1 弾痕
若干の違和感があるとすれば、それは、客にタクシーを常用するほどの財力があるようには見えなかったということだろう。
ラッパーを気取っただぼだぼのジャケットとデニムパンツに、ノーブランドのキャップとスニーカー。ジャケットの背中には、外国でそれを着れば犯されても文句は言えませんという内容の、乱暴な文句が殴り書きされている。いまいち着慣れてはいない感じの他と比べて、スニーカーだけは使用感にあふれている。全体的に、ひどく明度が低い格好だった。
客は、タクシーのドアが開くのを待って、悠々とした足取りで車を降りた。
キャップの下の顔は伏せられており、短く束ねられた髪の毛だけがしっぽのようにちろと顔を見せた。ずいぶんと背が小さなことから、女性だと知れる。まだ少女かも知れない。
繁華街から一本入ったこの道は、怪しい立て看板がひしめいていて、タクシーもぎりぎり通れるくらいの幅しかない。客引きの姿はないのに、知った顔をしてビルに吸い込まれていく人ばかり。明かりは、道向こうから洩れている街灯を除けば、あとは複雑な彩色のネオンばかり。
彼女の格好は、そんな中では清掃会社の人間くらいに存在感がなかった。
運転手が降りてきた。
ひょろりと背が高い男が、それまでタクシーの中で無理やり縮めていた腰を伸ばした。車の中でのお金のやりとりはなかったが、運転手が出てきたのはそのためではないようだ。
運転手は客商売らしからぬ態度で、煙草を加えたままトランクを開けた。中には小さめのギターケース。
彼が取り出そうとすると、背の小さな女がそれを制した。
男が身を引いて、煙草の灰がぽろりと凍え始めたアスファルトに落ちる。彼女にそんなアクションを起こされるとは意外だったかのように、眉をひょいとあげておどけた表情をして見せた。
「大丈夫か?」
男が声をかけた。それは客商売の人間のものではなかった。
ギターケースはずいぶんと重そうだ。それを男は知っているのだ。
それでも、彼女は伏せた顔を上げることもなく、両手でしっかりとギターケースをかつぎ上げた。小柄な彼女の背の半分くらいはありそうだ。
確かに、この辺りにスタジオはいくつかある。彼らの目の前にも、それらしい看板がかかっていた。ドラムの音がじんじんと地面を揺らしている。
運転手が一服している間に、彼女はトランクの上蓋に手をかける。
それに気付いて、運転手の男がトランクの端にかけていた手を慌てて引っ込める。
「何か、怒ってる?」
男が軽々と飛び退いて、彼女がトランクを閉めた。
女はまるで男など存在しないかのように、言葉を黙殺した。あるいは空気を節約しようとしているのかも知れない。
あまりにも取りつく島がないので、男は煙を苦々しく吐き出した。
それから、携帯灰皿を探してポケットをまさぐる。
「緊張してるわけじゃないだろ?」
しかし、彼女がふっと顔を上げたのは、別に男の言葉に苛立ったからではないようだった。
ポケットに突っ込んだ男の手を、彼女は無表情に注視していた。
男は視線に気付いて、若干たじろいだ。ポケットに突っ込んでいた手を止めて、一瞬だけ全身をこわばらせる。
女の視線が手元に寄せられているのを認めて、彼はゆっくりとした所作で携帯灰皿を取り出して見せた。
女は再び顔を伏せた。完全に男には興味を失ったようだ。
「後で」
聞き逃しそうになったが、男はそれが彼女から発せられた声なのだと気がついた。この場と同じ位に冷たい空気が吐き出される。
彼女はくるりと背を向けた。ビルの階段に向かって歩き始めた。
「お、おうっ……」
何の情報も発信しないその背中に向かって、男はうなづいた。
しばらく、乱暴な文句を目で追っていたが、それもすぐに階段の闇に吸い込まれた。
男は吸い殻を灰皿に落とすと、タクシーの運転席におさまるために肩をすくめた。
あるいは、初冬の空気か凍えた視線かのどちらかに、寒けがしたのかも知れない。
やがて、ドラムの音に混じって、一発の銃声。