4、共和制万歳!
そこは今まで通ったところとはまるで別の空間だった。
立ち並ぶ店、行き交う人々、夜の闇を追い払わんばかりに煌々と光を放つ街灯と、さらに各店頭に掲げられたランプ。酒場の外まで響く酔漢の胴間声。妓楼から流れる管弦の音。足をあらわに人を誘う客引きの女。
ここは夜を徹して眠らない歓楽街、通称”共和制万歳通り”だ。
王制時代ならば、いくら立地がよくても、貴族街のすぐ近くにこのような区画が存在することは決して許されなかっただろう。ここが栄えはじめたのは革命後になってからだ。だから”共和制万歳”なのだ。
ここなら人混みに紛れることができる。
マントを取ってたたみ、腕に引っかけた。人の流れに乗って、さも普通の通行人のように歩いていく。
ちらりと振り返れば、男もこの通りにやってきていた。額に血がついている。石が当たったダメージだ。ざまあみろ。きょろきょろしてるのは、あたしの姿を捜してるんだ。だけど、そうそう見つかりゃしないさ。
夜空色の髪は珍しいが、ぱっと見ではただの黒髪と区別がつかないだろう。黒髪も多くないとはいえ、紛れ込むには十分な人の数だ。
デアの背は、女としてはそれなりに高いが、男の平均程度なので、人混みに埋没する。
逆に、追ってきた男は人混みの中でも頭一つ二つ抜きん出ているうえに、流血もしている。向こうからこちらは見つけづらいが、デアから相手を見つけるのはたやすい。
といっても、見つけづらいというだけで、見つからないという保証はない。撒いたと安心して警戒を怠り、尾行され、家を特定されるなどという危険も考えられる。
完全に男の追跡から逃れる必要がある。
そのためには……。
「アナタ、ちょっとおいでなさいな。ウチでクルミでも食べていかない?」
いきなり腕を取られそうになり、デアは思わず振り払った。貧相な木賃宿の戸口に立った、露出度の高い女だ。「クルミを食べる」がいわゆるそういう行為の隠語であることはデアも知っている。
「おねーさん、声かける相手間違ってるよ」
それだけ言い捨ててすぐ離れる。
「あら、女の子だったの」
デアの声を聞いて女は目を丸くしていた。
まあ確かに、動きが女っぽくないとは言われることはある。それに、夜空の色をしたデアの髪は、肩に届かないショート・ヘアだ。明らかに男性の髪型であるため、間違えられるのは仕方ない。
辺りはけっこう明るいのに、顔立ちや体型で女だとわかってもらえなかったのもやむを得ないことなのだ。
と、デアは歓楽街の中心から離れた暗がり、目につかない路地から薄汚れた男が一人、ズボンを上げながら出てきたのを見た。
それにぴんときて、デアは素早くそっちに足を踏み入れる。
――やっぱりいた。
そこでは女が身だしなみを整えていた。きっちりした淑女の服装のようだが、どこかくたびれていて、目立たないところに継ぎが当たっている。
さっきの人のように部屋を用意する余裕もない、いわゆる街頭娼婦とその客は、こういう暗がりで立ったまま簡単にコトを済ますのだ。
「ちょっと、クルミはもう売り切れだよ」
デアに気づいた女は、こっちを向かないまま、けだるげで険のある声を投げてよこした。それが知り合い
であることをデアは確認した。
「ザグビィ、かつら貸してほしいんだけど」
声をかけると、女は改めてこちらの顔をまじまじと見た。デアを認めて表情が柔らかくなる。
「デア? こんな時間に、ジャクトのところ帰らなくていいのかい?」
知り合いだ。貧民街でよく顔を合わせる間柄だ。
「男に追われてんだ。見つからないようにしたい。かつら早く」
下層の男には、上流階級を想起させる金髪が人気だ。なので、娼婦たちは金髪のかつらをつけて仕事に臨むことが多い。
「男? おやまあ、デアもそんな年頃なのかね。髪変えるだけでいいのかい?」
