そうだうんこしよう
「そうだ、うんこしよう。」
魔が差した、簡単に言えばそうなるのだろう。
人間と言うものは、悩みや難解な問題を抱えた時など、処理しきれない程に多くの問題を前にすると、ずいぶん簡単にオーバーフローしてしまうものだ。先の見えない問題に、うんうん延々と思考を回し続け解決へ注力するうち、知らず知らずの間にリソースを大量投入してしまう、そうなれば次第に意識は現実から離れて行き、視覚や聴覚といった外界からの刺激への反応も軽くなり、終いに刺激そのものを無視してしまうようになる。結果、どうにもならない問題に、閉ざされた己の意識の中でグルグルと、あるかどうか分からない答えを探すことになるのだ。
その永遠と続く苦悩の闇は、エネルギー切れと危険を検知した脳の回避命令で目覚めるか、エネルギーが尽きて意識を失い眠ってしまえば終わりとなる。それと、あとあと、考えるのに飽きたとか、他に気になることがあったとか、そんな時に闇から目覚めんだと思う。
その目覚めは、ぎりぎりまで思考に割いていたリソースが、一気に開放された時に生じた空白の瞬間と共に現れる。普段は何気なく行っている理性や共通概念により抑圧され節制されているアレやコレが、意識の表層に浮かび上がり、行くのは此処ぞと花火大会最後の脈略なく打ち上げられる花火のように、空いたリソースを全力で奪いぶん回すのだ。
認識と認識が切り替わる瞬間、瞬間の狭間、その狭間には魔が潜んでいるのだ。
概念だけの説明は難解で掴みどころも無いと理解している。具体例を挙げ、理解しやすく表現するチャレンジもすべきであろう。
決して恐怖や脅迫などでなく、あなたはバカンスに訪れた。そうイメージして欲しい。
バカンスに訪れた海が見える街、買い物帰り、車のドアへと腕を伸ばした時、敷地の外に動くものをあなたは感じた。そして、同じタイミングに相手もあなたに気付き、目と目が合ってしまう。バチリと音がした気がするぐらい視線が嵌って動かせない状況だ。やや気まずい自分と違って、ニコニコと片手を上げ、自分へと手を振る気安い印象に見える爽やか青年。
唐突に何の脈絡もなく自分と自分の周囲に押し寄せてくる、環境の情報の大波。半袖シャツの腕に感じる塩混じりに湿気が多い焼けた空気、鼻腔へかすかに感じる青い草の香り。頭と肩に降り注ぐ日光、目に刺さるアスファルトと車のボディから照り返すオレンジの光。柔らかく上質な布綿で首元をふわっと撫ぜる無色の熱気。
麦わら帽子とアロハシャツの少年ぽさを多く残す好青年は、しかし青年は悪魔だと知っていた。そんな悪魔とそんなシーンに、「いい日ですね」、そう言われたら、「うまいビールが飲めそうだ」、そう返すに決まっているのだ。
これからどうする? そうなったら、うんこしてから考えよう、そうだ、うんこしようとなるのも仕方がない。まったくもって自然で大好き。
これで、理解しやすくなったはず。そんな気がする? どうだろうか?
駄目なら駄目だと言う、人間にはそんな勇気が足りていない。俺はそう思う。
わかっている、理解した振りなどしなくて良い。俺もそんな事、どうでもいい。気にしない、大丈夫。むしろ興味を持たれても困る。
ひょっとして、ここに至る経緯を説明した方が良いのだろうか?
牧場でゴロゴロして早2週間。
もうそろそろ帰るか別の場所に行くか考えていた。
「わたし便意だけど、来ちゃった」
隣のクラスの田上くんが、休み時間に机の前を通過したような気軽さで奴が来た。奴とは便意くんだ。
あ、来たのね、来ちゃったのね。じゃぁ、仕方ない、うんこしよう? そうだろ?
ポロリと口から言葉がこぼれ落ちた。落ちたのがうんこじゃなくて良かった。
俺は安堵に目を瞑って神に感謝した。そして、神に願った。トイレに紙がおわしますように。
俺もいい年の大人だ、うんこ漏らしたとか、うんこを踏んだらその後ずっと足が臭い、こんな緊急事態なら対処すればいいだけだ。自分の便意が来た事を主張した程度、何だというのだ。どうにかなるはずもない。まったくもって気にしていないのに、こうして、グダグダと自分の思考を捏ね繰り回しているのは理由がある。
視線が左頬に刺さっているんだ。
珍獣の視線が左頬に刺さって、チリチリ黒煙を上げ焦がしている。自律紳士を自負する俺は右頬も差し出すべきか?
「なにか?」
わからないので珍獣に聞いてみる。
珍獣は半目で俺を見ている。見ていると言うより観察している。
ひょっとして寝てた? 余計な事言ったか?
珍獣の手元には本が開かれてる。
本でも読みながら、うたた寝でもしていたのだろう。そうだそうだ、そういう事にしよう。
「わたし、うんこしても駄目ですか?」
珍獣へと首を振っても、ゴリラのマネをしても反応がない。
意思の疎通が図れない。再確認してみた。
確認を疎かにすると、フンコロガシが自分が坂道の上にいる事に気づかず丸いやつを蹴り落として、あぁぁ、となる奴だ。フンコロガシ先に立たずである。
珍獣がゆっくり首を左右に振る。何だ? どういう意味だ?
