9 スターチャイルド
天使の翼を大きく広げ、垂直に降下する恭介。推力を生みだしている数本の噴出口から爆発的な空気が一度に押し出される。
「間に合え!」
重力すらも推力に加え、恭介が吼えた。視線の先には振り下ろされる魔剣が弧を描き始めた瞬間がある。だから言ったのだ。その力は一色の手に余ると。的中した予想に舌打ちをする暇すらない状況がもどかしい。
「銀星!」
『望め、最高の結末を』
言葉が弾けた。瞬間。いや、刹那だ。すでにその意味をなさなくなっていた天使の翼が肥大変形し、魔剣の進路に立ち塞がった。アスファルトを貫いた銀色の棍によって横薙ぎの斬撃が、光を放ち受け止められる。
「なんだよ! これは!」
状況が理解できない一色。苛立ちが声となって大気を震わせる。だが、その余韻を踏み潰す様に、棍を伝って恭介が降ってきた。空気が押し出され、風が同心円状に広がる。足の屈伸を最大限に発揮し、衝撃を緩和する恭介の姿を見せつける様に時間が止まった。
挿げ変わる前であった目標の“敵”が目の前に現れ攻撃を受け止めたのだ。予想だにしない展開が、一色の思考を混乱させた。
固まったまま動かない周囲を尻目に、恭介は立ち上がる。そのゆっくりとした動きは、この世界に降臨した救世主を彷彿とさせ、夕闇に降り立った勇者の様だった。
その勇者が魔剣を揮う少年を睨みつけると、周囲の時間が動き始める。我に返った一色が小学生とは想像できない跳躍を見せ、後方へ下がり恭介との距離を取った。
「何しに来たのさ、おじさん」
平静を装う相手の言葉を鼻息で吹き飛ばした恭介は、足元に転がる涙でぐしゃぐしゃになった表情の少年を一瞥すると、眉間に皺を寄せながら踵でその少年を軽く蹴った。簡単な合図だ、早くこの場所から逃げ出せ。安全な場所へ離れるんだと。
恭介の合図を理解したのか、少年たちは一目散に逃げ出す。何度も何度も転びながら必死で逃げ惑うその背後を一色がキャッキャと笑った。その姿を不機嫌な表情で睨み返した恭介は、奥歯を噛みしめると、込み上げる怒りを抑え込み、静かに淡々と言葉を紡ぎだす。
「おいたのすぎたぁ、ガキンチョに、教育的指導だ。……なぁ銀星」
その言葉が向けられると、翼と棍が形を崩し、恭介の右腕を優しく包み込む。西洋の甲冑を模した最強の鎚がその姿を現した。その右腕をゆっくり前へと差し出した恭介は、遠近法で掌に乗る一色をきつく握り込む。
「だったら、邪魔しないで。そいつらは僕の獲物だ」
「ああ? 指導が必要なのはお前だ。そんな物騒なもん振り回して、お前はいったい何がしたいんだ? 勇者になることか? それとも、個人的な復讐か?」
見透かされている。どうして、わかるんだ。この人間は自分の事なんて何も知らないはずなのに。一色がさらに一歩後ろに下がった。それを見据えた恭介の口角が少し上がる。
何でもわかってる。そんな態度が気に入らない。それなのに自分の邪魔をするのか。一色の中に初めて恭介に対する明らかな怒りが生み出された。
「違うよ。僕の目的は強くなる事だ」
「無抵抗な相手をいたぶる事が、強さなのか」
「違う、違う、あいつらは僕をずっと……」
いじめてきたんだ。最後が言葉に出せなかった。相手の意見を肯定してしまうからではない。ただ、その事から自分が弱い事を露呈してしまう虞がある。だから、弱いところは見せられないと、一色はそう下唇を噛み締める。悔しさが、怒りに変わり、少年の目つきを一変させた。
「ずっと……どうした」
たたみ掛けるように一色を馬鹿にした恭介の声。彼の思わく通り精神的に追い込まれた少年が、感情を爆発させる。
「うるさい。うるさい。うるさい! わかった事言うなよ。何も知らないくせに。僕には力がいるんだ。誰にも負けない強い力が。だから、こんなところで立ち止まっちゃいけないんだ!」
魔剣の切っ先が相手に向けられる。それを見据えながら、ゆるんだ口元をゆっくり動かし、恭介は低音を響かせた。
「そうか。じゃあ、相手してやるよ。お前の持ってる力全部でぶつかってこい。その全てを全力で否定してやる」
挑発するように右腕を突き出した恭介。予感があった時から決めていた。こいつは、この少年は一撃で終わらせてしまってはいけないと。
恭介の挑発に一色は激高し魔剣を掲げる。彼を象徴する力。その力を見据えて恭介は吼えた。
「銀星!」
『手はず通りだ』
