-Beginning
異変の発端はとある少年だった。
特にいじめを受けていた訳でも、親との関係が良くなかった訳でも、違法薬物に手を出していた訳でもない。
──本当に突然だった。
けたたましく鳴り響く電話を取ると、その向こうから女性の悲痛な叫びが聞こえた。
『私の息子が可笑しくなった。』
彼女の家に駆けつけた警察官の目に飛び込んだのは、
顔面蒼白で立ち尽くす夫婦と……その目線の先に居る一頭の獣だった。
「なんでこんなところにこんなものがいるのか。」
なんて疑問よりも、その異様な姿に警官すらも戸惑った。
その顔は人間の少年そのもので、その鼻は動物のように突き出し、裂けた口からは鋭い牙が覗いている。その頭部からは獣が耳が、後ろで黒い尻尾が揺れていて、困惑した表情の少年の手足は黒い毛に覆われて大きく肥大している。
「ち、違うんだよママ」
少年は鋭い爪の生えた自らの手を眺めながら言う。
「ママ……」
「やめて!近づかないで!」
母の叫びを聞いてビクリと体を震わせると、獣はその手を握り締めて低く呻くと、四肢で地を蹴って窓から逃げ出した。
「……あんなのうちの子じゃない……うちの子じゃないわ。」
座り込む母の背を撫でて介抱していると、駆けつけた警官がゴクリと生唾を飲み込んで呟く。
「……上に連絡しろ。大変なことになる……あれは、あの獣人は……」
少年の捜索をしながら、その間に似たような通報が相次いだ。
何頭と捕まり研究が進められ、数ヶ月後に政府はその獣人を『スティグマ』として正式に発表した。不安を募らせる国民に、政府はとある政策を打ち立てる。
──それが『UNDER GROUND』。通称"UG"開発。
日の光の届かない、人工的な太陽に照らされた地下都市の建設計画。
スティグマはその体に烙印を押され、UGへと追放されていった。
そうして人間達は徐々に安寧を取り戻していった。
過ぎ行く年月の中で、未だに変異するスティグマ達は徐々に数を増やしていき、やがてUG内で一つの政府を造り上げた。始まりの日から何十年も経った今、人工的な光のもとで、彼等は上界と変わらぬ暮らしを手に入れた。
……とはいえ、治安は悪くとにかく物騒で、そこらじゅうでチンピラにギャングだマフィアが喧嘩や抗争に明け暮れていた。スティグマ同士で食い争うこともあった。
そこから数年、更に数名の権力者の登場により、『縄張り』が作られる。
地区を力のある組織が統括するようになり、徐々に毎日のお祭り騒ぎも落ち着いていった。しかし、これが更に裏と表、上と下をより濃厚にしていった。
力の無い者は迫害され、繁栄する地区の外へと放り出された。多くの幼い子どもや老人が、力の無い獣にしかなれぬスティグマが、光の届かぬ闇の中で死んでいった──。
嗚呼、死ぬのだろうか。
このまま、母さんに再会することもできずに。
ここは酷い臭いがする。腐った人間と獣の混ざり合った臭い。
またハゲタカが来る。またハイエナが来る。
人の姿をしながらやって来て、獣に変わって獣人を喰らう。
──そうして、誰にも死を見られることもなく、誰にも死体を埋められることもなく、何もなくなってしまうのだろうか。
「まだ息があるな」
「バカ言え。死体も同然だろう。死にかけの小娘を苦しませろなんて言う掟はないはずだ。第一、ここの掃除をしてやってるんだからな私たちは。」
「嗚呼。」
暗闇に覗く赤い舌。唾液が頬に垂れる。
ただ待っていた。その舌が頬を撫でるのを。その牙が頬に食い込むのを──
しかし、聞こえてきたのは肉を裂く音ではない。ハイエナ達の悲鳴に似た鳴き声だ。
「掟ならあるぜ。」
よく通る逞しい声が響く。
「ッチ、FIVEか。厭らしい奴が来たな。」
「厭らしいのは君達だろ。その子、ちゃんと処置すれば助かるはずだ。」
「ふん、いけ好かないオスだ。このガキはな、人の言葉が話せないんだよ。クォルタのはずなのに、犬みたいに四つん這いで吠えるんだ、うけるだろう?今までずっと見張ってたんだ。食べごろになるのをねッ」
「……うわ、涎垂らすのやめろよ汚い。」
威嚇するハイエナを物ともせず、笑う。襲いかかるハイエナを、どうやって躱したのか声の主は死にかけの体を攫って街を走り抜ける。背後から、激昂するハイエナの声が聞こえた。
それ以上、意識を保っていられなかった。
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