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第1話 第14章 濡れ鼠

「おやおや、こいつは大きな濡れ鼠だねえ」


 蔵の戸の前にひとり佇んでいたりく婆は、ずぶ濡れで帰宅した聖と多恵、そして玄幽の三人を見てにっこりと笑った。

 その顔を見て、あるいはこの人は自分の抜け駆けを知っていたのかも知れないと、多恵はなんとなく気恥ずかしいような気がして、思わず苦笑してしまう。


 三人は銘々、りく婆が用意したタオルで身体を拭いた。

 冷たい雨に打たれた三人の身体はすっかり冷え切ってしまっていた。


 玄幽は女性と一緒に着替えるのがなんとなく気まずくて、一人だけ蔵の外でジャージに着替えたが、聖にも多恵にも、そんなことを気にする余裕などないようだった。あんなことがあった直後のことだ。あの田んぼ道から神社に至る道すがら、三人は名前を交わしたくらいで、ろくに会話らしい会話もなかった。

 もちろん彼にしても、冷たく震える頭で、あれは何か幻覚のようなものだったのではないかと思う気持ちもあった。


 ――でも、俺はあの時、あの侍を……。


 無我夢中で侍に追いつき、そのわき腹に強烈なとび蹴りを食らわせた感触を、玄幽はしっかりと覚えている。どう考えても人外の容姿をしていたにも関わらず、玄幽がその足に感じたのは、ぐにゃりとした、肉の感触だった。


 ――だったら、あれは人なのか? いや、そんなはずは……。


「山猫村さん、といったかね」

 玄幽ははっとして我に返る。他の二人は既に着替えを終え、火鉢に手をかざしていた。

「あんたもこっちで火に当たりな。そのまんまじゃあ風邪を引いちまうよ」


 りく婆の手招きに、ジャージ姿の玄幽も蔵に入り、火鉢の傍に腰を落ち着けた。制服は蔵の天井から伸びる紐に干されている。火鉢の火は強くもなく弱くもなく、身体の芯を直接温めてくれるようだった。

 その火鉢をつつきながら、りく婆は心底ホッとしたようなため息をついた。

「まったく……、聖の姿も見えない、蔵の中にも誰もいないとくりゃあ、まあ予想もつくけれどね。あたしを除け者にするなんて、ちょっとひどいんじゃないかい」

 苦笑する多恵と、相変わらず俯いたままの聖を軽く睨みつけると、りく婆は玄幽に優しげな笑顔を向けた。

「あんたが二人を助けてくれたんだってね、さっき聖から聞いたよ。最近の若いのにしちゃ、随分と骨がありそうじゃないか。とにかく、ありがとうね」

「はぁ」

 玄幽はあいまいに頷いた。

 そもそも玄幽は咄嗟のことで、なぜ自分が侍の後を追ったのかすらほとんど自覚していなかった。

 それよりも彼には、目の前にいる三人の奇妙な組み合わせを疑問に思っていた。なぜこんな薄ら寒い蔵にひっそりと篭っているのだろう?


 玄幽は改めて、聖と多恵に目をやる。


 聖はぶかぶかのジャージに身を包み、何を思っているのか、じっと火鉢を見つめている。短く髪を切って、一般的な巫女のイメージとは違っていたが、その顔は子供ながらに美しさを備えているように玄幽には思えた。多恵はといえば、薄っすらと笑みを口元にたたえながら、どこを見ているのか、遠い目で玄幽の正面に座っていた。不思議な女性だ。こんなに近くに居るのに、驚くほど存在感が薄い。多恵は着替えていなかったので、濡れた着物が妙に艶かしく見えて、玄幽は慌てて目を逸らした。


「――あの人、多恵さんを殺そうとしてた」


 ぽつり、と聖が口を開いた。


「私には分かったの。あの人は赤い傘なんて見てなかった。じっと多恵さんのことを見てたの。多恵さんのことを今にも斬り殺そうとしてて、私、私……」

 小刻みに震えだす聖の背中を、多恵がゆっくりと撫でる。


「でも、だとしたら……あれは通り魔じゃないってことか」

 玄幽はいかにも得心がいかないという顔で腕を組む。

「今までの通り魔は赤い傘だけを狙って、赤い傘だけを切り刻んで終わりだったんだ。なのにどうして、その、多恵さんを斬ろうと思ったんだろう? それに、言っちゃあなんだが、あれはどう見ても人には――」


 ――多恵?


 玄幽はそこで稲妻に打たれたように目を見開く。

 そして正面の多恵を、信じられないといったような顔で見つめる。


 ――いや、そんな……そんなわけが。しかし、侍の化け物は確かにいた。ならば……。


 玄幽は震える手で鞄を手繰り寄せると、その奥に仕舞いこんでいた『鈴鳴村怪異録』を取り出した。鞄はずぶ濡れだったが、古書はなんとか雨に濡れることは免れていた。

 そしてそれを見るや否や――りく婆と多恵の顔が見る見るうちに驚愕の色に染まっていった。


「あ、あんた……そいつをどこで!?」


 りく婆はひったくるように『鈴鳴村怪異録』を玄幽の手から取り去ると、勢い込んでページを捲った。ばさりばさりと、そう数はない全てのページを何度も何度も、丁寧に捲っていく。そんな様子を、聖と玄幽は呆気に取られて眺めていた。


「――ない」


 りく婆はページを捲るのを諦めると、そう呟いた。そしておもむろに多恵の顔を見やる。

 多恵は、――にっこりと、笑っていた。

「分かってたよ、おりくちゃん。今度ばかりは本当だってね……なんとなく感じたのさ、この街のどこかにあの人がいて、あたいの事を探してるってね。聖ちゃんと街に出たのは、それを確かめに行ったまでさ」

「違うだろ!? そんで、斬られちまってもいいって思ってたんじゃないのかい!? あたしに何も言わずに……!」

「おりくちゃん」

 多恵は、やんわりとたしなめるように首を振った。


「知ってるだろう? あたいはもう、――とっくの昔に死んでんのさ」

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