確認と同時に振り下ろされる力。その切っ先部分を、微動だにせず右手で受け止めた。逃がさない。握りしめられる刀身。押しても引いてもがっちりと固定された魔剣が一色の気持ちを更に昂らせた。
「切れろ。切れろ。切れろぉ!」
瞬間。固定されていた抵抗がフッとなくなり、魔剣がアスファルトを切り裂く。切ったのだ。自分の方が強かったのだ。そういった確信が、口元に笑みを生む。
ざまあみろ。そんな眼差しを恭介に向けた一色の表情が、その姿を見て一変する。まったく変わらない姿。さっきまで魔剣を掴んでいた銀の掌には、切っ先部分がそのまま残っている。つまり、切れたのは、いや、折れたのは一色の力の方だった。
『良いんだな?』
「ああ、頼む」
銀星の確認に恭介は口元だけで頷いた。すると、魔剣の切っ先が形を崩し、右掌から融合される。少しの重さが加わると同時、脳裏にフラッシュバックのごとく、一色の記憶が流れ出す。途中サブリミナルで広がる彼の心。誰にも見せない深い、深い位置にあるもの。復讐でも、いじめでも、妄想でも、憧れでもない。それは……
「そういう事か……」
恭介は、これを最初から望んでいた。以前、銀星に取り込んだ相手の感情などはどうなるのかと聞いた時、返ってきた回答――『気を失っているときは、知識と感情のみが私に引き継がれる。しかし、そうでなければ、君にも同じ事が起こる』――を利用したのだ。言葉で聞くより正確で手っ取り早い。
一瞬で一色の全てを知った。その寂しさと、飢えに、恭介は奥歯を噛み鳴らす。
瞬間。
「返せ! 僕の力を返せよ!」
一色の言葉が斬り上げてくる。それを、体を開きながらかわすと、逆手にした右掌でそれを受け止めた。もう一度、強く握りしめる。ギリリと擦れた金属音。瞬間、甲高い音を響かせて魔剣が半分に破断れた。
その事が信じられない。認めたくない。まるでスローモーションの様に流れる世界。扱いきれない力で振り上げた自分自身が宙を舞った。夕日が眩しい。だからではない。信じた物が壊されていく。そんな心が、涙を生んだ。
「どうした。それで終わりか」
恭介の言葉に、怒りはない。どこか諭す様にも聞こえる優しい声。それを聞きながら一色は瞼を閉じた。アスファルトに打ち付けられた背中が痛む。もう、いやだ。戦いたくない。
「い、いやだ……」
零れ出た弱々しい言葉。
「ああ? 聞こえねぇ」
「いやだ!」
心の底から放たれる言葉。その言葉に、恭介は激しく喉を震わせた。
「立て! 立って俺を見ろ! じゃなきゃ、誰もお前を認めちゃくれねぇ!」
一色の核心部分をえぐる言葉。それが、彼を苦しめる。それが、彼を奮い立たせた。
「うるさい! 僕は、僕は、僕はここにいるんだ。空気じゃないんだ。あんたに何がわかるってんだ!」
悲痛な叫びが響き渡る。右袖口から刃渡りが半分になった魔剣がその切っ先を作り出す。気が付けば、一色は恭介に向って駆け出していた。魔剣の切っ先を、まっすぐ突き出し、直線を描く。目指すは、相手の力。
「銀星……」
『わかった』
恭介は動かない。銀星も動かない。ゲシュタルトの切っ先が、銀色に輝く二の腕を貫いた。剣を通じてでも感じる肉を貫く感触。ひどく重い。あんなに軽やかに振るっていたゲシュタルトがそれ以上動かない。いや、動かせない。
銀の腕から流れ出る、赤く輝く液体。生物の証。それが銀の刃を伝い、一色の下へと滴り落ちる。揮った力の結末。癒される事のない心が、もう動かさせない。悔しさじゃない。悲しみでもない。どれにも当てはまらない感情が、頬を伝う。
「これが、お前が求めた力だ。一色」
一色の頭に恭介の大きな左掌が、包み込む様に置かれる。
「嫌だろう。つまらないだろう」
嗚咽を漏らした一色が、一度頷く。涙があふれて言葉にならない。
「強さってのは、腕っ節だけじゃねぇんだ。傷つく事を恐れずに、気持ちを伝える事だって強さだ。弱さを見せる事だって強さだ。甘える事だって強さだ。自分の気持ちを抑えて我慢する事は、強さじゃねぇ。白木一色。お前が本当に望んでいる事はこんなことじゃあねぇよな」
心に沁みる優しい言葉。もし、この人にもっと早く出会っていれば、自分は今の様な思いはしなかったのだろうか。いや、それはただの妄想だ。幼い自分が今の言葉を聞いたところで、何もわからず微笑み返しただけだろう。今の自分だから、こんなにも心が痛いんだ。
『恭介……』
「わかった」
銀星が右腕から左腕へ移動する。それを確認した恭介は、銀色に変化した掌を、そっと一色のうなじに添える。瞬間、一色の意識が安らぎの表情と共に断ち切られた。