11 W.STAR
〈銀星ぇ~スターラートォー!!〉
暗室の中で、壁一面所狭しと並べられたディスプレイに銀色の右腕を振りぬく少年の姿が映し出される。対する相手は一頭の虎。腹部を異常なまでに膨らませたその虎は、通常では考えられない物理の法則を描きながら少年に打ちのめされた。ふと、その少年の姿が、過去に焼きついた最愛の人と重なる。まさかと思い瞬きをすれば、それは幻の様に消え、最初の画面が映し出された。
それを見据える二つの瞳。瞳孔にその映像が映り込む。光源が少し強いと細くした目が、男性の眉間に皺を寄せていた。学術的な驚愕はない。自分は物理学者でも、動物学者でもなくただの天文学者だ。先の映像を見たところで、理論的な疑問は何も浮かばない。ただ、撮影された日付から、一週間前にこんな事があったと納得するだけだ。そして、あの幻は心の内が見せた白昼夢と考えるのが、合理的か。
そう言い聞かせる様に鼻から息を抜き出した男性は、腰かける黒い革張りの高級な椅子に全体重を預ける。長身で筋骨隆々、もうすぐ五十を迎えるというのに、ホワイトカラーと言うよりブルーカラーが似合うその体をギイと鳴いた椅子の感触で確かめると、無精が伸ばした黒い頭髪を掻きむしった。
その時、暗室の扉がノックされ、室外にも設置されたスピーカーマイクとリンクしている同様の物から女性の声が流れ出す。
〈室長兼、統括代理兼、臨時日本支部長兼……〉
律義に全ての肩書を綴っていく凛とした声。このままスピーカーの性能を堪能しようかと考えてみるが、最近になってどこまででも増え続ける兼務の肩書にうんざりし、男性は手元のボタンを押しながら口を開く。
「もういいから、さっさと入って来い」
同時に暗室が光に包まれる。扉が開くと室内の蛍光灯が純粋な光を放ち始めたのだ。十数畳ほどの部屋。そこには男性が座る椅子と対となった浅黒く重厚な机。整然と書籍が並ぶこれまた光沢のある重厚な本棚。統一されたそれらだけがある室内。どう考えても持て余しているといった感じが否めない。
男性がその机の方へと椅子を半回転させる。その背後で壁掛けディスプレイたちは、左右から展開される壁に隠されていく。机越しに男性が入口を見据えるとそこには先ほどの声の主、中川佐和子が、まるで秘書のように書類ケースを小脇に抱え、昨日とは異なる灰色スーツに身を包み、長い黒髪をアップにした姿で立っていた。少し前までは男性と同じ白衣を羽織っていたはずだ。それに、去年二十四歳で大学院からここに来た彼女だ。いったいどこにそのレパートリーがあるのかと女性の神秘を考えさせられる。
「で、どうした? また俺の肩書が増えたのか?」
面倒臭いと投げかけられる皮肉を、佐和子はツンと澄ました表情で受け流す。そして、男性の机まで進むと書類ケースから数枚の書類と、しっかりとした紙に堅苦しい文章が並ぶ一枚の書面を差し出した。
「室長兼、統括代理兼……」
「今まで通り室長で良い」
再び重ねられそうになった長ったらしい肩書は聞きたくない。と言うよりそれをいちいち聞いていたら進む話も進まない。
「そうですか、わかりました。それでは室長。内閣総理大臣から委任状が出ました。こちらから申請するより早かったので、限定の条件は付きますが、こちらの目的としては十分すぎる内容です」
「ほう」と、その委任状に目を通した男性は「これで、世界征服もできるな」と冗談を飛ばすが、彼女はクスリともせず真面目な瞳で男性を見る。冷えかけた空気をとりあえず鼻息で吹き飛ばした男性は、手に持った委任状を無造作に机に放る。
「で、あれか。統括やら支部長が帰国するまでは俺が、この肩書も持つことになるのか?」
「そうです。肩書だけではありません。しっかりと働いてもらいます」
どうも、今現在すら働いていないと言いたげな彼女の言葉に男性は怪訝な顔を作る。
「働いているだろう? 俺だってここ三日は家に帰っていない。それに風呂に入る暇をおしんで現状の把握をしているぞ」
そう聞いた瞬間。佐和子は無言で一歩下がる。崩れそうになった表情をプライドが繋ぎ止めた。
「お、お二人は、あと一週間は戻られません。ですから、室長。せめて最低限の執務はこなしていただけないと……私が統括からお咎めを受けてしまいます」
「あの爺。まだバカンスを決め込むつもりか」
「バカンスではありません。この度のスターライト発生に伴い、本部の招集に応じられているだけです」
「あ? 俺ぁそんなこと聞いてねぇぞ。一言『バカンスじゃ』って言い残して二人とも消えやがった。どういうことか説明してもらえるか。統括孫娘中川佐和子君」