先の発言をよくよく考えれば、うんこしないと存在を許されない可愛そうなマイノリティー的何かが悲嘆に暮れて漏らしたつぶやき、そうとしか考えられない。まじで意味がわからない。
ここまでの自分の言動も、狂人が木こりの真似して他所様に迷惑を掛けているレベルで意味がわからない。
意味がわからない。
何が何だか、さっぱりわからない。言語が破綻してる。
俺はもう限界だ。あっちもこっちも色々と。
珍獣が首を振っているのは、右と左での見え方の違いを確認しているだけ。そう言うことにした。
相手の言葉と言いたい内容を、最大限ポジティブに受け入れる事が出来るなら、心安らかにいけると言う。気持ち良くなるあれだあれ、たぶんそれそれ。
次点で、肩でも凝っているだけだろ。あとで肩もんであげよう。
心のチラシにメモを入れた。
シュウは、すっと立ち上がり、トイレに向かう。
ここは牧場、まだ俺達は、うさぎ農園にいる。2週間が経っていた。
過去を振り返るのはやめた、未来にしか可能性は開いていない。
チューリップ、チューリップ、可能性のチューリップ、どうぞようこそ開いておくれ。
◇ ◇
「よぅ、今日も毛並みツヤツヤで美人さんじゃないか。良い事あったのかい?」
トイレから戻ると、珍獣の雰囲気が怖く感じる。なので、少し無理して気分を上げ、珍獣の良い所を褒めてみたんだ。
珍獣の反応は、鼻を閉じて開いてプスプス言わせただけだった。これは無視じゃなく照れてる、そういう事にしよう。照れているなら対応も簡単だ、ゴリゴリとこっちの意見を押し通せばいい。
初デートで何と答えていいかわからない初心な女の子を相手にした場合と同じだと思えば良いんだろ? 自分の意見がないクズが相手と思えば良い。そう思ったら、余計な事を思い出してイラッとして来た。
ああん?
俺に対する挑戦?
乗り越えてやろうじゃないか。
少しキレそう。少しぐらいキレても良いだろう。ちょっとしか切れてないなら違うしな。
「誰も入った事ない極秘プロジェクトの研究室に行ってみないか?
新しい食材がほぼ出来上がってるらしい。珍獣だけ特別に初めてのお客様となるってどう思う?」
珍獣は、耳がピクピク、鼻のフスフスも荒い感じになって来た。
珍獣の本を開く手が、グッと何かを掴んだ気がする。
もうひと押しで落ちそう。
いけるいけるぞ俺!
がんばるんだ俺!
糞女の頭をハンマーでぶっ叩いたあの時みたいに、頑張れ俺!
「ここだけの話。勇者のリクエストで、どうしても、どうしても食べたいって発注されて、ここまで来るのに5年もかかった貴重な試作らしい。」
何かに悩むようにうつむいていた顔が、ゆっくり俺に向けられる。向ける途中の珍獣の顔が止まり、小さく震えている。寂しいと震えるうさぎだろ? 俺でも知ってる。
これはもう、あとは連れて行くだけ。ちょろい、ちょろいぞ珍獣。
こいつが街に来た理由って、美味しいご飯を食べに来ただし。
ダンジョンの隅っこで、ろくなもん食ってなかった可愛そうな奴だし、美味しいものいっぱい食わせてやらないと。
トイレの帰りに事務室で聞いてきたのだ。
新肉が出来たって。
種の固定も終わり、味を調整した品種改良も完了した。だから、一応、最終確認して欲しいってお願いされたんだ。
これでも一応、俺、園長なので。
「知らない間にリリースされてる新商品、他にいっぱいあるけどいいの」そう聞いたら、普段ここに居ないんだから仕方ないんだそうだ。
最終確認で反対されても、ぶっちゃけどうでもいいし、リリースに影響もないからと、にこやかに言わないで欲しかった。泣きそうだった。
悲しみで闇に落ちた俺を、珍獣が袖の肘を引いて現実に戻してくれた。部下にいじめられてた知り合いの社長を思い出し、意識を飛ばしていたようだ。
珍獣を連れ食堂を出てカートに乗り込む。
このカートは、ベルトコンベアーの開発で、結局完成させられずゴミになった廃品と研究結果を流用して作ったものだ。自走する台車にハンドルとシートと日除けを付けただけの働く車だ。ゴルフカートにそっくりである。姉妹品として、築地をチョロチョロするカートのターレそっくりな奴もあり、そちらはスターレットZと命名してある。
このカートの名前は、レッツ・イット・カートの略でレッカーだ。研究がボツになった腹立ち紛れに適当な名前で呼んでたら、部下が勝手に製品化して名前も決まっていた。名前の由来を無理やりこじつけたアレなやつだ。今は仕方ないと諦めている。
ゴルフカートは平坦な石畳をガガガガガガと進む。小さく作るしか無かったタイヤが、路面の振動を大げさに拾い、乗り心地が悪い。
日陰のまま移動出来る利点もあるが、歩いた方が楽だろう。とても遅い。そもそもカートを走らせるパワーが足りないのだ。
移動する景色を眺めて楽しめば良いじゃないかと、気持ちを切り替え、研究棟へと運転を続けた。