第1話 第10章 雨の町へ
同じ頃、七塚聖は自転車に乗りながら境内を蔵へと向かっていた。
砂利の上を走ることはりく婆にきつく禁じられていたが、そのりく婆は今日は用事で出かけている。
天気予報によれば、これから夜にかけて激しい雨が降るだろうということだった。
聖は自前の真っ赤な傘を片手に持っていたが、当然、あまり乗り気はしない。
――雨降りの夜に、赤い傘をさして。
冗談じゃない、と聖は思う。
まだ通り魔は捕まっていない、否、捕まる気配すらないのだ。こんな真っ赤な傘をさして街をうろつくなんて、どう考えたって正気じゃない。
一体、多恵という女性は何者なのだろうか。
彼女と出会ってからというもの、それとなく探りを入れてはみたものの、りく婆にも多恵本人にも、実にあっさりと流されてしまっていた。
『だからあたしの古いお友達だって言ってるじゃないか。それより聖、今朝はちゃんと境内の掃除をしたのかい? 庭の落ち葉はなんだいありゃ、いつも言ってるじゃないかい。庭の汚れは掃除するあんたの心の汚れなんだよ! もっとしっかりやってくれなきゃあ、』……略。
『あははは、聖ちゃんにも秘密のひとつやふたつあるんだろう? え? 例えばねぇ、好きな殿方とか、背中のほくろの数とかねぇ……そうだ、こっちにおいでよ。あたいが背中のほくろ、数えてあげるからさぁ……ふふふ、なんだい、いいからほら、着物の帯をちょっとほどきゃ、』……略。
なんだかこの二人は似ている……というのは偶然だろうが、まあ何かを隠しているであろう事は明白だった。聖にだって、恐らくは当事者になれば誰だって分かる。
――でも、多恵さんの笑顔を見ちゃうと、何も言えなくなっちゃうんだよなぁ……。
聖は多恵の妖艶な笑顔を思い出して赤面してしまう。
自分もあんな風になれるかなぁと、短い髪をつまんでは溜息をつく聖も、やはり呑気な性格であった。
やがて蔵の前に着くと、珍しく多恵が扉の前に姿を見せていた。いつもは聖とりく婆以外に姿を見せないため、蔵の中に引きこもっているので、聖はおや、と思った。
「聖ちゃん、わざわざ済まないねぇ」
聖を見つけてにっこり微笑む多恵は、やはりとても美しかった。
「多恵さん、本気でこれから街に?」
「そうさ、ちょうど一雨来そうだしねえ」
多恵は首を傾げて空を見上げる。
白いうなじが見えて聖はまた赤面するが、首をぶんぶんと振ると、
「あの、やっぱり、やめといた方が……。その、通り魔の正体も分からないし……」と、一応言ってみた。
多恵は、心配いらないよぅ、ところころ笑った。
「むしろ聖ちゃん、あたいと一緒にいたら、聖ちゃんは一番安全なんだよぅ?」
「へ?」
聖はわけが分からないという表情だが、多恵が後ろ手に持っていたものを見ると、思わず息を呑んだ。
それは聖が持っているような洋傘ではなく、紙で作られた和傘だった。
何より、そのくすんだ朱色が、聖の目を引いた。相当の年代物らしく、豪奢な造りながら、至るところに痛みが出ている。
「聖ちゃん、その傘は置いていきな。こっちの方が目立つだろ? ……ほぅら、ちょうど降ってきたじゃないさ」
空を見上げた聖の鼻先に、ぽつり、と雨粒が落ちた。そしてそれは、まるで黒雲から堰を切ったように溢れ、あっという間に本降りになった。
多恵は和傘をばさりと開き、聖の自転車の荷台にそっと乗る。
まるで人が乗ったとは思えない軽さに、聖は驚きを通り越してゾッとしたが、何も言わずに自転車のペダルを踏んだ。
多恵の持つ傘は大きく、ふたりをしっかりと覆った。
「あ、そういえばりく婆ちゃんに何も言ってないや。いいんですか、蔵から出て?」
「――いいんだよ、あたいがちゃんと言っといたからさ」
「はあ、じゃあ行きますよ。その通り魔、人気のないところに出るらしいので、田んぼ道を回りますね。しっかり掴まっててください」
七塚神社前の急な下り坂を、自転車は豪快に駆け下りる。
多恵はわずかに神社を振り仰ぐと、寂しげに微笑んで、小さく手を振った。
夜の闇が、深く街を覆い尽くそうとしていた。