13 星の知らせ
バスルームで一通り体を洗い、衰えを見せない体躯を鏡に映してポージングした後。さあこれから湯船につかろうかといったまさにその時、道三の耳に仕事関係の連絡を意味する音が聞こえ始めた。
昔懐かしい黒電話を意識したその着信音が今はとても耳障りだ。眉をひそめ口元を歪ませると、脱衣所に置いてあった携帯電話を手に取り、発信者を確認する。どうやら相手は登録していない番号らしい。そういった状況にある者と考えれば、大体の察しは付く。だが、それでも、バスタイムを邪魔された事の方が上を行った。
道三は生活防水が施されているその携帯電話をとりあえず湯船の中に放り込む。着信音がお湯の中で遠くなった。しかし、電話の着信は止まらない。一つ溜め息を吐き出すと、自らの体も湯船の中に入れ電話を拾い通話ボタンを押して耳へ当てる。
〈やぁっと出おったか! この馬鹿もんが!〉
いきり立った老人の声が鼓膜を震わせる。どうやら予想通りの相手だったようだ。直接のコンタクトはしないと決めていたはずなのに、この老人はまったく。孫娘に何か吹き込まれたのか? と、狭い湯船で体を小さく纏めた道三は、面倒臭そうに口を開く。
「何ですか統括。私は今バスタイム中ですよ」
〈なぁに言っとる! 大事な仕事ほったらかして何しとるか!〉
「だから、風呂に入ってるんです」
水面から突きだす収まりきらない膝に、フウと息を吹きかけながら再度現状を示す。
〈そんなこたぁ、わかっとるわ!!〉
必要以上の音量でまくしたてる統括の声に、道三は無言で通話音量を下げた。
「わかってるんでしたら、声を荒げないでください。血管切れて死にますよ」
〈こんのたわけが! 大声を出さずにおられるか! 今の時期がどれだけ重要かってことぉ、きさんはわかっとぉのか!? あ!?〉
「わかってますよ。今がどんな時期で、どんな状態にあって、あなたの孫娘がとんでもなく優秀で、あなたが爺バカだって事もみ~んなわかってます」
〈だったら尚更じゃ! さっさと仕事に戻らんかい!〉
皮肉も全て認めるのかと、口元を緩める。が、このままでは話が先に進まない。そう感じた道三は、話を切り返す。
「わかりました。すぐに戻ります。でも、その事を言うだけに鳴らした訳ではないですよね。で、どうですか“バカンス”の方は?」
〈本当につまらん事ばかりじゃ。招集しおったくせに、会議の“か”の字も出てきやせん。γ《ガンマ》のお披露目は無理そうじゃのぅ。どうも、今回のバカンス、一筋縄では行かんみたいじゃわ。支部長と一緒に動きまわってはおるが、そろそろここが限界かもしれん。大目に見とった本部の雲行きが怪しくなってきとるわ〉
その言葉で空気が変わった。ある程度予測できていた事だけに、道三の表情があからさまに曇る。
「やはり……ですか。骨折り損のくたびれ儲けとならない内に、残念でしたねと切り上げましょう」
〈そうしたいのはやまやまじゃがな。あ奴は言う事を全く聞こぅとせん。我が子が絡めば盲目にもなろう。ホントに幸せな子供じゃて〉
「そうですか……お義父さんにも無理はしないようお伝えください」
〈無理無理。無理じゃわ。いくらお前の言葉だろうが聞く耳持ちゃぁせん。もちろんわしもじゃがな〉
「なら少しは、自分の体を考えて、新しい研究材料でも探してみてはいかがです。帰ってから研究員が熱を上げるくらいのものが本部にはあるでしょう」
〈そんなもんありゃせん。わしが惹かれるのはここの情勢くらいじゃわ〉
「情勢ですか?」
〈おお、いつにも増して殺気立っとる。原因はやはりβ《ベータ》かのぅ。再動など見せおるから、彼奴らの欲望を駆り立てよるんじゃ。また、それをじゃ、挿げ変わった若い頭が黙認しよる。あの腹黒ボンボン。どうもわしは好かん〉
「まあ、仕方のない事です。お偉い方も人間だったって事でしょう」
〈それではいかんのだ。いずれ組織の意義を忘れ、暴走するやもしれん。そうなればβの宿主も被害は免れんぞ〉
ほぼ核心を突いた言葉。この電話も本部の回線を利用して架けているのだろう。本部による盗聴を懸念すれば、この言葉など選ぶ事ができないはずだ。それをしないとは到底思えない。それでも、統括はそれを口にした。つまり、事態はそこまで押し迫っているという事だ。
「統括……。私にいったい何をしろと?」
〈さあの、わしの口からは言えん。が、それをするだけの権限は渡してあろう。それにだ。わかっている事をわざわざ聞くな。何時からの付き合いだと思ぅとる。お前が優秀で、一介の学者でない事などとぅにお見通しじゃ。どうせ、風呂なんぞ口実。既に行動を起こしておるのではないか?〉
その言葉を聞いて道三は鼻を鳴らす。どうも、この引退間近を匂わせる老人は道三を買い被り過ぎている。とは言い切れない様だ。ここまで図星を突かれると逆に清々しい。それにこの状況だ。よほどの無能でなければ、間違いなく手を打ってくる。不利な状況まで利用して、道三の選択肢を消し去った。
「買い被り過ぎですよ統括。今の私にできる事は、悪ガキの尻を引っ叩くくらいです」
〈そうか、なら、期待せずに待っている。だがな、これだけは言っておくぞ、わしの可愛い孫娘は絶対――〉
統括がそう言った所で、通話が切断される。一方的な切断だ。どうやら、もう、後には退けないらしい。それに、時は一刻を争う様だ。
「俺も覚悟を決めるか……」
最後に零れ出た言葉。それを噛み締めて、道三は湯船から上がった。
脱衣所には、先ほどまで纏っていた服と、アタッシェケースがある。どうやら、鍵は開いていないし、壊されてもいない。もし、顔も合わさず渡す事が出来たら。どれだけ楽だっただろう。この中に眠る記憶。それについて語らなければならない。そう思うと、服を着る手が時々止まった。