壁
アンディは暫く考える。
言葉の通じない相手、それも怯えている相手から信用を得るか。
少女がなんの音沙汰も無い事を不思議に思い始めたあたりで、
アンディは漸く口を開いた。
「エド。」
扉の向こうから聞こえてくる短い言葉に、少女は思わず顔を上げる。
じめっとした空気が、タイルが、傷ついた手足にヒリヒリ痛み生む。
「……エド。」
青年の低い声が、扉越しのくぐもった音で耳に届く。
──なまえ。
それが何を意味するか。それだけは、少女はなんとなく分かっていた。
やがて、キィと音を立てて扉が開く。
反射的に顔を上げたアンディと、エドと名付けられた少女の目が合う。
目を見開く少女。
微笑む青年。
「手、このままじゃ駄目だな。」
ドアノブに手を伸ばしたまま固まっているエドの、赤くなった手を包み込む。
「いい子。」
頭を撫でられて、思わず尻尾が揺れる。
「あっ……」
しかし、少女はもう一つの音を聞いてビクッと震える。
ビルだ。アンディの話し声を聞いて様子を見に来たのだろう。
「大丈夫。俺の友達だ。」
小さな体を抱き寄せて、微笑む。
怯えた表情が、少し和らぐ。
「よかった、落ち着いたんだな。」
「ああ、でも、まだビクビクしてる。」
腰から下に触れる少女の身体が、僅かに震えているのをアンディは確かに感じていた。その頭をゆっくり撫でる。目だけを動かして少女の体を確認して、ビルもまた察してくれたらしい。
「分かった。何か必要なものがあったら言ってくれ。どうせロクなモンあげてないだろ。」
……バレてたのか。
「行くぞ、エド。」
「んわ」
エドを抱きかかえて、アンディは先程の部屋へ向かう。
少し驚いた声を出したものの、エドは大人しくしていた。
「痛いっ痛いってエドッ」
ガラス片を踏みつけて傷ついたエドの手を処置し終え、足に刺さっているガラス片を抜き始めたところで、アンディのサイドに流して跳ねるように落とした長い前髪を引っ張って抵抗する。痛みに咽ぶ少女は、片手で力いっぱい髪を引っ張った。
「エドほんと痛いって、痛い痛い痛いッ」
涙目で叫びながらも屈しずガラスを抜いていくアンディを尻目に、今度は髪に噛み付いて引張られる。
「やめろってッ」
「あうッ」
流石に耳を引っ張って引き剥がそうとすると、今度はエドが涙目になる。
「うわぁんッ!!」
「いっていった!ちょっやめっごめっごめんて痛いッ」
泣きながら足をじたばたさせて、アンディの胴を蹴るエド。
手でガードしながらも、なんとか片足を捕まえてガラスを抜く。
両足やり終えたところで、しかし号泣のエドはアンディに殴りかかった。
「悪かったって!これでもういいからッちょっちょっ」
子供を相手にしたことがないアンディは、流石にどうしたらいいのかわらなかった。飛んでくる足やら手やらをガードするしかないアンディの元に、遠くから駆けてくる足音が聞こえる。
「ぅ?わぅん!」
部屋の入り口から転がってきたボールを見るなり、途端に泣きやんで飛びつくエド。そのまま本物の犬がするようにボールで遊び始める。
「……平気か?」
まだ手当が終わっていない手足に血が滲むのを見て、エドに声を掛けようとしたところにネイサンが声を掛けた。
アンディはベッドに座り直すと若干疲れた顔で頷く。
未だにエドはネイサンが思いつきで投げたらしいボールと戯れている。
……勿論、人の姿で。
アンディはため息をついて、部屋の隅のタンスを探り始める。
そうしながら、入り口でエドを見つめているネイサンに声を掛ける。
「ネイサン、頼みがある。エドの服を調達してほしい。何着かあった方がいいな。あと、あの腕を隠せるような羽織りを。」
「オッケー。ヴィルと行く。」
「ん、ヴィルも行くならまともな食材を……」
「……ハハ、そういやケチってインスタントしかなかったな。」
言いながら、ネイサンは訝しげな顔でアンディを見る。
「メシなら俺が作るよ。」
「そっちじゃない。お前もしかしてそっちだったのかと思って。」
「……ロリコンじゃねぇわ。」
アンディは片目に掛かる前髪を退かしながら立ち上がると、タオルを持ってエドの方へと向かう。
「おいおい嘘だろ?」
冷やかすようなネイサンの声。
「うっせーだからしねーって。そもそも俺は君と違ってそーいうのには興味ねーの。」
「はいはい紳士紳士。たくよう、良い子に育っちゃって」
言いながらネイサンは部屋を出ていく。
「……さて、エド!」
呼び掛けると、エドはしっかりと反応してくれる。駆け寄ってくるエドの長い髪をわしゃわしゃ撫でて抱きかかえる。本当に、さっきのことはもう気にしてないらしい。
そうして、バスルームへと向かった。