第1話 第18章 暗い蔵
無我夢中で走るうちに、玄幽も聖もいつかのようにずぶ濡れになってしまっていた。
玄幽の髪はべったりと頬に張り付き、聖の足の草履は泥だらけになったが、二人ともそんなことは気にも留めなかった。
学校の前の坂を駆け下り、田んぼ道を通り過ぎ、七塚神社の境内まで……。それがどれくらいの時間であったのか、二人にはよく分からない。とにかく気がついた時には、二人は七塚神社の境内を横切っていた。
吐く息だけじゃない。
たたきつける雨もが白く煙って、街はまるで大きな雲に覆われてしまったかのようだ。
山から這うようにして下りてきた冷気が、世界の音という音を吸い込んでしまったかのように、静けさだけがやけに大きい。
蔵の戸は、ぽっかりとした暗い闇のように、不吉に開け放たれていた。
「――多恵さんっ!」
二人は息もろくに整えず、走ってきたその勢いで蔵の中に駆け込んだ。靴を脱ぐことも忘れていた。
そしてそこに座って煙草でもくゆらせているのであろう多恵の姿を探した。ほっそりとした細面が素っ頓狂な声を上げて、自分たちを笑い飛ばしてくれると信じていた。
蔵の中には誰もいなかった。
そこにはまるで気配というものがなかった。
多恵の作り出す親密で穏やかな空気はもうどこかへ消え去り、元の雑然とした薄暗い蔵に戻ってしまっていた。
多恵の煙草盆も、煙管も、そして寄り代であった赤い傘も、まるで最初からなかったように、消えうせていた。それらが最初から、ただの夢のしるしのようなものに過ぎなかったかのように。
雨音が蔵を叩く音が鈍く響く。
おかげで蔵の中の静けさが一層際立つ。
「た、多恵さん……」
聖は荒い息のままで必死に多恵の姿を捜し求めたが、それは無意味だと程なく悟った。そして冷たい床に膝をつく。
多恵はここにはいない。
そしてもうここには戻ってこないのだ。
「――先に行く、ってさ」
みしり、と床がきしむ音がして二人が振り返ると、そこにはりく婆が立っていた。
「お婆ちゃん……どうして止めなかったのっ!」
聖が立ち上がり、りく婆に詰め寄る。
「ここにいれば、まだ止められたかもしれないんだよ! 多恵さんは、彼女はもう……ここから出てしまったら……!」
その剣幕はこれまでの聖には見られ無かったものだ。しかしりく婆はまったくひるむ様子を見せず、ぐっと押し黙っている。
そこにはある種の覚悟がある。その目は暗いけれど、それでもはっきりとした意思の光を宿している。
りく婆は何かを決めたのだ。いや、あるいはずっと前から決めていたのか。
とにかく、そこにあるものが諦念ではないということは、二人にも分かった。
「……自転車は裏でしたね?」
そう訊くと、りく婆が頷くのを待たず、玄幽は地面に飛び降りて神社の裏へ走った。
とにかく行かなければならない。
玄幽は思った。
彼女は一人で行ってしまったけれど、それは止められるのを恐れただけで、きっと俺たちに来てほしいと思っているはずだ。多恵は言ったのだ、自分の最後を見届けてほしいと……。
ならば、ここでこうしているわけにはいかない。
「聖ちゃん、乗って!」
自転車に乗って蔵の前まで戻ると、聖に呼びかける。けれど聖は動かない。
「急ごう! 約束したじゃないか、俺たちが多恵さんの最後を見届けてあげるんだって!」
これから先に待っているものは、辛い光景でしかないかもしれない。
でも、だからこそ。
りく婆はずぶ濡れの玄幽に向かって軽く頬を緩めると、聖の肩に手を置いて、言った。
「あの娘のこと、よろしく頼むよ」
聖は肩に置かれた手のぬくもりを感じる。そしてそれがもう多恵に届くことのないぬくもりであることを想う。
何気なく髪留めを触る。つやつやとしたその思い出が、まだしっかりとそこにあることを確かめるように。
聖は小さく、しっかりと頷くと、自転車の荷台に飛び乗った。
二人を乗せた自転車が、白く煙る境内の鳥居を遠くに消えるまで、りく婆はずっとこらえていた涙を、そっと流した。