男性の言葉に一度溜め息をついた佐和子は、自分の祖父が結構いい加減な仕事をしている事実に頭を痛める。いや統括である祖父だけではない。支部長である祖父の親友も同じだ。この状況で、二人の言葉を疑わなかった目の前の室長も同じ穴の狢。似たもの三羽ガラス。事は一刻を争うかもしれない事態であることをトップスリーはちゃんと理解しているのだろうか。
「わかりました。祖父の不手際もあります。私が知っている限りの事を説明します」
そう言うと佐和子は内ポケットから一冊の手帳を取り出し、金属製の枝折りを目印にページを開いた。
「β《ベータ》が再動を見せたそうです。原因は今回のスターライトというのが本部研究員の見解だそうで、そのために統括と支部長は招集されました。また、現状についての報告会も重なっています。今回のスターライト。やはり十一年前で確認されたスターライトと同様ですが、規模が世界規模となっています。酷似するのは二十二年前のスターライト。若しくは、それ以前にあったと思慮されるスターライトです。ほぼ全てのスターライトからγ《ガンマ》を回収していますが、一部はもうすでに寄生を完了している模様です。そのためいくつかの事件が発生。なんとか情報操作で抑えてはいますが、時間の問題でしょう。その対応を含め委任状が発布され……」
淡々と進む説明。男性は自分の知識と比較しながら、正確に紡ぎだされるその声に耳を傾ける。男性たちが所属している機関。それは、非公開の世界規模組織だった。その正確な創立は定かではない。世界各地で古より存在してきた科学技術機関。それが三十年ほど前に統一され、“世界科学技術研究対策機構(W.STAR)”といった長々しく訳のわからない名称が生み出された。主な役割として、時代にそぐわない、行き過ぎた科学技術を規制し、秩序の維持や人間の退化を防止するのが根底にある。何故それが必要か、それは地球外生命体の技術や、過去魔法や錬金術として語られていた技術が世界に流通してしまえば、扱う人間がついていけず世界の崩壊が起こる。だから、存在するが公開できない技術を管理・把握・研究しレベルが達したものを世界へ配信する一種の緩和装置としての働きが主だ。そして、その副産物である世界機密の集まりがこの“W.STAR”であり、最先端の技術を扱う研究者の集まりが“W.STAR”なのだ。
そのW.STARの中でも、専門研究員でなければ、他の技術を知ることができない。それを知ることができるのは、本部及び各支部の統括及び支部長だけだ。男性は室長という肩書だが、何度もトップ二人の代理や臨時で役職に触れることから同様の知識を得ている。
なのに、統括は孫娘にそういった機密を全て伝えているようだ。信頼しているのか、爺バカなのか、もう少しこの機関の存在意義を理解しろと男性は心の中で悪態をつく。そこで統括孫娘の説明が終わり、パタンと手帳が閉じられる。
「……以上です。何か不明瞭な点はおありですか?」
「さあな。俺も知らない事が含まれてちゃ判断の仕様がないだろう。あの爺は君に全てを話したみたいだからな、それが全てなんだろう。まったく、世界規模の守秘義務もあったもんじゃない」
そうやって、皮肉を言った男性はおもむろに立ち上がり、羽織っていた白衣を脱ぎ机の上に放り投げた。その姿を見ていた佐和子が目に見える溜め息をつく。
「どうされたんです? 仕事される気になりましたか?」
「ああ、仕事する。だから、風呂入ってくる。ずっと一歩離れた距離にしか君がいないのはどうもやる気が出ない」
「な、何言ってるんですか室長。わ、わ、私が近くにいなきゃ仕事できないってセクハラですよ、セクハラ!」
室内に佐和子の顔から動揺が広がる。どうも、こういった事には慣れていないようだ。それをわかって男性は口を開いたのだから、その姿は思惑通りといったところか。顔を真っ赤にして初心な表情を見せる佐和子を尻目に、男性は着々と支度を進める。
「じゃあ、後は頼んだ。ささっと行ってくるから、気長に待っていてくれ」
「な、何言ってるんですか!? お風呂なんていいですから今すぐ仕事してください!」
そうやって詰め寄る佐和子が机を一度バンと叩く。その顔を真面目に見つめ返した男性はニヤリと口角を上げ囁くように言った。
「実はな、一週間風呂に入っていないんだ」
それを聞いた瞬間、統括孫娘は素早く後ろに三歩下がる。その隣をアタッシェケース片手に通り過ぎた男性は背中越しに右手を上げると「大丈夫だ。明日には帰ってくるさ」と言い残しその部屋を後にした。
一人残された佐和子は、腹立たしい気持ちをもう一度机に叩きつけると、防音を無視し大声を上げた。
「あんの、三バカ!!」
揺れた時計が、黙って夜の七時を告げている。