「いいから、早く」
「はいよっと」
ザグビィは無造作にかつらを取り、デアに放った。ザグビィの地毛はダークブラウンだ。
かつらは毛だけでなく帽子ごとくっついているタイプだった。デアは急いでそれをかぶる。
「何があったんだい?」
「彼が他の女といるところを見ちゃって、蹴っ飛ばしたらぶん投げられて、で、追いかけられてる」
まあ、嘘ではない。
「そいつは大変だね。でも、男なんざ口先であしらえるようにならないとダメ。逃げ回るなんて、まあ、デアの年じゃ仕方ないのかね」
デアの仕事を知らないザグビィは、デアの言うことを別様に解釈した。というか、わざと誤解を生むように言ったのだけど。
デアの後ろからかつらの位置を調整してくれる。
「口先でね。それで諦めてくれりゃ楽でいいな」
デアはマントを広げる。このマントは一枚の布でなく袋状になっていて、ひっくり返すと明るい色の巻きスカートになるという寸法だ。
「へえ、そんなふうになってるのかい、そのマント。……男物のズボンが下からはみ出てるよ、たくし上げて。上着が合わないね、いったん脱ぎな。そう、チュニック一枚になって、上着に袖を通さないで肩からかけるんだ。ケープみたいにね……そう、それでなんとか新米のお仲間っぽく見えるよ。別人別人」
手早くデアの服やかつらを手直しして、ザグビィはうなずいた。
「今度テドリーの店でジン一杯おごるよ」
「おやうれしい。さ、出ようか。連れがいたほうが怪しまれないだろ? ジャクトのうちまでついてってやろうかね」
そいつはありがたい。
「……ジン、三杯で」
ザグビィの後をついて裏路地からまばゆい表の道へ戻る。
そこに、いた。あの男が立っていた。
――!?
思わずデアの体が硬直する。
男はこちらを見てはいなかった。が、すぐ視線をこちらに向けてきた。
男一人と女二人が対峙する格好になる。
これは、デアが路地にいるのを知っていて待ち受けていたのだろうか? それともただの偶然か? 果たして、この金髪の少女が先ほどまで追いかけていた曲者だと、男はわかっているのか?
デアは、背中の鈍い痛みがまだ続いているのを思い出した。
この距離でバレたらどう逃げるか、はたして逃げられるか。
デアが持っているナイフは一本だけではない。馬車の車輪のところに置き捨ててきたのは、新しく手に入れた安物だ。愛用のナイフはもっと大きく厚く、腰の後ろに装着してある。
その場に流れる沈黙が不自然な長さになる前に、ザグビィがしなを作って男に話しかけた。
「お兄さん、女が要るならあたしたちのクルミを食べてかない? この子は新人だから、二人で一人分の値段でかまわないよ」
さりげなく一歩前に出てデアの姿を隠すようにする。ザグビィはこの男がデアを追ってきたのだと、雰囲気で悟ったらしい。デアは顔を伏せている。新人らしい含羞の仕草に見えるだろうか。男の視線を感じる。
果たして、ばれるかどうか……
デアはさりげなく手を後ろに回し、ナイフの柄を握った。
「いらん」
という無関心な男の声。
「そんなこと言わないでさぁ」
デアが盗み見ると、男は顔をこちらに向けないまま、手で追い払うような仕草をした。視線は道の続く方向に向いており、道行く人の中にデアを見つけようとしているようだった。
「残念。じゃあ、行こうか」
まだ緊張しているデアの手を引っ張ってザグビィはその場を離れた。
しばらく並んで歩いた。男の姿はもう見えない。デアは詰めていた息を吐き出した。張っていた肩から力を抜く。
なんとか逃げ切ったようだ。
ザグビィが訳知りにつぶやく。彼女の額にも汗が浮いていた。
「あの男、ありゃ剣呑だね。あれと付き合うのはもうやめたがいいよ」
「むこうが追ってこなけりゃね」