第1話 第13章 三つ巴
刹那か、永遠か。
雨音すら遠のき、停止したままの三人の世界に、――突如として、怒号が響いた。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」
一閃。
侍が、横っ飛びに思いっきり弾けとんだ。
ほとんど身体に力が入っていなかったらしい侍は腰からぐにゃりと折れるようにして傾く。
まさに不意打ち、腰の辺りに食らわされた鋭い蹴りに、侍は呻きながら地面を転がる。
怒号と蹴りの主は、その勢いを借りて更に侍に追い討ちをかけようとするが、侍がすぐに飛びのいて立ち上がったのを見て、侍から距離を取り、そこに仁王立ちになった。聖と多恵の前に立ちふさがるようにして、侍と対峙する。
「はぁ、はぁ、……てめえ、てめえが噂の通り魔かっ!」
学ラン姿のその男、――山猫村玄幽は、息も切れ切れにそう声を張り上げた。
突然の闖入者に、多恵も聖も目を丸くして玄幽を見上げている。
「なんとか言ってみろっ!」
玄幽は腰を落とし、威勢よく声を張り上げる。
まるで自分のものとも思えない勇ましい声に玄幽は胸を張った。
侍は玄幽の一撃が効いたのか効かなかったのか、先程までと同じ呆然とした表情で立ち尽くしている。ぐにゃりと曲がったように見えた腰も元通りになっている。ゴムのように不確かで柔らかな身体を持っているようであった。何より、――困惑。今やそれは、怒りや憎しみよりも、ずっと顕著に侍の顔を、全身を覆っていた。
もっとも、侍のその「動揺」にまったく気付かない玄幽は、その異様な風体に気圧されまいと歯を食いしばって立っていた。
どれだけ時間が経ったろう。
せいぜい二十秒かそこらであったが、玄幽にはそれが数十分のように肌身に染みて感じる時間の長さであった。
――こ、怖ぇえ。
ここにきて玄幽の頭も冷めてきた。
見れば見るほど、その侍の不気味さが、ゆっくりと足元から這い上がってくるように玄幽には感じられた。どうしてそんな紫色の肌をしているんだ? 落ち窪んだ目に目玉が入っていないように見えるのは気のせいか? 玄幽は眼鏡が雨の雫で曇っていて本当に良かったと思った。ぼやけて見えてさえここまで恐ろしいものを、しっかり正視してしまった日には……。
玄幽と侍との距離は、わずかに三メートル。
格闘技経験などない玄幽だが、この距離の危険さは十分に理解できる。
加えて、素手と刀ではそもそもまともにやりあえないことも、もちろん理解できた。
――不意打ちで決められなかった……というか、ちょっと考え無しすぎたんじゃ……。
冷たい雨によって無理やり冷静にさせられた玄幽。その顔に、徐々に焦燥が募り始めていた。
しかし侍はといえば、顔面蒼白で次の一手を考える玄幽などまるで無視して、ひたすら聖と多恵にその視線を注いでいた。
聖の白い横顔、多恵の端正な細面。
そして不意にそのおぞましい気配を引かせると、身を翻した。
――翻した次の瞬間には、その姿は無かった。
残されたのは、ぽかんと口を開けた玄幽、多恵をしっかりと抱きしめてい震えている聖、表情のない多恵、そして横倒しの自転車だけだった。
その隣に無傷の赤傘も転がっているが、侍の刀から滴り落ちていた血は、跡形も無く消えうせている。
雨足が弱まり、まるで夢から醒めたかのように、三人は顔を見合わせた。