29、潜入せよ、マリエーリュスのお部屋
翌日、決行の日だ。
デアはお嬢さまのたしなみを失わない範囲で、最も速く家まで帰った。
「お帰りなさいませ」
いつものようにニニーが出迎える。
「お茶やお菓子はいかがですか」
「いらない。ありがとう」
ニニーは一礼して引き下がった。
デアは足早に自室へ上がり、荷物を置いた。
よし、いこうか。
無言で気合いを入れて、廊下に出る。マリエーリュスの部屋の前へ。部屋ごとに内からかけられる掛け金があるが、今は中に誰もいないのでかかっていないはずだ。
ドアノブを握った。音をさせないように回す……
音がした。扉の開く音だ。音はデアのうしろから聞こえた。
ひやっとしたデアはとっさにノブを離した。
そっと振り返ると、マリエーリュスの真向かいの扉が開いている。中から三白眼が顔を出していた。
「何をしているの」
怪訝そうな顔だ。だがそれはこっちの台詞だ。なぜここにいる? 帰りが遅いはずなのに、あたしはできるだけ早く帰ってきたのに。
「帰るの早いですね」
「早退したのよ」
そういえば、いつもより声の張りがない。顔色も良くないし、表情も冴えなかった。動きも緩慢だ。
具合が悪かったら普通より早い時間に帰れるのか。知らなかった。校舎の医務室に連れていかれるものだと思っていた。
デアは内心舌打ちをした。早退できることを知っていたら、わざわざ姉妹の帰る時間を気にする必要などなかったのに。早く帰って好きに捜索できた。
「病気ですか」
「いいえ。第二神のお巡りよ。私は特に重いの」
ああ、とデアはうなずいた。彼女自身は軽いからあまりつらい経験はないが、知り合いの娼婦たちの中に、お巡りの重さについて愚痴っている者たちがいた。
第二神トルシーは、血と樹木と慈悲の女神だ。第二神のお巡りというのは、女性に月ごとに訪れる身体的現象のことを指す。神の御業のわりには、当の女性たちにはあまり評判がよくない。腹痛に、頭痛に、吐き気に……。
三白眼の具合は、たしかに悪そうだ。
「手間をかけるけれど、ニニーに水を持ってくるよう言ってちょうだい」
三白眼はそれだけ言うと部屋に戻った。デアがマリエーリュスの部屋の前にいた、という不審事のことは体調の悪さの中で忘れたようだ。
問い詰められなくてよかった。デアは階段を降りてニニーを捕まえ、伝言を告げてすぐに二階に戻った。三白眼の部屋のドアに耳をつけたが、気配はない。ベッドに戻ったのだろう。ニニーが上がってくる前に、デアは急いでマリエーリュスの部屋へと入った。するりと、音をさせないように。
練習通りほんの少しだけ扉を開けておく。やがてニニーが階段を上ってくる音が聞こえた。ノックする音、扉を開ける音、閉める音。ニニーが向かいの部屋へ入ったのがわかった。
ふう、と息をして、改めてデアは室内を見た。
飾り気がない。というか物がない。机上に筆記具がいくつか見えるが、そのくらいだ。花、小物、絵画、タペストリーなどの修飾はひとつもなかった。デアの部屋と大差のない殺風景さだ。デアより何年も長くここにいるんだろうに。
目立つ物といえば、無造作に壁に立てかけられた剣くらいだ。鞘に納められている。剣舞のサークルに所属しているとか言っていたから、それ用のものだろう。
日記は……たぶん机の引き出しだろう。そっと近づいて、開けようとした。
扉が開く音がした。一瞬驚いたが、これは三白眼の部屋からニニーが出てきた音だ。マリエーリュスの部屋の扉がわずかに開いていることに気づかれたらまずいが、と緊張をもって様子を見る。
ニニーはそのまま普通に下りていった。
さすがにもう邪魔は入らないだろう。デアは引き出しを開けた。
すぐに日記を見つけた。あっさりだ。まあ、泥棒の備えなんかしてないだろうしな。
適当にページを開き見る。デアの眉が上がった。
これは……。
ページをめくる。更にめくる。
それにつれてデアの表情が険しくなった。
この日記から弱味を見つけるのは、無理なんじゃないか、という思いが強くなる。
いっそガルチアーナのやつに読ませてやりたいが、持ち出すのは危険が大きい。どうしたものか……。
「面白い?」
いきなり声がした。完全に不意を打たれたデアは、驚きのあまりびくっとなり、足が浮いた。
気づかないうちにマリエーリュスが戻っていて、デアの肩越しに自分の日記を覗き込んでいた。
嘘だろ? ちゃんと警戒していたのに。
彼女の表情をうかがうが、まるでいつもと同じだ。緊張も殺気もない。日記を勝手に読まれているというのに、怒った様子もない。少なくとも表面上は。
「あんまり興味の持てそうなことは書いてないと思うのだけれど」
「ごめんなさいっ」
デアは頭を下げ、両手で日記を差し出した。
ここは謝る一手だ。
「みんなから慕われる、学園のリーダーであるマリエーリュスお姉さまのことが知りたくてつい、お部屋に入ってしまいました。本当に申し訳ありません」
「本当に?」
小首をかしげ、デアの言い訳を疑っているような台詞だ。
「ごめんなさい」
「妹に閉ざすほどの秘密はないけれど、意外ね」
「ごめんなさい」
「あまり人に興味がない子だと思っていたのだけれど」
見透かされている。
「図々しいとは思いますが、できれば、この件は内密にしていただければありがたいです」
「いいけど」
マリエーリュスは日記を受け取り、あっさり了承した。相変わらず内心がうかがえない。
「ありがとうございます。ではあたしはこれで失礼し……」
「少しお話ししましょう」
マリエーリュスはベッドに座って、隣にデアを招いた。やむを得ずデアは誘いに従った。
「学園のリーダー……リードしているつもりはないのだけれどね」
別にうれしくもなさそうに言う。
ガルチアーナも苛立つわけだわ、とデアは思った。自分が渇望しているものを持っていながらありがたがりもしない人がいたら、そいつを目の前にして反感や怒りを覚えるなというのが無理だ。
いや、別にあいつの感情に味方するつもりはないけどさ。
などと考えていると、マリエーリュスが前触れなくデアの頭を撫ではじめた。
「は?」
突然のことに反応できなかった。貧民街で初対面の相手にやられたのなら、なれなれしいと手首を掴んでひねってやるところだが、ハウスの姉が相手ではそうもいかない。
編入してからの時間分だけ伸びた髪を、さらさらと手櫛でもてあそぶマリエーリュス。デアの体がこわばる。
まさか、ガルチアーナは違ったけれど、こいつのほうにそういった趣味が……?
「あ、あの……?」
「きれいな髪ね。珍しい色」
手を引いて、デアを見つめる。この視線には、果たしてどんな感情が乗っているのか、デアにはわからない。
「ブルーブラック……というのかしら」
黝、それは殺人者としてのデアを表す言葉だ。
「あたしは夜空色と言ってますけど」
「それは詩的ね。あなたには詩がわからないという評判だけれど、事実ではないのかしらね」
「それは事実です」
とおどけてみせたが、彼女は笑いもしない。しばらくデアの頭を見つめていた。
マリエーリュスはやっと、デアから視線を外した。
「ふうん……まあ、いいわ」




