第1話 第17章 最後の雨降り
その日がやってきた。
西の空が陰り、開け放した窓から入ってくる冷たい風が、ゆっくりと玄幽の頬を撫ぜる。
湿り気を帯びたそれは、どちらかといえば春の終わりに吹くような物悲しさを帯びているようだった。
終業式を明日に控え、クラスメートたちが軽い足取りで教室を去っていく中、玄幽はただ一人、窓の外に垂れ込める低い雲を、ぼんやりと眺めていた。
――これで、良かったのだろう。
あの日、多恵が言ったことを頭の中で反芻してみる。
「――ねえ聖ちゃん、悪いんだけどあんた、またあたいを、あの場所に連れて行っておくれ。ジテンシャって言うのかい、あの車に乗せて、与衛門さんに切りつけられたあの場所にさ。あそこなら人目もないだろうからね。玄幽さん、あんたも来てくれるね? あんたにも見届けて欲しいんだよ。あたいの最期をさ――」
玄幽はその時の、一片の曇りもない多恵の笑顔を、その眩しい輝きを思い出していた。
――これでやっと、二人は結ばれるんだ。
与右衛門と、多恵。共に非業の死を遂げた二人が数百年の時を経て。
でも……。
聖やりく婆の寂しそうな微笑を思い出して、玄幽はやはり、迷った。多恵さんはいつまでも、いつまでも漂っているべきなのか……、それとも、今日。
迫り来る雨の匂いに、玄幽の胸は締め付けられるように、震えた。
玄幽の吐く息は、いつかの朝のように、ほうっと白くなった。
窓を閉めると、玄幽は鞄を担いで、気付けば誰もいなくなっていた教室を後にする。
人気のない教室は寂しい。人がいるべき場所に人がいない光景は、それがどんな場所であれ、寂寥感を煽るものがあった。
坂の下では、巫女装束の聖がひとり、玄幽を待っていた。
髪には例のべっこう櫛。
ぺこりと頭を下げる聖の頭上で、そこだけが夢の続きのように鈍く光っていた。
「山猫村さん、改めて、あの時はありがとうございました」
道すがら、聖は改まった声で言った。
「あの時はあんな状態で、その後もきちんとお礼も言えないで……もしかしたら私、あそこで多恵さんと斬られていたかも知れないんですよね」
「いや、礼ならいらないよ。もともと、この事件は俺が発端みたいなものだし、却って悪いことしちゃったって思ってるんだ」
「ううん、そんなことない」
聖は首を振って、足元の小石を蹴った。
「私、不思議だけど――多恵さんに会えてよかったって思う。お化けみたいなものだって分かってても、私、多恵さんのこと怖くなかった、むしろ本当に好きになれたもの」
――だから、今日はとっても寂しい。
「……」
沈黙が二人の間に流れる。
ややあって、聖が取り繕うように笑った。
「それにしても多恵さん、良かったです。本当に。好きな人と一緒になれないまま、永遠に彷徨うなんて、私だったら嫌だもの」
「うん。俺もそう思う。でも……」
彼女を横目に見ながら、玄幽は思案顔で顎に手をやる。
そして頭の中にわだかまっていたいくつかの疑問を、小石でも並べるみたいに、慎重に吐き出してみる。
「しかし、……どうして侍は多恵さんを斬らなくちゃならないんだろう」
「え?」
「だって、わざわざ斬る必要なんてないじゃないか。二人一緒になって、それで成仏すれば問題はない。そうだろ?」
「それは、……与右衛門さんが、混乱しているからじゃ……?」
「でもあの時、聖ちゃんが庇っていなかったら、与右衛門さんは多恵さんを切っていたんだろう?」
玄幽ははた、と立ち止まる。
頭の中で何かが、何か良からぬものが音を立てて回り始める。
「……それだけじゃない。多恵さんは、なんだって赤い傘なんかに憑いているんだ? 赤い傘っていえば、多恵さんを殺した、おみきっていう人の愛用だったんだろう?」
そうだ、と玄幽は思う。
多恵が成仏することは良い事であるはずなのに、玄幽が釈然としないのは、そこに符合しない点がいくつも残っているからなのだ。数々の疑問点が置き去りにされたまま、全てが整然と、当たり前のように、――終了しようとしている。
噛みあわない歯を、無理やり押し合わせたような。
――まさか。
互いの頭の中に同じ疑惑が浮かんでいるのを確かめるように、二人は顔を見合わせる。
その時、不意に、雨雫が地面を打った。
「……! 聖ちゃん、急ごう!」
「は、はいっ!」
雨は、まるで二人を嘲笑うかのように、あっという間に本降りになった。