表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

華里

作者: 五十嵐 紘
掲載日:2020/05/01

 華里はただ歩いていた。まっすぐ前を見つめて。一歩一歩、床に擦れる足袋の音をきかせながら、膝頭に力を入れて、歩いていた。

 朋輩も、男衆も、見知らぬ客も、世話焼き婆さえも、いつまでたっても少し奇異な目で彼女を見る。

 華里は美しい。この見世で、常にとは言わないが最高位を占める女郎である。その衣装の華やかさは旦那衆の質の良さを伺わせ、それが彼女の容姿を見事なまでに映えさせている。いかにも花魁らしい華美はあるが、その実どこかしっとりと、やや控えめとさえ言えるその衣装は、かえって華里のはっとするような色気を照らし出す。

 渋目の色味、ただし柄は華やいで、何とも言えない妖艶いろ味を映す。金にあかせた金糸・銀糸は極力使わず、ただ職人の手の確かさだけで様子を保つ独特の衣装。もしかしたら彼女には、あまりに華美な衣装は似合わぬのかもしれぬ。どこか垢抜けない、それでいて質のいい「はざま」が彼女を引き立たせているのかもしれない。

 その衣装の引いた味さえ除けば、華里は他の花魁と特に変わるところはほとんどなかった。ただひとつ、その足元をさえ除けば。

 彼女の足元は、常に足袋で包まれている。春・夏・秋・冬。季節は問わない。抜けるように白い足袋が、常に彼女の足を柔くくるんでいる。


 えてして廓の女は、足袋を好まぬ。「にんにくを剥いたような」つるりとしたかかとが、その自慢のひとつになるだからだ。暮らしに詰むことなく、ゆるりと湯に浸かり己を磨く。それができるのはある意味、高級遊女の特権だ。その裏にたとえ、歯をくいしばるような日々であったとしても。そんな、もしかしたら誰も見ないような場所を美しく保つことで、彼女らは自らの矜持を得ているのかもしれない。

 無論華里といえど、例外ではなかった。ただそれを、人に見せることを拒んでいただけのことである。どちらかといえば素直な、人の思いをただ受け入れるだけのような線の細さがあるにも関わらず、彼女は足袋に関してだけは頑なだった。

「何をしようと、足が寒くて堪えられぬのでござんす」

「ほんの少しでもかかとを晒そうものなら、たちまち〝割れて〟、見苦しうござんす」

「たまにはこんな女郎がいるのも、オツなものでござんしょう」

 言葉を変え、意図を変え、華里は〝言い訳〟を繰り返す。

 そう。それは多分にして、言い訳でしかないものと誰もが考えているのである。


 その昔、華里には深く言い交わしたいろがいた。金も身分もない、ありきたりな悲恋の物語。ただその男は情に厚く、いや、情に濃く。手の届かない華里を想ってやまなかった。いくら想いをかけても、相手は花街、廓の女。叶うことはないと知りながら、それでもただ一途に彼女を思った。そして男は男だったから、半年一年、細々と金を貯めてはほんのわずかな時間を買った。願うほどに逢瀬が叶わぬぶん、文を書いた。もっとも、たかが文とはいえ、華里に宛てるにふさわしい上質の紙は高値だったから、そうたびたびは送れなかったのだけれど。

 言ってしまえば、そんな男はいくらでもいた。華里の周りには、今もいる。しかし、その男の何が響いたのか。たったそれだけの、手管とすら呼べないような拙い思いの発露が、華里の心を動かした。

 そしてあとは、お定まりである。ポツポツとした訪れと、文。それに我慢が足りなくなると、華里は自分持ちで男を呼んだ。売れっ奴であるために、昼夜を通してというわけにはいかない。昼見世か、あるいはふと客足の途絶えた大門が閉じる寸前か。ただ切ないことに、男にも仕事がある。惚れた女のためそんなものはうっちゃって、という男でもなかった。だからこそ、華里の招きに毎回応えられるはずもなく、それがいっそう切なさを増した。

 まれに会えれば二人は語り、枕を重ね、ただ泣いた。

 廓では、馬鹿だと言われる行為だろう。もっとも、その馬鹿をする者は決して少なくはなかったのであるが。


 その頃のことである。華里は足袋を離さない癖をつけた。それまでは、朋輩同様足袋は履かない女だった。当時を知る古参客は、懐かしそうにその足を語る。

 つるりとしてねぇ。いや、そんななぁいくらでも廓にいるが、ちっと小ぶりで、ほっそり華奢で、だけどどこかぷくりとしたかかとだったよ。もっとも昔から、あまり足を見せるのは好きではなかったようだがねぇ。だからこそちらりと覗けりゃお宝さ。どこぞの客が一度、褒めたことがあったそうだがね。華里はただ、「やめてくんなまし」とだけ言って、ふいとあっちを向いちまったそうだ。むろん、すぐに足を隠してね。だから……

