第1話 第16章 束の間の安寧
赤い傘をめぐる奇妙な事件は、静かに終息を迎えようとしていた。
それからしばらく晴れた日が続いた。
雨の気配はなく、空はからっと晴れ渡っている。
十二月の風はいよいよ本格的な冬の匂いを漂わせ始め、山の葉は隅々まで紅葉し、年の瀬の高揚は今まさに、次の年へと静かに移り変わろうとしているようだった。
玄幽と聖と多恵は、すっきりと晴れ渡った空を眺めながら、蔵の前でお茶を飲んでいた。
湯飲みから立ち昇る親密な湯気があたたかい。
「ほおら、できあがりだ」
聖の短い髪をあれこれいじっていた多恵は、手をパン、と叩くと、聖に手鏡を渡してみせる。
鏡の中に映る自分を、聖は信じられないといった顔で眺めた。
「きれい……」
聖の髪には、きれいなベッコウ塗りの髪飾りが付いていた。短い髪の、かろうじて長い部分に付けられたそれは、しかし無理やりに付けたという印象はなく、実に自然に聖の頭に収まって見えた。
「どうだい、その髪飾り。あたいのとっておきだよ。聖ちゃんは顔が可愛いからねぇ、本当によく似合う。玄幽さんもそう思うだろ?」
玄幽はすっかり見惚れてしまっていて、よく聞き取れない声でボソボソと何か言うと、顔を逸らせてしまった。
多恵はおかしそうにくつくつと笑う。
「若いねえ、お二人さん。聖ちゃんも顔真っ赤だよ。玄幽さんも、そういうところ、あの人にそっくりだね」
「あの人……って、与衛門さんですか?」と尋ねたのは聖である。
「そうだよ。なんだか不器用な人でね、そのくせ責任感だけは強かった。悪いことを見過ごせなかったんだね。玄幽さんもそういうところがあるじゃないさ。あの日、あたしらを助けてくれた時も」
「あ、あれは、何がなんだか自分でもよく覚えてなくて……」
玄幽は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「ただ、あのお侍、……与衛門さんの後姿は……怖いというより、物悲しい感じがしたんです。必死で、切実で……、なんだか、放っておけないっていうか。まあ、よく分かんないんですけど」
多恵は小さく頷くと、庭を眺めた。
スズメが数羽、砂利の間をせっせとついばんでいた。
「……ありがとうね、お二人さん」
多恵は二人に微笑みかけた。
「あたいなんかが、こんな穏やかな時間を送れるなんて、思ってもみなかった。暗くて惨めな場所で、ずっと過ごしていくんだと思ってたよ」
そう言うと、多恵は聖と玄幽に手を伸ばした。
彼女の右手が玄幽に、左手は聖に、そっと触れた。
「あたいは、あんたらのことを忘れない。あんたらも、あたいのことを覚えておいておくれよ。想いを捨てきれないで、何百年も逝くのが遅れちまった、馬鹿な女のことをさ」
「多恵さん……本当にいっちゃうの?」
聖が悲しげに目を伏せる。
「他に、与衛門さんを鎮める方法があるんじゃ……」
多恵はやんわりと首を振った。
「ないんだよ、聖ちゃん。あの人はあたいが連れて行くしかないんだ。あたいのせいでこうなっちまったんだからね」
「……明後日には、雨が降るそうですよ」
玄幽が言った。手には、多恵の確かな温もりがあった。
自分を責める気持ちは、まだ消え去ったわけではない。
けれど玄幽にもなんとなく分かっていたのだ。こうなるしかないのだと。
多恵は頷くと、そっと両手を引っ込めた。
「また、街へ連れて行っておくれ。そこであたいは、あの人を連れて行くよ。あの人も、それを望んでいるはずだからさ」
玄幽、聖。
二人を交互に見比べて、多恵は言った。
「あんたたち、これからもう少し大変かもしれないけど、仲良くやるんだよ」
二人は顔を見合わせると、しっかりと頷いた。
二人がその「大変」の意味を知るのは、もう少し先になる。
今はまだ、玄幽と聖に見えているものは、ほんのわずかでしかなかった。