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#1 小さな森と暑い春

「えー、なのでね、夢を持ちなさい。どんなに暗い場所でもそれが先を照らす灯りになると、私は思います」


高校生活最初の一年が終わり、休み明けの始業式。俺は去年の悪魔のような期末テストを乗り切り、無事進級していた。クラス票を片手に右から左へと聞き流していたはずの学校長の挨拶が何故か少し耳に残っていた。この高校の校長は県内では有名な富豪の一人息子として生まれ、親の代から校長の座を引き継いだだけ、と噂で聞いてたがそれにしては良いことを言うものだ。なぜ夢を持て、なんて擦り切れるほど使われた、というか去年の入学式に同じことを言っていた気がするが……とにかくそんな言葉が俺の頭に残ったのかこの時はまだ分からなかった。


「少し暑いね、佐々木」


後ろから声をかけられた俺は既に声で誰か分かってはいたけども、振り返った。体育館の所々にある隙間のせいか、彼女の髪が風で揺れた、気がした。暑い癖に相変わらず冷たい声だ。『ネイビーアッシュ』とか言ったっけ、青みがかった黒、深海のような色の髪の毛は触らなくてもその感触が分かるような綺麗なものだった。胸にまで届くそれらは途中でくねくね踊り出して立体感を生んでいた。白い肌に差し込む光が反射してその青さが、普段の海底のような青ではなく、少し海面よりの明るい青に見えた。そんなに白い肌をしてるのだから少しはここの温度も下がればいいのにな……


『ソラ』と俺は彼女を呼んでいる。


上の名前なのか下の名前なのか、それとも何かのあだ名なのか。そんなことわざわざ話すのも面倒な程に学校内の温度は上がっていた。ソラはいつも眠たそうな瞳の中にどことなく冷たさと輝きがある氷のような、いや雪解け水のような奴なんだ。静かに話してさっと消える。かと思ったらふとした時に側にいて変なところで笑う。去年、一年A組だった俺とこいつはなんとなく気が合って話す仲になり去年の五月くらいには気づけば友人になっていた。入学当初、ソラは教室の隅でひっそりとその小さな手で文庫本のページをめくってそうな文学少女の香りをさせていたが、その実、自分を含めた全人類にそもそもあまり興味を持たない人間だったんだ。そんな彼女と俺がなぜ教室で季節外れの春の暑さについて話をするくらいになったのかは機会があればまた書こう。


「そうだな」


桜舞い散る春のくせに太陽光は容赦なく降り注いでいる。地球温暖化は本当に考えないといけない問題だなと改めて実感した。その暑さのせいなのか俺が始業式の今日、ソラへ発した言葉はこれだけだった。新しいクラスの教室がそこにはあったが、正直な話あまり友達のいない俺には、そしてソラにも関心のない事だった。しかしそんなのは俺らのような変わり者だけで、他の連中は違う。体育館から新しいそれぞれのクラスに分かれ、廊下を通り、教室に向かうまでの間に彼らは凄腕営業マンもビックリの顔色伺いと探り合いをしていた。この子とあの子は仲が良い、彼は友達が多い、彼女は少ない、実はあそことあそこが付き合ってる、あの人とは話したくない、一番目立つグループに入りたい、人気者は誰か、等々。どうしてそんなにも熱心に情報戦を繰り広げられるのか、そしてそれにどんな意味があるのか、今度時間のある日にじっくりと討論してみたいもんだな。やる相手はいないけどさ。


教室が見えてきた頃、それを横目に颯爽と、というかわざと早く歩いてるんじゃないかと思うほどテキパキと教室のドアを開けた男子生徒がいた。そしてそれを見た女子グループの一人が喜びの表現の仕方を忘れてしまったのか、かなりデカイい悲鳴をあげた。悲鳴だよ、あれは。長期休暇で髪を明るくしてたのだろう、ムラのある黒染めした髪の毛をバッサバッサと揺らした女子生徒が騒いでいた。


「キャアアアアアッッ!! え、え、え、うそやばい。やばい。やばいって、吉田君じゃん‼︎ え、吉田君、やばいよねぇ⁉︎ ウケる、ほんとイケメンで背高いわぁ。同じクラスとかマジ死ぬって! 笑うしかない、マジやばい」


