第1話 第19章 彼女の正体
人と人が死に別れるなら、静かに、穏やかに別れるのが望ましいのだろう。
けれど時として、その別れは暴力的にやってくる。
それを報いと考えることも出来る。あるいは世の中に数多ある、どうしようもない原理のひとつであるとも。
しかしいずれにしたところで、別れは別れに過ぎないのだ。
雨をその身に受けながら、鈴鳴の町をひた走る二人に、その別れの覚悟があっただろうか。
…………。
玄幽と聖の視界のずっと遠くに、あの時のあの場所がぼんやりと浮かび上がってきた。与右衛門と初めて遭遇した畦道の一角。電灯の灯りがその一帯だけを浮かび上がらせて、白く煙る夜の初めから幻想的な風景を切り取っていた。そしてその淡い光は、そこに佇む一人の女と、彼女がさしている真っ赤な古傘も照らしていた。
「よし、間に合った!」
玄幽の声に、後ろにしがみついた聖の手にも思わず力が入る。
彼女がまだいる、そのことが何よりも重要だった。そしてそれに付随する様々な問題は、今は少しだけ視界から外しておきたかった。
でもそれは叶うことはなかった。
近づいてくる自転車の音に、女は傘をちらりと上げて、こっちを見る。
口元には心の底から沸いてきたような微笑が浮かぶ。
そして彼女が片手を上げようとした次の瞬間には、彼女の後ろに暗い影が、唐突に、降って沸いたように佇んでいた。
――与右衛門。
そして与右衛門は、今度こそ満身の力を込めて、激しい想いを載せたその刀を振り上げた。
――間に合えっ!
玄幽はペダルを漕ぐ足に最大限の力を込めた。
全ての景色ががゆっくりと流れていった。
音が近づき、遠ざかり、ずれてぐるぐると世界を回る。
彼女はすぐそこにいるのに、こんなにも遠い。
「多恵さん、多恵さん! ――『おみき』さんっ! 駄目ぇ、逃げてっ!」
聖が悲鳴のような声を上げる。
――おみきさん。
多恵は、それを聞いて目を丸くした。
そしてまるで、まるで――悪戯を見つかってしまった子供のような笑顔を浮かべた。
その顔を見て、玄幽も聖も、あやふやだった疑問の答えを、はっきりと理解した。
「行っちゃ駄目だ! おみきさんっ!」
自転車が光の領域に入る。
振り上げた刀が振り下ろされる。
彼女はまだ微笑んでいる。
自転車ごと突っ込む……玄幽がそう決めて、ペダルの最後の一踏みに力を注ぐ。けれど与右衛門の刀が、彼女――おみきを傘ごと激しく斬りつけたのは、その一瞬前のことだった。
「やめてえええええええええっ!」
血飛沫が、ぱっと広がった。
それは、白と闇だけで構成された夜に、鮮やかに飛び散った。
与右衛門は玄幽に自転車ごと弾き飛ばされ、血濡れの刀が勢いよく転がっていく。
聖は自転車から駆け下りると、崩れ落ちようとする彼女を危うく抱き止め、しっかりして! と声をかけるが、その眼の焦点は既に定まってはいない。
女……おみきは乾いた声で笑った。
「……っ、よく、分かったね……あたいが……みき、だって」
「喋らないで! 今、医者を呼ぶから!」
「っははは……何言ってんだい、あたいはもう死んでんのさ……医者なんて呼んでどうしようってんだい」
「なんでっ……なんでこんな嘘をっ!」
嘘――おみきが、名前を偽って、多恵と名乗っていたこと。
おみきはそれには答えず、虚ろな目で聖を見上げた。
自転車を捨て、二人を庇うように立っている玄幽の向こうでは、与右衛門が刀を握りなおして立ち上がったところだった。
その表情に見えるのは、かつて愛した妻、多恵への愛なんかではない。それはもう玄幽にもはっきりと分かる。
それは想い人を殺した女……おみきに対する、明確な憎悪だ。
おみきは、遠ざかる視界の中で、与右衛門の顔を見た。かつて自分が愛し、また己が醜く歪ませてしまったその顔を。
――多恵さん、そろそろ行くよ。
やがて、おみきは力を振り絞って聖の耳元に口を近づけると、ほとんど聞き取れないような声で、何事かをそっと話した。
聖はそれを聞くと、思わずおみきの顔を見返す。
そしてそこに浮かんでいる穏やかな表情を見て、ようやく、全てを理解した。
――ああ。そうなんだ。
こうなるしか、なかったんだ。
おみきをそっと地面に横たえると、聖は毅然と立ち上がり、玄幽の前に立つ。
「お、おい! 聖ちゃん!」
慌てて押し戻そうとする玄幽に、きっぱりと首を振って、聖は与右衛門と向かい合う。
彼の顔にまたも浮かんだ困惑の表情を見据えて、聖は大きく息を吸い込んだ。
そして、柔らかい、優しい声音で、与右衛門に語りかけた。
「――与右衛門さん。多恵は、……『私』は先に、もうずっと先に、向こうで待っています。長い間、本当にお疲れ様でした。もう――」
聖の頬を、涙が伝う。
「もう、いいんですよ。与右衛門さん……」
瞬間。
辺りが、光に包まれた。
与右衛門の、その醜悪な顔が、血濡れの袴が、ぼろぼろの刀が、一瞬だけ、元あった姿を見せた。何百年の昔、彼がまだ化物に成り果てていなかった頃の姿に。
おみきも、柔らかな光に包まれて、背中の傷はみるみる消え、服装もずっと絢爛な江戸紫を取り戻していく。
――ありがとうね。
そんな声が聞こえたような気がして、聖と玄幽が天を仰ぐと、光は消えた。
与右衛門の姿も、おみきの姿も、既に掻き消えてしまっていた。
ただ、玄幽と聖のすぐそばに、大きく斬られた古い朱塗りの和傘が、誰かの無邪気な置き土産のように、さり気なく転がっているだけだった。
聖は泣いた。
立ちすくんだまま、幾筋もの涙が頬を伝っては落ち、地面の染みになった。
「……雪だ」
玄幽は顎を上げる。
空から、ゆっくりと、軽やかに、大きな雪片が零れ落ちてきた。まるで、まるで数百年も待ちかねたといった風に、一斉に、何かを悼むように。
玄幽は手をかざし、それを手の平に受けると、その手で、聖の頭を撫でた。