗じゃねぇか)
しかし、その流星の一つが光を纏い徐々に大きくなってくる。それに気が付いた時、視線が光に吸い寄せられて、動かすことができない。
(まさか……)
彼の脳裏に疑念が浮んだ。それを、補足しようと頭を捻った瞬間、青白い光が、紅蓮の炎に包まれる。疑念が確信に変わった。動悸が激しくなる。恭介の本能が激しく警鐘を打ち鳴らした。これは、大きくなってるんじゃない。近づいてきているんだ。
流れ星とは小天体が地球の大気との摩擦で発光する現象だ。その天体が燃え尽きず地上に到達すると、それは隕石になる。大きさによって衝撃は様々だろうが、脆弱な構造である人間に当たれば、それは致命傷となる。
そう頭が理解したところで、体が動かない。「逃げだせ」と命令を送っても、手をかけている柵を力一杯掴むだけで、揺れる瞳孔が迫り繰る火の玉を凝視していた。
大気が震える。ガタガタと窓ガラスが、バサバサと赤い髪が、それに合わせて激しく震えた。
恭介の瞳が赤く染まる。まるでコマ送りだ。バレーボール大の隕石が恭介の頭上――団地の屋上を通り過ぎていく。連続写真の様に瞳に焼きつくその姿は、恭介の心を激しく震わせた。
(裏山に落ちる)
危険が及ばないと知った彼の体が、好奇心を剥き出しに動き出す。柵を弾き返す様に踵を返した恭介は家の中を駆け抜け、玄関を飛び出し、通路から隕石の行き先に目を細めた。
隕石は炎の尾を引きながら、恭介が裏山と呼ぶ森に吸い込まれていく。いよいよ着弾かと恭介は身構えた。あれほどしっかり視認できた隕石だ。必ず衝撃波が来る。以前読んだライトノベルにはそう書いてあった。
瞬間、夜の闇に閃光が走り、真っ白な光の柱が夜空を劈く。
恭介は反射的に通路の手すりに掴まった。が、待っても衝撃波は一向にやってこない。音もない。唸りを止めた空気の静寂が、恭介の頭を通り抜ける。
(どういう事だ?)
そんな疑問符が脳裏に浮かぶ。しかし、それを考えるよりも先に体が動いた。開けっ放しの玄関を戻ると、ダイニングの壁に並ぶ鍵の中から目的の物を乱暴に引っ掛け、玄関からもう一度外に出る。扉は閉めない。それよりも、闇に浮かび上がる光の柱が恭介を魅了し、視線を釘付けにしていた。
(まだ、消えるんじゃねぇぞ)
二段飛ばし、三段飛ばしで階段を駆け降りる。一番下まで下り終えると、団地の駐輪場を目指し走った。
駐輪場の目印はこの団地に一つしかない街灯だ。寿命が尽きる寸前の街灯が不定期に瞬き、普段なら不快感を覚える。しかし、今の恭介にとってはその瞬きすらも、戦地に赴くパイロットに向けられたガイドビーコンの様に映り、気持ちを昂らせた。
駐輪場に駆け込んだ恭介は、父親からもらった原動機付自転車(モンキー)に跨ると、握り締めていたエンジンキーを差し込み回す。周囲に自転車などの隔たりはない。
(このスペースなら……)
恭介は、一発でキックを決めるとギアをローに踏み込み、車体を傾けながらアクセルを開けクラッチをつなぐ。後輪が煙を上げながら空転し、車体の向きが流れるように回転していく。そして、ここぞというタイミングでモンキーが地面を捉えると、ゴムの匂いと黒い足跡を残し発進した。
恭介の住む団地の裏にはうっそうと茂る森があった。その森は恭介がいう裏山であり、小さい頃はこの森が恭介の遊び場だった。その頃からだったのだろうか、ファンタジーな小説を読み漁り、自分も不思議な世界で様々な冒険がしたいと思っていたのは。そして今、ファンタジーを求めたその裏山に不思議な隕石が落ちた。これは運命なのだ。光の柱に行けばきっと冒険が始まる。そんな逸る気持ちがタコメーターをレッドゾーンに導いていく。
タイヤのブリップが整備されていた林道から、轍だけが目印のオフロードへと変わる。一瞬でも気を抜けば暴れまわるモンキーから放り出され、ただでは済まないだろう。それでも恭介はアクセルを緩めない。その勢いのまま半分埋まった倒木を飛び越えると、巧みなバランスで着地を決めた。
車体を体ごと倒し、後輪を滑らせながらカーブを曲がった恭介は、木々の間から零れてくる白い光に目を細める。
(確か、この先は……)
恭介が記憶を頼りに推測すると、この先には開けた場所があった。そこは恭介秘密の場所であり、今でも一人で星を見る時に使っている。柱のそびえるその場所が秘密の場所だなんて偶然と呼ぶには出来すぎている。だが、それ自体はやはり偶然なのだろう。落ちる場所を決められる隕石など存在しないのだ。
光を見つめる恭介の口元が、溢れ出る歓喜に支配され始める。
視界が開けた。すぐ傍を流れていた木々が離れていく。真っ白な光を放つ空間。恭介は速度を落とし、目の前にそびえる光の尖塔を一周すると、モンキーを止めた。
「すげぇ」
夜空を突き刺す光の柱。まるで、夜空に光の線を引く流れ星が、そのまま突き刺さっているようにも見える。いったいこれは何なのだと、黒い双眸がまじまじ見つめた。気が付けばモンキーを置き去りに、強烈な光を制限するよう目を細めながら、ゆっくりと柱に近づく。音もない。臭いもない。ならばこれは、と抑えきれない好奇心が、右手をそっと動かした。恐る恐る近づく掌。不器用に伸ばした五指が、輝く柱に触れた。
その時。
光の中から蛇の様に細長い『何か』が飛び出し、恭介の腕に絡みつく。
「くそ! 何だ?」
反射的に振り払おうと激しく腕を振るが、纏わり付いた銀色の物体はまるで生き物の様に恭介の腕を上る。金属の光沢をもつ物体。しかし、その動きは生物の柔軟さと自らの思考を持っているか様だ。
「離れやがれ!」
左手で銀色の物体を叩くが、金属的な抵抗を受けるだけで、効果がある様には見えない。それならばと、恭介は一本の大木に目を付け、その大木に右腕ごと勢い良く叩きつけた。多少の痛みは覚悟の上だ。しかし、ガツと鈍い音がするだけで、銀色の物体には効果がない。それだけでなく、恭介に対しての衝撃もなかった。
「何だよ、こいつは!?」
焦りと恐れが混じる声。そんな声を出しながら恭介がもう一度大木に向け右手を振りかざした時、銀色の物体の先端が恭介のうなじに届いた。と同時、歪な世界が脳裏に焼き付く。
「がああああ……」
痛みと共に、電撃が走った。視界がゆがむ。全身の力が抜け、恭介は膝から崩れ落ちた。混濁する意識の中、聞こえないはずの声が、頭の中に響き出す。
『……か。き……るか。』
(な、何だ?)
『聞こえるか?』
「聞こえ、てる……」
口の中で止まったその言葉を最後に、恭介の意識が暗闇へと落ちた。