7、下水道
何という臭いだ。
下水に潜ったことがないわけではないが、この悪臭には決して慣れることがない。とてもじゃないが鼻では呼吸できないが、かといって口で呼吸したら体の中が臭いに浸食される気がして、デアはなるべく呼吸を小さくした。
ジャクトのランプについていく。膝下まで下水に浸かり、ヘドロを踏み分けて歩く。バランスを崩して壁に手をつくのは嫌だ。ランプの明かりでも、石組みの壁面は苔やぬるぬるの何かに覆われているのがわかる。
光の先で、ネズミが逃げ散るのがちらりと見えた。知り合いに、下水に入って金目の物を探すどぶさらいを生業にしている者がいる。そいつの言うことには、ここのネズミは凶暴で、下手に刺激すると一斉に襲ってくる。だからどぶさらいには鼻がないやつが多いんだという。
まあ与太話だろう。そいつは高い鼻を持っていたからな。と思いつつ、デアは自分の鼻を手で覆った。
大陸一の大都市である主都の下水は入り組んでいて、どこにどう繋がっているのか把握するのは難しい。
だがジャクトは迷いなく歩いていく。下水の構造まで頭に入っているジャクトの知識には恐れ入るしかない。
ずいぶん長い間歩いた気がする。
いくつめかの分かれ道を曲がったところで、ジャクトが立ち止まった。デアのほうを振り向く。
「気づいたか?」
「人がいる。二人かな? たぶん追っ手」
デアの回答を是認するようにジャクトはうなずいて、ランプを消した。
「始末しろ」
デアは曲がり角で息を潜めて待つ。
やがて少しずつ光が近づいてきた。囁き交わす声も聞こえる。下水に対する愚痴を言い合っているようだ。
「本当にこっちに逃げたのか?」
「何でおれたちが……」
やはり追っ手で間違いない。おそらく、"鉄の"サイールのあの男ではない。ユニオンの下っ端か誰かだろう。
それは、今あの男を相手にしなくていいという点で、現在の状況では明るい材料だが、ユニオンがすでに複数の人間を投入してきているという証明でもあった。
汚水をかきわける足音が近づく。ランプの光が曲がり角に到達した。
次の瞬間、男たちの持っているランプが照らす範囲に浮かび上がったのは、ナイフを振りきったデアの姿だった。男二人の喉にうっすらと赤い線が浮かび、やがて血を撒き散らして倒れた。汚水に浸かったオイルランプの光が消え、辺りは暗闇に沈んだ。
やがてジャクトのランプが点灯した。デアはナイフの血を拭って鞘に納めた。
同じユニオンといっても、質には大きな差があるようだ。下水に入って追跡なんていう、使い走りのような役割を任される程度の人材は、実力もこの程度ということだ。
デアの敵ではない。
また歩き出した二人は、程なくまた歩みを停止させた。
「手紙の宛先へ行って指示に従い、一ヶ月待て」
とジャクトが指示を出した。
その間、ジャクトはユニオンの目をかいくぐりながら、バルザイム殺害の依頼人を突き止め、接触し、デアを追うのをやめさせる交渉を行なう。わずか一ヶ月でだ。
かなり難しい仕事だが、デアはジャクトの実力を知っている。経験も、人脈も、無限に広がっているような男だ。ジャクトならやってのけるに違いない。
「わかった」
ジャクトは上を指さすと、デアを置いて歩き去った。
上にはマンホールがある。あそこから地上に出ろというのだ。完全な闇に閉ざされる前に、デアは壁面のはしごを上った。
まだ夜明けまでには少しの余裕がある。デアは手紙の宛先の住所へ向かっていた。
特別な場所ではない。一軒家に住む余裕がある中流階級のための住宅街だ。
「テシオ・シーブルー。ここか」
表札を読んで、目当ての家の前で立ち止まる。周囲はしんとして、灯りの一つもない。
デアはその家の扉を思い切り蹴飛ばした。
鈍い音が辺りに響く。そのままデアは、扉の脇に座って待つ。
やがて家の中でランプがついたようだ。うっすらと外に光が漏れている。足音が近づいてくる。扉が開いた。
出てきたのは、太っているというより横幅が広いといった印象で、およそ悪いことはしようとしてもできなそうな、実直に見える中年の男だ。パジャマにナイトキャップという姿で、顔に対してサイズが合ってない小さな丸眼鏡をかけている。
まだ眠そうな目で、怪訝そうにデアを見た。
顔をしかめる。デアの汚さと、おそらくは臭いのためにだ。
「物乞いはよそでやれ」
もそもそと言ってドアを閉めようとする。
「ジャクトからだ」
とデアが言うと手が止まった。まじまじとこちらを見て、次の瞬間に、すごい勢いで閉じようとした。デアはドアを掴んでそれを阻止する。
ぎりぎりと力比べの態勢になった。
「閉めてもいいけど、もう一回開けるまで騒ぎ続けるぞ。追っ手も来る。おまえの家の庭でどんな戦いが見られるか」
テシオはそれで諦めて力を抜いた。周囲の目がないことを確認して、
「入れ」