ヤバイ女達が廊下の途中で騒いでいる。でもまぁ確かに男前だ。それに背も高い。なんというか少女漫画の主人公をそのまま現実にもってきたら彼のようになるのだろう。長身で短髪。海外のポップシンガーのような少し重ためのオールバック。キリッとした目は少し怖いようにも思えるが、わざわざ寄ってくる女の子に愛想よく笑って大きい手で握手してるところを見ると優しい人間なんだろうな。まぁ、声をかけられて握手するってもはや芸能人の行動だけどな吉田君。男の俺がそう感じるのだからモテるのは当たり前なんだろうな吉田君。嫉妬でなく分析だよ?吉田君。騒ぎ続ける女子達の一人がヒソヒソと、しかし俺に聞こえるくらいでかい声で言った。


「バスケ部の吉田君。本当にカッコいいよねぇ。やばい。うん、あれなら私、抱かれてもいいわ!」


「いや吉田君が無理だろ、それは」


ナイスツッコミだ黒染め女子。一番最初に騒いでたからだろう、一番最初に冷静になり誰も聞いてないのにも関わらず、勝手に自身の身体を許した友人に鋭いツッコミを入れていた。それでもまだ熱は冷めてないようで『やばい女子達』のやばい会議を背にして俺は新しい教室の前に立った。吉田君とやらが最初に開けた教室のドアは少し硬くなっていて、うまくスライドさせることができなかった。何か引っかかってるのか?なかなか開かない、くそっ、開かない。ガタガタという音がさらに俺を焦らせる。というか吉田君、最初に教室に入ったのだからわざわざ閉めることはないだろう…


「佐々木早く開けて、後ろ、列が出来てる」


やっぱりさっきの表現は『氷のような奴』がしっくりくるなコイツ。ソラはじとーっとした目で俺を見て人差し指でドアを指していた。後ろの新しいクラスメイト達はそんなことより座席表を教卓から取る吉田君の指先でも見てるのだろう、ドアのことなんて気にも止めていなかった。音だけ立てていつまでも開かないドアに中に入っている吉田君が気づいた。「あっ」と言葉にしたのかは分からないがそんなような顔をしてた。彼はこれまたスタスタとドアの前に来て力強く横に引っ張った。さすがバスケ部員だな、有無を言わせずこの頑固なドアを黙らせた。ガタガタガタッと少し大きめの音を立ててようやく開いたドアは教室の古さを表しているな。


「ごめんね、閉じ方が悪かったみたいだね。どうぞ」


にこやかに笑う吉田君はまさに正統派イケメン、文句なしだねこりゃ。俺は最後の男としての小さなプライドで軽く頭を下げるだけにしておいた。「ありがとう」と一言かけるべきだったのかもしれない。でもな、せめてそれくらい省略したっていいだろう。どうせ彼の送っている学園生活と俺のとでは天と地の差があるんだろうから。吉田君スマイルの爽やかさで教室がかなり涼しい、とも一瞬考えたが流石にそれは違ったようだ。


「うわぁ! 教室はエアコン入ってるじゃん! 助かったわぁー」


今さっき騒いでいた『ヤバイ女子達』のリーダー的存在だった黒染め女子がソラに続いて教室に入った。本当にありがたい。エアコンがついてる。座席表を取り、自分の名前を確認した俺は指定されている席に向かった。ツイてるな。一番後ろの窓際特等席だ。グラウンドを挟んで通学路の小さな森、そして赤い煉瓦を基調とした西洋式建物と近代的なビルを少し散りばめたような、風変わりの駅前まで一望できる。この街並みは誰がデザインしたのだろうか。よくあるファスフード店やファッションに疎い俺でも分かるようなブランドの洋服屋があると思えば、何世紀もそこにあるドイツかフランスの田舎街に点在する聖堂のような建物、モダンな喫茶店や古本屋、老朽化した煉瓦の汚れがまるで最初から模様として描かれたと思うほど様になっているレコードショップなどが一箇所に密集しているのだ。


さて、今日は簡単な四月のスケジュール確認と担任教師からの挨拶で下校できるらしい。その担任の教師は使い古した安物のジャージ姿で教室の『2-F』の札を確認すると、あの硬いドアを吉田君と同じく一回で開けて少し乱暴に閉めた。全員が揃っていることを座席表と脇に抱えていたクラス名簿を開いて確認した。それが終わると教卓に手を置いて俺達を嬉しそうに眺めた。その元気そうな目がとても眩しかったがそれよりも、キラリと左手の薬指の結婚指輪が教室に差し込んだ太陽の光を反射させて偶然にも俺の顔面に直撃した。目が痛い。


「よ〜〜し、おはよう! 二年F組のみんなぁ、今日から新しいクラスで高校生活二年目が始まるぞ‼︎席は間違えるなよ〜ちゃんと確認してくれ‼︎知ってる奴もちらほらいるな、よし‼︎ それから今日配れる教科書も先に渡して──」


