17 星に憑かれて
[ああ、わかった。そいつの身柄もこちらへ送れ。私が直接断罪する]
受話器を耳に当て、淡々と言葉を紡ぐ青年。歳は二十代後半と言ったところか。ブラウンの長髪をがちっとしたオールバックで固めている。襟元まで閉まる詰襟の白いスーツに身を包んだ細身の男性は、青い瞳を正面に移し、デスクを挟んで武装した四人の警備兵に跪かされる自分と同じ衣に身を包んだ白髪の老人と黒髪の男性を、乾いた視線で嘲笑った。その男の名は、ケビン=ウェストサイド。W.STAR最高責任者にして、世界技術の頂点に立つ者。
間接照明によってベージュ色に染まる壁が、全面大理石である事を示す黒い斑点で、反転した夜空の様に、その空間を隔離していた。そんな部屋の空気は冷気を帯び、湿った喉が冷やりと心地よい。そう感じながら、最後の言葉を紡いだ。そして、銀色に輝くデスクに受話器を置くと少し目を細める。
[中川統括。三元日本支部長。君たちの部下は実に優秀だ。だが、あの代理は少々間が抜けた大木だったようだな]
薄い唇から彼の母国語が流暢な発音で流れ出す。言葉の意味はわからずとも、名前の発音記号は変わらない。意識せずとも皺が寄る統括は、現状を一番理解するために、打破するために、百戦錬磨の頭脳を酷使していた。
ケビンが何を聞き出したいのか、二人に見当はつく。それに言葉の意味もわかる。先の言葉もそれの前口上でしかないだろう。それを、どう捉えるか。考えたところで結末は……いや、結論は変わらないだろう。“否”だ。それだけの覚悟を持って統括は本部にやってきた。支部長も同じ意志を持つ。
北内には悪いが、“バカンス”の全容を話していなかった。自分たちの、いや、自分の目的。例え真実を告げていたとしても彼ならば同志であったと思う。が、命を賭けるにはまだ、惜しい人材だ。自分が消えた未来を担ってもらわなければならない。まだ、彼がここに連れてこられる事は想定の範疇だ。問題はない。もし最悪の事態が降り掛かろうとも、支部長がいれば自力脱出が可能だろう。彼にはそれだけの能力がある。ならば、今のこの状態でできる事と言えば、処分される前に一言二言皮肉を飛ばすくらいだ。
そう、鼻を鳴らした統括が、隣で同じ姿に固定されている中肉中背で自分より年齢が二周り下の親友に言葉を向ける。
「なんて言ってんだぁ? あの腹黒ボンボンは?」
「北内が捕まった。こちらに連れて来るらしい」
「あんのボケェ。悠長に風呂なんかはいっとるからじゃ」
統括の言葉に支部長の眉がピクリと反応した。支部長は今年六十。未だ衰えを知らない知識と肉体が、彼をまだ四十代にも見せる。だが隣にいる統括はどうだ、全ての髪が白く少なくなり、彫りの深い皺が、若い頃の面影を消してしまっている。変わらないのは瞳の力だけだ。知り合ったのは大学の研究室。それからずっと彼を見て来たが、悪戯の延長――知略謀略ばかりに長けるだけで、計画となれば全くその真意を見せようとはしない。知れば自分が傷つくとでも思っているのだろうか。いつも雲の様で、本音を語らない。それ故に、この親友がどの様な人間だという事は嫌というほど思い知らされた。
「どうしてその事を知ってる?」
低音で鋭く返される言葉。顔は正面を向かされているというのに、その視線が突き刺さる錯覚に襲われた。支部長は統括の事を敬いはしない。いや、誰も敬いはしない。それは親友となる前からの事だった。不満があれば漏れだすその威圧感たるものや、誰もその上を行く事が出来ない。親友となってからは統括に対するその行為に遠慮がなくなり、魔力がこもっている様にも感じる。北内はこの威圧感を前にして、よくあんな事を言えたもんだと、一瞬その場面が統括の脳裏を過った。だが、自分はこういった空気に慣れていない。いや、慣れてはいるが耐えられない。それに……もう隠す事はない。
「う、ちぃとな、話す機会があったもんで……」
弱々しく零れ出た言葉に、支部長の溜め息が漏れた。
