第1話 第09章 山梨香夏子の遭遇
郷土史研究部の部室には、いつかのように向かい合わせで座る、玄幽と山梨香夏子の姿があった。
あの時と違うのは、山梨の顔に自信の色が全くなく、そこに明らかな憔悴の色が浮かんでいるということだ。
玄幽は難しい顔をして顎をさする。
「侍――ですか」
山梨はこくり、と頷く。そして両手で自分を強く抱きしめ、震えた。
「き、斬られた傘の隙間からはっきり見たんだ――血で濁った目、引きつった笑い、乱れた髪の毛、そしてあの……あのっ! 血で染まった袴……!」
玄幽は席を立って、震え続ける山梨の背中をさすった。
昨日の今日で話を聞き出すのは、さすがに早かったか――と玄幽は自分を責めた。
いかに鬼生徒会長の山梨といえど、まだ年端もいかぬ少女なのだ。事件のショックは想像を絶するものがあったのだろう。
――侍、か。
玄幽は嗚咽する山梨の背中を撫で続けながら、少々混乱していた。
山梨がその通り魔と遭遇したのは、昨日の午後七時くらいであったという。玄幽が部室で古書の解読に没頭していた頃だ。
彼女は生徒会の執務をこなすと、生徒会室を後にし、職員室に鍵を返し、そそくさと校舎を後にした。
その時彼女が手にしていたのは――真っ赤な傘だった。
もちろん、事件の噂を知らない彼女ではなかったが、勝気な性格故に、まるで事件を嘲るかのように赤い傘を常用していた。それに、柔道の有段者である彼女にとっては、学区内の治安を脅かす不届き者をとっちめてやりたいという思いも、少なからずあったのだろう。
来るなら来い。そんな気持ちの山梨会長であった。
そして、校舎前の坂を下り、人気の無い田んぼ道に差し掛かったとき、それは現れたという。
「初めに、変な足音が聞こえたんだ」
それは何かを引きずるような音で、後ろから、段々と大きく聞こえてくる。しかし山梨が振り返っても誰もいない。
少し進んで、振り返る。
そんなことを二、三度繰り返す内、とうとう足音は真後ろに迫り、獣のような息遣いも耳に入ったという。
「それで私、これは例の通り魔だろうと思って……後ろを振り返って、言ってやったんだ。卑怯者の通り魔、姿を見せろ! って……」
まさに勇猛果敢としか言いようのない行為だが、いくら待っても眼前には何も動くものはない。視界の利く、隠れようのない田んぼ道の真ん中なのに、四方八方、どこを見渡しても何もいないのだ。街灯の真下だったので、闇に紛れているというわけでもない。しかし気配と息遣いは確かに聞こえる。
さすがの山梨も怖くなった。
「な、なにか、わけの分からないものがいる……そう思って走って逃げようとしたら、い、いきなり真上から叫び声が聞こえて……!」
一瞬の出来事だった。まるで猛獣のような叫び声が聞こえたかと思うと、傘は激しく斬りつけられ、山梨は傘と共に地面に叩きつけられた。そして彼女は、ずたずたに切り裂かれつつある傘の隙間から、その凄惨な姿を見てしまったのだ。
血と臓物の臭い――。
その侍は傘を跡形もなくなるまで斬りつけると、満足したように吠え、闇へ消えた。
以上が、山梨が玄幽に話した全てだ。
玄幽は山梨の背中をさすりながら、警察には言ったんですか、と尋ねた。
「警察には話したよ……でもまるで信じてくれない。侍なんかいるわけない、人はいきなり消えたりしないって、必死で訴えたのに、狂人扱いだ。それで、これ以上変な噂を増やしたくないから、マスコミには言うなって……」
そこまで話すと、山梨は机に突っ伏して泣き出してしまった。
玄幽は途方に暮れた。鬼の目にも涙、とは言葉の意味が多少異なるが、こうして眺めてみると、どれだけ強気で聡明で尊大であっても、山梨香夏子もただの同年代の少女に過ぎないのだという事を、玄幽は身をもって感じるのだった。
窓の外は、まだ夕方だというのに夜のような暗さで、重苦しい雲からはいつ雨の雫が落ちてくるかも分からなかった。