ツイてる、というのは間違えてたな。最悪だ。台詞にビックリマークが必ず入るようなデカイ声と身体をしてるのは国語教師の『武内』だ。ムキムキの筋肉と典型的な体育会系の性格のくせに、文学部の顧問を受け持ち、日本語と小説が生きる原動力になっているような教師だ。というか自分で今そうやって楽しそうに自己紹介している。俺は両耳のボリュームボタンを最小まで捻って、これからまた一年間歩くあの森の通学路を見ていた。


「では今日は教員同士の会議があるみたいでな、少し早いがこの辺にしておこう‼︎みんなの自己紹介や委員会などのクラスでの決め事は明日やろうな‼︎ 俺は少しでも早く名前と顔を覚えたいから是非分からないことや、不安があれば話してくれ‼︎ 二十四時間、三百六十五日日待ってるぞ! では解散っ」


教室に入って十分くらいだったか、武内はそのデカイ口をようやく閉じて俺たちを解放してくれた。帰りにコンビニエンスストアに寄ろうと思ったのは、別に武内の話からではないぞ、俺の意思だ。とにかく早く帰れるのは幸せだ。自分のカバンを持って席を立つと隣にはバスケットシューズやらでパンパンになったエナメルバッグを肩にかける吉田君がいた。


「さっきはドアを開けっ放しにすべきだったよね、ごめんよ。隣の席の吉田です。よろしく」


なんとまぁ、よくできた好青年だ。俺は吉田君と自分との差が嫉妬を感じるような程の、近い距離ではないと自覚した。


「いや、こっちこそ開けてくれて助かった。佐々木だ」


長くて力強い親指で教室のドアを指した吉田君はこれからバスケ部で練習があるそうだ。少し困った顔でこの暑さの愚痴を俺に軽くこぼしていたが少しすると、いそいそと教室を出て行った。なんというかそんな言動すらも近寄り易い雰囲気で素敵、なんて女子からは思われるんだろうな。実際俺もあれだけ完璧なスタイルと顔を持つ吉田君が少し身近に感じられた気がした。あぁ、あんな完璧そうな吉田君でも暑さに根を上げて俺なんかと同じように気だるさを感じるのだな、と。


「でもきっと、遠い存在なのは変わらないんだろうけどな……」


呟く俺の言葉をエアコンからでた風と一緒にソラが受け流した。吉田君と違い、彼女の小柄な身体にはカバンが少し大きめに見えるな。柔軟剤の香りを俺の鼻に残して教室から消えた。あいつは部活動や同好会に入ってないから俺と同じく授業が終われば帰るだけだが二人で下校を共にしたのは数える程しかない気がする。特に理由はないが。まぁアイツのことより俺も早く帰りたい。切実に。久しぶりの登校にこの暑さはさすがにきつかったぞ。吉田君と軽く話しをしてる時からカバンを持っていたせいか手も疲れてきているんだ。家が恋しいね、まったく。俺は高校生活2年目にして手に入れた自分の特等席に視線を落として忘れ物がないか確認すると、そのまま、ふとグラウンドを見た。


そこには見慣れない女の子が水道で顔を洗う姿があった。これまたドラマの世界のような可愛らしい女の子だ。小さい手で水をすくうとそっと自分の顔にあてた。ソラと同じくらい小柄で白い肌をしているが、運動部なのか健康的に程よく肉付きもある。髪の毛も短めだしきっとそうなのだろう。体操着の色が俺と同じなので二年生だとは思うが見たことがない。それにあんな綺麗な大きい目に小さい顔と身体、守ってあげたくなるような可愛らしさのあるアイドル的人物が去年からこの学校にいたのならとっくに噂になってるはずだ。気になる……ことには気になったが、今の俺には下校に使うエネルギーしか残っていなかった。その筈だったのだが、


「可愛いよね、わかるわかる見ちゃうわあれは。ウチだって見ちゃうもん、てか今見てるもん。わかるわぁ」


黒染めの、あの子だ。焼けた肌に黄色いカラーコンタクトを入れたツインテールのギャルがそこにいた。『ヤバイ女子達』のリーダーだ。さっきはいいツッコミをしていた。元気だ。黒染めだ。ムラムラだ。いや、このムラムラというのは髪の毛の話だからな。決して変な意味ではない。前の色は相当明るかったんだろう、黒染めをしていても髪の毛全体の色が少し明るく、毛先もカラーが上手く届いておらずムラになっている。まぁ、そういう髪型、と言われれば納得できるくらい違和感はないけども。甲高い声に口数は多く距離感も近い、それに香水もキツイ。なんというか、そうだな、うん、関わりたくない人種だ。