「またお前は勝手に。直接の連絡は無しだと最初に決めただろう」
「なんじゃぁ。お前こそ一人で勝手に出歩きおってからに。どれだけわしが心配したか」
「お前が先にどこかへ消えたんだろうが。心配したのはこちらの方だ」
「そうだったかのぉ。最近ボケが進んで覚えとらんわ」
「お前のせいで、北内が捕まった。いったいどうするつもりだ」
「さぁの。わしゃ知らん」
「この無責任男が。今の状況がどんな状況か少しは理解しろ」
自分たちが置かれている立場を理解していない。いや、わかっていながら囀り続ける二人の日本人に、ケビンは奥歯をギリと鳴らした。
[黙らせろ]
指示に従い、警備兵が二人の首根を鷲掴みに、床へと叩きつけた。ゴツと鈍い音が聞こえる。だが、老人の口は止まらない。
「日本語で話せボケェ。わしゃ英語は知らん。あいきゃんのっと、すぴぃく、いんぐりっしゅじゃ!」
[もう一度だ]
再び鈍い音がする。しかし……
「七光りで上なんかに立ちおってからに。躍らされとる事にも気付かんか? こんの、クソボン!」
[もう一度]
叩きつけられた統括の額に血が滲み出す。
「ボケ、カス。ダアホ! プライドだけで飯を食っとる貴様が滑稽じゃ。お乳は美味いか? 高みの見物なんぞしとらんで、さっさと舞台に上がって来んかい」
[もう一度]と声を出そうとしたが、この老人はきっと、命が絶たれるまでその口を止めないだろう。そうケビンは出しかけた言葉を呑み込み、作った無表情を崩さず、相手が望む舞台に上がり込んだ。
「口が減らないお年寄りだ。スラングが強く、理解しかねるな。統括であるなら綺麗な言葉を使ったらどうだ」
統括は誘いに乗って日本語を話し出した青年に、口角を吊り上げ悪態をつく。
「使えとったら、こんなとこには来とらんわ」
「しかし、少しは敬った言葉を選ぶべきだろう。あなたの命を握っているのはこの私だ……」
そこまで言うと、言葉が変わる。碧い目が細くなった。
[さあ、こちらの舞台に上がりたまえ。古く野蛮な日本人よ]
自信に満ちた笑みがケビンに浮かぶ。だが、二人にとって効果は薄い。それが逆に、統括の口を走らせ。支部長の瞳に炎を灯す。
「何度も言ぅとろうが、わしゃ英語がわからんのじゃ!」
[よく、その口で言う。父と話す姿を私が知らないとでも思っているのか。その様な時間稼ぎは見苦しい。さあ、話せ。お前たちの目的は何だ!?]
[言わん]
沈黙を続けていた支部長が口を一言開いた。それが意外と、統括が笑う。
「やるのぅ。三元」
[あなたの方が、冷静だと感じていたのだが、どうやら感情的だったようだ]
目を細めククと笑うケビンに三元は怒りを含む切れ長の目を向けた。瞬間、目に見えない槍がケビンの体を突き抜ける。力強い瞳。そこから放たれる威圧感はケビンの顔から余裕を消した。いまだ解明できない科学を是とした能力。それを内心噛み締めると、引きつる頬が皺を作る。
[魔女の父は、魔法が使えるようだ……実に有能でしたね彼女は。組織のために戦い、その生涯を終える。しかし、β《ベータ》に殺されては、やはり無能か]
咄嗟に口を突く言葉。それは、傷つけられたプライドの復讐。怯えに対する自己顕示だ。手にしたヒエラルキーが作り出したものと言い換えても過分ではないだろう。だが、それに対して父の瞳は憎しみ色に染まる。抑えられない感情が暴走した。
「殺す」
支部長の中で閉じられていた門の閂が外れる。だが、平均的な体躯を押さえつける屈強な警備兵によって、その動きは制限されているのだ。大きな行動など起こせるはずがない。はずだった。
「よせ! 三元」
