第1話 第02章 回想
時を遡って、昨日、夕刻。
冬の夜は足が早い。窓の外はとっくに夜の闇の中に沈み、そこにはかろうじて夕陽が名残を留めているばかりであった。
冷気をたっぷり孕んだ風が、校庭の木々をざわざわと揺らしている。
「――と、いうわけだ。質問はあるかい?」
凛とした声が部屋に響く。
玄幽は机を挟んで座っている女を一瞥し、また手元にあるプリントに視線を戻した。
狭い部屋の中には、玄幽と彼女の二人しかいない。綺麗に片付けられた机の上には、どちらも手を付けられていない湯飲みが、空しく湯気を漂わせている。
「質問はありませんがね――」
玄幽はプリントに目を落としたまま呟く。窓が風でガタガタと震えた。
「ちょっと急過ぎるんじゃないですか。これに該当する部活動なんてそれこそ十は下らないでしょう? 批判だって、押さえ込めるわけがない。最悪、生徒会の活動事態、難儀なものになる可能性だってあるんじゃあないですか」
女――山梨香夏子は口元をにやりと釣り上げる。
いかにも気丈な雰囲気が全身から立ち上っている彼女は、その手腕の鋭さと容赦の無さで多くの学生からの信頼を預かり、また一部の学生からは「鬼」などと揶揄されてもいる、鈴鳴高校の生徒会長である。
「来年度から生徒会の予算が大幅に削られることになったのは君も知っているだろう? 今まで通りの活動をしていたんじゃ半年で立ち行かなくなる。多少の犠牲はやむを得ないんだよ……ねえ、」
彼女はうっすらと笑ったまま、すっと顎を落とし、玄幽を見つめた。
まっすぐ伸びた黒い髪が彼女の頬に、はらりとかかる。高校二年生にはまるで似つかわしくない艶っぽさに、こんな状況でなければ玄幽も見惚れていたであろう――などと考えるのはいささか早計だ。
その整った顔立ちにくっきりと張り付いた彼女の瞳は、玄幽を射すくめるように見開かれていた。
「背筋が凍る」。
この言葉の意味を、玄幽は生まれて初めて、身をもって知った。
「――それにね、どうやらこの学校には、活動実態がないにも関わらず抜けぬけと予算をもらい、遊び呆けている部活動すらあるらしいんだ」
「……お、お言葉ですが、ウチは毎年他校と合同で勉強会だって開いているし、きちんとした論文集を発刊してもいる。それはご存知でしょう? ほ、ほら、そこの本棚にだって三ヶ月前に作った研究文集が……」
目を白黒させて弁明する玄幽をひとしきりあたふたさせると、満足したように山梨は目を細めた。
「ふふ、何もここのことを言っているわけじゃないさ。そういう部活動もあるっていうだけだ。ここはきちんとやっていると、私だって思っているさ。――しかしね、今はそんな事を言っている場合じゃないんだよ」
そこで言葉を切ると、山梨はくるりと首を回して部屋全体を眺める。
こじんまりとはしているが、とてもよく整理された部屋で、これは玄幽の几帳面な性格がそうさせるものであった。しかしそこには玄幽の荷物しかなく、また彼以外の誰かの存在を感じさせるものは一切見当たらない。
「山猫村くん――だったね。確か君が部を預かるこの郷土史研究部には、君の他に四名の部員がいたという風に記憶しているが……今日はお休みかな」
ギクリ、と玄幽はまたも凍る。
自信あり気な、絡みつくような山梨の声が腹立たしくてしょうがなかったが、やがて玄幽はいかにも苦々しく、口を開いた。
「……辞めさせましたよ」
「ほほう、それはどうして?」
「四人の内二人は幽霊部員、半年に一回すら顔を出しません。残る二人は部室に来て漫画を読んで帰っていくだけ。そんな連中、いたってしょうがないでしょう?」
「ふうん。まあ、もっともだな。そんな連中がいたら私だって追い出すだろうさ」
彼女は哀れむような目で玄幽を見た。
「もっともだが、これでいよいよ君の立場は、そしてこの部の存続は危うくなったようだな。――まあ、一応存続させる道は用意されている。せいぜい頑張ってくれたまえよ」
話は終わったとばかりに手をパン、と叩くと、山梨は席を立ち、扉へ向かって颯爽と歩き出した。残された湯飲みからは既に湯気が消え失せていた。
玄幽はプリントに目を落としたまま、苦々しい表情で黙り込んでいたが、
「……まあ、見ててくださいよ」
山梨がドアを閉める寸前、はっきりとそう口にした。
彼女はドアの隙間から視線を寄越し、軽く肩を上げ、そしてゆっくりとドアを閉めた。
……パタン。
廊下から入り込んだ冷気が、部屋の空気にわずかに混ざった。
玄幽は金縛りから解けたように身体の緊張を解くと、イスの背もたれに身体を乱暴に預けた。メガネを外してつるを噛む。何の気なしに啜ったお茶は、驚くほど不味かった。
「やっぱあの人、苦手だ……」
プレッシャーから自分が急に老けてしまったような気がして、玄幽は顔をゴシゴシとさすった。そして自分のお茶を一気に飲み干し、その勢いで山梨が口を付けず残していったお茶も一息に飲み下した。
――部を存続させる道、か。
玄幽は改めてプリントを見る。そして自分が辞めさせた部員たちのことを思い出し、自分の下した判断を少しばかり後悔した。
ろくでもない連中だったが、いないよりはよっぽど良かったのだ。
プリントに書かれていた事を簡潔に要約すると、次のようなものだった。
『――来年三月の時点で、活動部員数が十名に満たない部活動は、その活動の停止と解散を命ずる』
部を存続させる道。
それは来年の三月までに、部員を九人、増やすことだった。