「いやいやいや、せめて『うわ、こいつ面倒そうだな』っていうのは心の中だけにしてよ⁉︎ 顔は隠そうよ‼︎ 」


いかん、顔に出たようだ。ソラくらいのスルースキルがあれば真っ直ぐに教室のドアまで辿り着けるのだが、残念ながら俺にはそんな技も何より実行する度胸もなかった。俺は眉間のシワを元に戻して、あの水道で洗顔中の天使について、目の前のギャルに聞いてみた。


「あんな可愛い子、去年からいたっけか? 」


畜生。そこにある帰路へのドアが今、すごく遠ざかったように感じたぞ。でもどうせ絡まれたのならこのギャルからあのグラウンドの少女について教えてもらえるかもしれない。俺だって別にそういう事に一切興味が無い訳じゃない。たしかに、面倒なことは嫌いでやりたいことや夢もない俺は友人関係も希薄でワイワイ騒ぐようなことも普段しない。ましてや新しいクラスでみんなと混じりたいという欲求もない、ではなぜあのグラウンドにいる女の子について質問をしたのか、そして目の前にいるおそらく俺の立つ場所からは一番遠くにいそうなこのギャルとの会話を始めたのか、要はきっかけだ。そういうことだろ。


「ほーらぁ、気になってるんじゃんやっぱ! あの子はね……名前なんだっけぇ、えっとたしか『小池』さんだよ! 『小池』さん! 今年度から転入してきたらしくてさ、ウチの友達の一人が同じクラスで、もうあの子で話題が持ちきりなんだって! いやぁ〜ほんとアイドルみたいだよねぇ。男子はお祭り騒ぎだね、えっと佐々木くん、よね? ウチは秋穂ね、同じクラスなんだしよろしくゥ‼︎ 」


ギャルという人種は、なんというかあまり毛嫌いするものでもないな。初対面の、しかも一度は嫌な顔を表に出してしまった俺に対してこれだけの文字数をぶつけられるんだから大したものだ。なんか一周回ってちょっと話しやすいぞ。『小池さん』に『秋穂さん』か。吉田君とも合わせて今日だけで三人も新しい名前を覚える事になるとはね。ソラが知ったら驚くだろうな。


「あぁ、佐々木だ。よろし──」


「よろしくゥ‼︎ てかさ、さっき吉田君と話してたよね? なに話してたのよ〜メッチャ気になるんだけど! てか佐々木くんが男でも吉田君と話してたら普通にウチは嫉妬するから! マジヤバめですから! 」


なるほど。この黒染め、もとい『秋穂』とかいうギャルは教室に入る前、廊下でキャーキャー騒いだ集団のリーダー的存在だったな。吉田君に話しかけられた俺は彼女にとっては近い将来、恋のキューピットかキーマンにでもなりうるわけだな。近づいておくのが目的で今も話しかけてきた、と。なにより始末が悪いのは本人はそれを意識的にではなく無意識でやっているということだ。本能、というやつだろう。「私はイケメンと付き合いたい、そのイケメンと仲がいい男とも仲良くなっておきたい!」くらいにしか考えてはいないのだろう。具体的に根回しをしたり騙すつもりで絡んできたわけでもないんだよな、分かるよすごく。俺は手に持っていたカバンを肩にかけてグラウンドの『小池さん』から目を離して答えた。


「いや、大した話してはしてないんだよ。初対面だったしな。この暑さで体育館での練習だから少し憂鬱だ、とかなんとか言ってたな」


「あ、なるほどね! バスケ部は練習今日からあるのね‼︎ いやあ〜吉田君の汗を流してスリーポイントシュートを決める姿を拝みに行かなかいとぉ〜、サンキュね! また明日ね、佐々木くん!」


俺は片手を上げてじゃあな、のサインをした。後ろ姿からでもその楽しげな雰囲気が伝わってきた。スキップ混じりで秋穂は教室を出るとさっきの『ヤバイ女子達』、通称『ヤバ女』の友達と体育館へ向かった。廊下を歩きながらしていると思われる吉田君トークはしばらく教室の俺にも聞こえてた。でもそれも、彼女達が階段を降りると聞こえなくなった。嵐のような子だったな、ほんとに。あぁ、もうクタクタだ、帰りにコンビニに寄る気も失せた。死んだ目で俺は1階の下駄箱へと向かった。途中、秋穂と愉快なヤバ女達と再会した場合どうやって切り抜けるかも念の為シュミレーションしたが無事に上履きを履き替えて外に出れた。グラウンドにいたあの女の子、小池さんの姿はもう既に消えていた。 