統括の制止の言葉などもう彼には届かない。瞬間、空間が爆発した。一瞬にして警備兵が吹き飛ぶ。勢い良く壁に叩きつけられた二人の大人は壁沿いにずり落ちるとその動きを止めた。それに素早く反応した残りの警備兵が支部長を、三元正勝を組み伏せにかかるが、同様に弾き飛ばされる。人の常識を遥かに超越した打撃が数瞬にして四人の男を黙らせたのだ。特殊な機械など使用していない。人に内在する力を、百パーセント使用しただけに過ぎないのだ。人間の力というものは無意識の内にセーブされている。それを、この人間は自由に解放できる。それに、組織で独自の研究成果である“気”を使いこなし武の頂点を極めた者でもあった。
迷わず正勝はケビンを目指す。その速さ、尋常ではない。一瞬にして間合いが詰まる。デスクを飛び越え、ケビンが浮かべる余裕の笑みに怒りの拳を振り上げた。
と同時。見えない壁がその行為を遮った。透明な空間に波紋が広がる。空中で静止させられた獣は怒りの牙を剥き青年を睨む。しかし、それを見返した青い瞳は優越感に満たされ波がたゆたい、快感が背筋を走る。
[やはり、魔法使い。だが、科学の前では微々たる力]
「餓鬼が!」
吐き捨てる言葉に憎しみがこもる。だが、それは相手を喜ばせるだけだ。
[あなたがいる限り力技は無理でしたのでね。まんまと罠にかかってくださり、感謝の極みでございます]
ニヤリと覗かせた性悪な八重歯が、全ての言葉を包括していた。
「馬鹿もんが……」
統括からは余裕が消える。手札のAが奪われた。計画が、目的が、白紙になった。いや、それごと破れ去られた。再び母国の土が踏めないだけでなく、目的すら果たせず消えるかもしれない。
応援で呼んだ警備兵が裏切り者を連れ部屋を出ていく。もちろんあの獣には同様の措置が施されている。最近開発された防護フィールド。γ《ガンマ》の宿主を使った実験によって強度は保障されていたが、敵となりうる最高の力に対しての実験は行われていなかった。まさかこの様な形で達成されるとは思ってもみず、完璧な力を確信したケビンの内から歓喜が声となって溢れ出した。
[時代遅れの力にいつまでも固執するからいけない]
部屋中に響き渡る感情の嵐。その中、ケビンの背後――照明の届かない暗闇の中から一人の騎士がその姿を現す。
「結局俺の出番はなかったな」
そう言葉を零す銀色の騎士。全身を西洋の甲冑に似た鎧で身を包み、特徴的な一本角を突き出す兜によって、その顔は見る事が出来ない。だが、声や口調から、それが男性だという事だけは判断できる。
「当然だ。γ《ガンマ》の力を越えるものなど、この世に存在しない」
その声を聞き騎士の鎧が音を立てた。彼の言葉は矛盾していない。ただ、言葉が飛躍しているだけだ。が……
「ならば、試してみるか。今度は全力だ」
低く絞り出された言葉に、ケビンは背筋が凍るのを感じる。
「必要ない。もう敵はいなくなったのだ。今はまだ必要ない」
破壊されるとは思っていない。だが、可能性が否定できなかった。そんな笑みを浮かべたケビンに、騎士は握り込んだ拳を解く。
「まあ良い。その時は砕いてやる。この拳でな」
そして、突き出すように握り込んだ。
その時だった。警報が鳴り響き、デスクに備え付けられたホログラフ投影型の通信モニターが起動する。中空に四角く画面が照らし出され、その中に映った金髪碧眼の女性オペレーターが現状を報告する。
〈総監。所属不明機が高速で接近中です〉
[迎撃しろ。その権限は我々にある]
〈ですが……〉
[どうした]
〈あまりにも高速すぎ、予定空域での対応が間に合いません〉
[何だと]
間に合わないとはどういう事だ。ケビンの頭に疑問が浮かぶ。本部と連携する基地には高性能対空索敵レーダーが配備されているはずだ。最大半径三百海里(約五百五十キロメートル)のレーダーで捕えて間に合わないとは考えられない。
[緊急発進だ。空域の問題など何とでも説明してやる。最新鋭無人戦闘機をだせ。撃ち落とせ!]
〈了解〉
そう言って通信は切断される。いったい何が近づいて来ているというのだ。記録を遡ってみても、該当する科学が見当たらない。行き過ぎた科学力。まさかとケビンにある考えが過った瞬間、騎士の口が動いた。
「γ《ガンマ》だ」