 ひとつ、噂がある。

 先のことを語っても、どうにもならないことは二人ともわかっていた。身受けなど夢のまた夢、年季を終えても華里の借金は残るだろう。そうなれば、小見世へ、河岸へ、四宿へ。いっそ夜鷹にでもなってしまえば、お前さんといられるのかも。暗い微笑を浮かべながら、ひっそり言ったという話も聞く。とはいえ、見世の看板のひとりであるとの誇りは備えた彼女だったから、それはやっぱり嘘だろう。

 そして。これこそ、嘘か本当かわからない、まっすぐな噂である。

 男の手が、華里の足を傷つけた。優しい男だったというから、にわかには信じがたい。しかし、優しい男だったからこそ、それをしてしまったかもしれぬ。信じれば、それは証だったのだろう。見ていいのは、触れていいのは、知っていいのは自分だけ。見ていいのは、触れていいのは、知っていいのはお前だけ。

 商売物に傷をつければ、それ相応の謝罪をせねばならない。しかしこちらは、とんと噂になってはいない。だからそれはあくまで噂。華里も、忘八も、誰も語らぬことである。

 もとより、足を見せるのを好まぬ女であったから、いつから足袋を欠かさぬようになったか、はっきりしたことは誰も知らない。気づいたら、その足元はいつも白く彩られていたということだ。はじめのうちはいろんな者が「そんな無粋なものはお止め」と諌めていたということだが、普段素直な華里は、その言葉をことごとく無視した。珍しいことである。

 そして正直、金がかさんだ。売れっ奴女郎が薄汚れた、あるいはくたびれた足袋など身につけていられるわけがないではないか。まるでどこかのお大尽のように、二、三度身につけたら新しいものを用意する。たかが足袋とはいえ、そうしょっちゅう購えば金もかかろう。それはそのまま、華里を縛るたがのひとつとなった。


 見世うちの他の女郎は、半分笑って、半分気の毒に、華里を見ていた。どこぞの見世から流れてきた新参の、目つきのきつい女がひとり堂々と言いのけたこともあったという。

「市中の娘っこですら、にんにく剥いたようなかかとを自慢にするご時世さ。それが廓ともなりゃぁ足袋なんぞ履かないで、着物の裾から覗かせてやるのが常套だろう。なのにあんたぁどうしたね。そんな無駄金使ってさ、おかしな噂を立てられてさ、挙句にその男はどうしたい? あたしゃここに来てまだ三月。だからかもしれないけど、そんな男は目にしちゃいないね。それとも、これからいつか揚がるのかい。随分とまぁ、気の長い話だねぇ」

 伝法な女もいたものである。張見世前の、ごくごく内輪の話とはいえ、ここまでズバリと言うのは滅多にない。よほど普段から仲が良くなければ、それでいて周囲に誰もいない状況でなければ、こんな話は口にのぼせないのが自然行き渡った約定だ。

 だから周りは、ほんの少しぎょっとした。思ってはいても言わぬこと。それに華里がどう出るか、同時に期待もしたのだろう。男との行く末を考えているのか、諦めたのか、それとも噂どおりに足を傷つけられて、愛想を尽かして別れたのか。誰もその先を知らなかったからだ。

「男とは、何のことでござんすえ」

 華里は、ただぼつりとつぶやいた。そしてそのまま、唇を閉じた。

 これ以上、話す気は一切ない。

 そう宣言したも同じことだ。

 本道なら、ここで相手は黙るところであったろう。しかし女は、その目つき同様気もきつかった。

「男? 男。あんたのいろの話さ。いたんだろう、恋しいのが。ここじゃもう誰も言の葉にはのせないけれど、陰じゃしっかり噂になっているわさ。廓にありがちな悲恋さね。その恋しい男はどうしたい。何でも、噂じゃその足に傷をつけたってことだけど」

 華里の頬は少し歪み、周囲の空気はひやりとした。それはもちろん、実のところ誰もが知りたがった事柄だ。けれど、人の心にまでは踏み込まない癖のついた廓の者には、とても口にできないことだった。

 じっと目を伏せていた華里が、何かを決したかのように目を上げたとき。控えた部屋の襖の向こうから、軽快な声が響いてきた。

「華里さん、お呼び出しですぜ」

 もう一度、違った意味で空気が変わった。

「おやまぁ。まだ張り出しも前だというのに、もうお声がかりかえ。さすがに売れっ奴は違うねぇ。あたしもあやかりたいもんだ」

 そういったきつい目の女は、なぜかどこかホッとしているようにも見えた。とともに、早々に声がかりのした華里に、妬みのこもった視線を投げる。それはそのまま、場の雰囲気を表す様子だっただろう。

 華里は、ふっと息を吐くと、藍色の地の打掛をさばいて立ちあがる。誰に呼ばれたのかなど、特に誰何することもなく。ゆったりと歩を進め、襖に手を掛け、大儀そうにそれを引いた。そして

「わっちの足袋は、わっちの矜持でござんすよ」

 わざと大きく足を蹴上げ、真っ白な足袋を見せつけながら、彼女は貧相な板間から出て行った。胸を張り、クッと首をもたげながら。

 この足袋を外したら、あたしにはもういるところがないってだけなのさ。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