53、ふたたびここへ
一ヶ月以上ぶりの、外部の空気をデアは感じていた。
品行方正な学園の中ではすっかり夜だが、街はまだ宵の口である。
デアは夜に吹く一陣の疾風であった。通りを駆けて人の服を翻し、路地を抜けて猫を驚かせ、屋根から屋根へ、馬車を飛び石にして空を行く。
縮こまっていた羽根が広げられていく感覚。
あたしの世界、あたしの時間だ。
黝い矢と化したデアは迷いなく一方向へ向かって走り続ける。
走る方向は決まっている。
ガルチアーナを拐かしたのは工事の作業員を装ったユニオンの殺し屋だ。単に誘拐するためならばユニオンは動かない。
つまり依頼者であるリッジェーリが、最終的にガルチアーナを殺す気でいることは間違いない。
だが、まだ彼女は生きている、とデアは推測する。殺せばいいだけなら、学園内で殺して、死体を袋に詰めて運び出せばよい。そうしなかったということは、生かしておく理由があるということだ。それが何かまでは知らないが。話すことでもあるのだろう。
では、ガルチアーナはどこへ連れていかれたのか?
リッジェーリが彼女を殺すとしても、殺人が露見するのは避けるだろう。バルザイムと同じく行方不明ということで片をつけようとするはずだ。
死体を確実に隠しておける場所は主都でもそう多くない。ましてや、バルザイムが確実に死んだことを確認し、死体を井戸に隠す場面をわざわざ自分の目で見るような慎重なリッジェーリだ。小心だ。自分の目の届かない場所で事が行われるのは安心できないに違いない。
ならば場所は決まっている。
デアは駆ける。全身の筋肉を必要な限り使って跳ぶ。
そしてついに、デアはある場所で停止した。
目の前の建物を望む。
久しぶりだ。
夜に巍々として浮かぶ巨大な館。
ここはノッティングラム邸であった。
正面から入るわけにはいかないので、デアが立っているのは屋敷の裏だ。
高い塀に遮られて中の気配はまるでわからない。耳を澄ましてもガルチアーナの声が届くこともなかった。
様子をうかがいながら塀を伝って進むと、裏口のすぐそばに、一台の馬車が止まっていた。
間違いない、ガルチアーナはノッティングラムの家にいる。
一目でわかった。旧貴族街にふさわしくない、頑丈一辺倒の無骨な作りをした馬車だ。車軸も土埃にまみれている。長く磨かれていない証拠だ。つながれたままの二頭の馬も埃っぽく、鬣もまばらで、毛艶もない。
こんなものがゆえなく止まっているはずがなかった。
さっき学園で見た馬車はこれだ。
普通ならばこのような、旧貴族街に似つかわしくない馬車は、長く駐車はしない。用事が終わればすぐに去るはずだ。
ということはガルチアーナを連れてきてまださほど経っていないということか。それとも何か事情があって滞在が長引いているのか。いずれにしてもガルチアーナがまだ生きている公算は高い。
デアは周囲に誰もいないのを確認し、馬車の荷台に飛び乗る。そこからノッティングラム家の塀に飛び移った。中に降りる。
まだ夜は深くない。ノッティングラムの屋敷はそこここの窓から照明が漏れており、家中が未だ眠っていないことを主張している。デアは影となって歩を進めた。
慎重に、と自分に言い聞かせるが、デアの足は自分でコントロールしようと思うよりも早く進む。
気がはやっている。ガルチアーナの笑顔が脳裏に浮かぶ。嫌いだと言った顔が。
デアは観賞用の庭を通り過ぎ、すべての発端となったあの夜と同じ道筋をたどって進む。
屋敷の明かりの中にいる使用人が皆、リッジェーリの手先というわけではあるまい。だから建物内はリスクがある。人を殺すのに目立たない場所、行方不明にするにも手間のかからない、というところにいるのではないかと推測したのだ。
その推測は的中した。
あの夜と同じ場所だ。
誰も足を踏み入れないような、忘れられた裏庭の林である。
その中にある、古い井戸。すでに蓋が開いている。いつでも死体を落とせるように。
井戸の近くに複数の人影を認めて、デアは身を隠した。
あの日のように月は光を地上に差しかけてはいない。デアは更に状況を把握するために、ゆっくりと近づいていく。
四人いる。一人が三人と対峙しているように見えた。
一人のほうは、シルエットでわかる。豪勢に膨らませたスカートを穿いている。リッジェーリだ。バルザイム・ノッティングラムを殺させ、ガルチアーナをさらわせた張本人だ。
それと相対している三人のうち、左右の二人は男だ。その男たちが、中央の少女を両脇から拘束しているのだ。
男たちの出で立ちには見覚えがある。建築作業をする服だ。倉庫の工事をしていた連中に違いない。
そして中央がガルチアーナであることを確認した瞬間、なぜかデアの頭がかっと熱くなった。
両脇の男は役得とばかりにガルチアーナの腕を掴んでいる。体に手を這い回らせないのが不思議なくらいだった。
意図的に深い呼吸をしてデアは自分を沈静化させる。冷静さを欠いてはいけない。
ガルチアーナ本人も動じていない、あるいは動じていないふりをしている。無反応に徹することによって、男二人の手などに自分は動揺しないと宣言しているのだ。雄々しいとも健気ともいえる、彼女のたたずまいであった。




