59、井戸
何で帰ってきやがったんだ。
サイールがデアの頭を井戸の中に押し込もうとする。ガルチアーナが視界から消える。必死で抵抗し、頭を上げる。ガルチアーナの姿がまた見えた。
彼女が何をする気か知らないが、サイールが彼女に気づいたらおしまいだろう。
さいわい今のところ、男はデアの抵抗に手を焼いており、周囲に気を配る余裕はないらしい。男に食らいつき、デアは相手を睨み返す。
ガルチアーナが何かを拾った。血に濡れたナイフだ。デアのものである。血はサイールの血だ。腕に刺さったのをサイールが投げ捨てたやつだ。
まさか、あたしを助けにきたのか!? この期に及んで、ようやくデアはその可能性に思い至った。そんな、まさか。ガルチアーナのやつが?
ガルチアーナは青ざめた顔を決意で満たし、手にした刃を振り上げた。
寸前で男が気づいた。ナイフを避ける。が、デアの重みで完全にはかわせなかった。それでも体をずらしたおかげで、ガルチアーナが半ば目をつぶったまま振り下ろしたナイフは、男の胴体ではなく、太ももに突き刺さった。
サイールは苦痛に顔をゆがめたが、それでも声一つ漏らさない。無駄口を利かないというのは殺し屋の心得だが、ここまで徹底しているのも珍しい。
男がガルチアーナを振り払うように殴りつけると、彼女はひとたまりもなく吹き飛んだ。そのままがっくりと意識を失う。
「ガルチアーナ!」
デアは叫んだ。
男は両腕でデアを持ち上げるやりかたを変更した。デアがしがみついて離れないからだ。片腕にデアをまとわりつかせたまま、もう片手でデアの顔面を殴りつけた。デアは額で受け止めたが、まるで鉄球をぶつけられたかのようだった。不十分な体勢からのたった一撃で、まるで酔ったように頭がぐらつく。耳鳴りがする。
男と目が合った。
この"鉄の"サイールという男、一言もしゃべらず、表情も変えず、感情を抑えてただやるべきことをこなす、プロフェッショナルの鑑のような男だと思っていた。敵ではあるが、その点だけについては敬意のようなものを持ってすらいたのだ。
しかし、今見えた男の瞳は、違っていた。あれは弱者を見下す目だ。サイールはデアを弱いと認識している。簡単に言うと、なめられてる。
この野郎……!
デアの目がすっと冷たく冴えた。
踏ん張っていた足を浮かせて、蹴りを入れた。男にではない。男のももに生えたナイフの柄を思い切り蹴飛ばしたのだ。
冷たい鋼がさらに熱く男の肉をえぐっていく。無言で苦痛に耐えるサイールの体の均衡が崩れた。
ここだ!
デアは男の腕を抱え込むと、自ら井戸の中へと体重をかけた。もろともに井戸に落ちようという態勢だ。
男の体がぐらりと傾く。デアはそのまま引きずり込もうとする。
あの体勢から逆転するにはこれしか思いつかなかった。だが男の足が健在だったら、力の差で無駄に終わっていただろう。ガルチアーナのおかげだ。
男は必死に腕を抜こうとしながら、もう片方の手で井戸の縁を掴み、こらえようとする。
させるか!
デアは両足を井戸の内壁に踏ん張って、思い切り引っ張る。
「おりゃあああああ!」
そしてついに、男の体が井筒を超えて内側へと傾いた。
二人の体は地面から離れて深い穴へと落ち込んでいく。
サイールが叫び声をあげた。
黙るんなら最後までだんまりでいろよ、だらしない。一緒に落ちながらデアが思ったことはそれだった。
叫び声は井戸の中に響きながら、やがて地上から遠くなって、消えた。




