1、今夜のお仕事
デアは夜の街を駆ける。
青白く痩せた月が雲の合間から姿を見せている。
馬車が三台併走できるほどの大通りに、彼女のほかに人影はない。街灯が空しく光を放っている。
通りの左右には背の高い塀が連なっている。門はすべて閉ざされていた。ここは旧貴族の邸宅が建ち並ぶ地区だ。
暗色のマントがなびく。肩に掛からないほどの短い髪は、青みがかった黒、夜空の色をしている。そこからついた異名が"黝"。
"黝の"デア。
殺し屋だ。
今夜の仕事は今までで一番の大仕事だ。いや、これから先の生涯を含めても最大かもしれない。それほどの大物がターゲットなのだ。
そんな仕事が回ってくるほど、あたしの実力が評価されてるってことだ。デアは満足げににやりと笑みを浮かべた。
屋敷と屋敷の間の狭い路地に入ったデアは、左右の塀を蹴り、三角飛びで高い塀を上っていく。
塀を越えて、敷地内に侵入した。そこは他の屋敷に比べてもひときわ広い敷地を持つ邸宅だ。個人の家というよりは、ほとんど公園のような広さがあり、その中にいくつもの建物が並んでいる。
一番大きい主館の壁を登り、デアは屋根へと到達した。
窓から明かりが漏れている。中を見ると、一人の老人が大きな書斎机に向かっていた。机上には大量の書類が積まれている。彼の頭頂部に毛は残っておらず、周りの髪も完全に白い。
もう夜中だってのにまだ起きてるのか。さすが金持ちは違うな。勤勉だ。と、デアは妙なところで感心する。
今サインしている書類は政府の国務卿としてのものか、それとも国家有数の材木商としての仕事か、はたまた所有している大農園に関するものか。
あの老人が今回の標的である。
バルザイム・ノッティングラム旧光爵。この国でも十本の指に入るであろう要人だ。
デアはそれを窓から見下ろしている。すぐに動こうとはしない。ここから見えない位置に使用人が控えているはずだ。下手に焦っては事を仕損じる。
そもそもデアは、普段ならバルザイムが眠っている時間を待ってやってきたのだ。まだ起きてるとは計算が違った。待つしかない。
力ない月光の下、秋とはいえ吹きさらしの屋根だ。マントを羽織っていても冷たい夜風が体温を奪う。デアはぶるりと震えた。
幸い、程なくしてバルザイム老人はペンを置いた。
いよいよ出番が近い。デアは腰につけたナイフの感触を確かめる。バルザイムの動きに神経を集中させる。デアは風の冷たさを忘れた。
老人は机上のベルを鳴らして使用人を呼んだ。部屋の天井が高いせいで、ガラスを隔てたデアにはベルの音は聞こえない。
ベルに呼ばれて視界に入ってきたのは執事だった。護衛も兼ねているのか、若くて体格がいい。執事は毛布を手にしていた。きびきびとした動きで机上に毛布を置き、書類を整頓すると、机を回り込んでバルザイム老人の背後に立った。
ポケットから何かを取り出す。細い縄だ。それを、ごく自然な動きでバルザイムの首に巻きつけ、ぐいと絞めあげた。
……は?
デアの口がぽかんと開いた。
執事は、そのままバルザイムの体を無理矢理背負うように持ち上げ、さらにきつく絞めてゆく。暴れるバルザイムの足に当たって椅子が倒れ、書類が散らかったが、それだけだった。
バルザイムの体からぐにゃりと力が失われた。
執事の肩の上で、老人は死んだ。デアが見ている前で。