ところで話は変わるが、「森」というのはどこからをいうのだろう。例えば五、六本の木々が固まっていたらその場所は森になるのだろうか。それとも二十本以上の場所が森である、という定義でもあるのだろうか。それに林と森はどう違うんだ。俺はポケットにいれてあるスマートフォンで調べようとしたが、やめた。今日は本当に疲れているし、それに歩きスマホは良くないからな。さっきまで自分の席から眺めていて、そして今歩いてるこの森の通学路はなかなか好きな場所でもある。久しぶりに歩いているんだしこの自然で目の疲れを癒すのも悪くないだろう。歩道には背の高い黒の街灯と何メートルかの感覚で置いてあるベンチしかない。自動販売機や駐車場などはなくひたすらに道、だ。左右に大きく広がってる木々からはさっきは恨みすら抱いていた太陽の光が気持ちよく顔を出している。いいねぇ、平和の象徴だ。何かに熱中することや誰かを深く愛したり、最近流行りの異世界に飛ばされたり、そんなファンタスティックな日々を送っているわけじゃないけど、俺はそれでよかった。一年の時も周りで青春の日々を送る人達の背中を見ていたが虚しさなんてこれっぽっちも抱かなかった。なぜなら、この森だ。この場所のように特別じゃなくても、圧倒的景観を持っていなくても、それでいいと思えるんだ。俺は吉田君のように背の高い少女漫画の主人公でも、そんな彼に熱い恋心をぶつけようと奔走するギャルギャル秋穂ちゃんでも、そういった人間関係をバッサリと捨て切れる強い精神を持ったソラでもない。だからこの森の通学路に小さな感動を覚える人がいなくても、ここを俺は、素敵な場所だと思える。なぜならこんなにも何も無い、中途半端で空っぽの生活で満足できる俺だからだ。色のある世界で大きな理想を追いかけてる素晴らしき人々にとっては、この場所は小さくて退屈すぎるだろう?


学校から森の通学路を抜けて、駅前まで帰るには一つの難所が控えている。階段だ。かなり長い、それに角度も凄まじい。手すりに汗をつけながら俺は登った。ひたすらに登った。その前からの疲れからか俺は少し、今日出会った人物達になにか形容し難い思いを抱き始めていた。歩いた森の通学路を振り返る。俺はあそこをいい場所だと思える。たしかに思えるが、どこにでもありそうな、ただただ続くだけの数十メートルの道に対して魅力を感じれるこの価値観というのは、それほど素敵なものだろうか? みんなのように自分の欲求を持ちそれに素直に従う、たくさんの人と出会って成長する、俺が今まで眺めていただけの、そういった前に進んでいる姿のほうが、よっぽど、価値のあるものなんじゃないだろうか。


階段を登り切ると、普段の下校時間よりも少し早いせいか駅前の人の数も普段よりかなり少なくなっていた。静かなその風景が俺の心に何か鋭利なものをゆっくりと刺している。はぁ、参ったな、さっさと帰った方がいいなこれは。冷たい烏龍茶でも飲んで昼寝でもすればいつも通りさ。今更俺が友達作りや恋人作りをしようとして、タスキを持って立ち上がっても走り切る脚力なんてないんだからな。そういうものは中学時代、せめて高校入学時からコツコツと鍛えて走り方を学ぶものであり、何もせずだらだらと1年を浪費した俺に途中から「青春」というマラソンはゴールできない。乗り越える壁を前にして「あぁ、やっぱり面倒だ」と逃げている自分の姿が頭の中で容易に想像できる。これでいいんだ。やっぱり帰りに駅前のコンビニに寄ろう。『ゲリゲリ君』の桜味が出ていたな、そういえば。


俺は家につくと買ったアイスを食べずに冷蔵庫に入れた。買う気力と食べる気力は別だったらしい。それからは動画サイトの十秒スキップボタンを何タップもしてるみたいに一日が飛ばし飛ばしで終わった。覚えてるのは風呂で髪の毛を洗った時、シャワーヘッドの位置が水圧で変わって何度もクネクネさせたことと、母の作ったミートソースが美味かったことくらいだ。季節は春。何かが始まる予感も、淡い恋心も、なにか特殊能力的なものに目覚める前兆もまったくもって無かった。気温も、俺の生活も、春らしさのかけらもない高校二年の始まりだった。

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