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第09話/彼が彼女たちに「神矢レイジ」と名乗ったときのこと

前回の後半から、彼「本来」の時間、その振り返りが続きます。

9歳となった風見ナミと彼の再会です。

――座標軸:「白」の刻/6年前/03月


 その声は力強く、その小さな体は意志的に真っ直ぐ彼へと向いていた。

 彼は改めて、その澄んだ青色の瞳を、こうべを下げ覗き込むように見る。この青い輝きは、どこかで彼が「知っている」色だという認識があった。そのことを、思い浮かべ……


「……ナミ?」

「そうだよ! 兄ちゃん!」


 そう小さく叫んで、子どもが破顔する。その満面の笑顔が、そのまま飛び込んでくる。彼へと。

「もう! 兄ちゃん、ひどいなぁ。わたしのこと、忘れちゃったの?」

 彼の道着の裾をしっかりと両手で握りながら、少女、風見ナミは大きな彼を見上げていた。

「いや、そんなことは無いぞ」

 暫く目を見開いた後、漸く落ち着きを取り戻して、彼は懐かしい子どもの名前を呼んだ。彼の隣で老師が「よく一目で判ったな、レイジ君」と小さく呟く声が、彼の耳にそっと届いた。

「ナミ。大きくなったな。見違えたぞ。元気にしていたか?」

「うん! 兄ちゃんは?」

「ああ、凄く元気だ。安心しろ」

 確かに、3年半前の面影は殆ど無い。覚えているのは、雨の中でも濡れていない艶やかで綺麗な長い髪と、深い、夜明け前の青を湛えた空のような青色の瞳だった。あとは、多少綺麗めだったと言っていい子どもだという印象しか、彼の記憶の中には残っていなかった。

 

 これまで、刑務所での面会相手は、たまの例外を除けば殆ど神矢師だけだった。その際、ある程度この中野町の魔女コミュニティの話もしていたし、風見の家の話もチラリと出ることはあった。しかし、ナミもその家族も皆元気に暮らしているという話以外の情報を、彼はこの3年間、持っていなかった。

「ヒカリちゃん、この人だよ。ナナシ兄ちゃん」

「ナナシ、さん?」

 不思議そうな顔で、少しだけナミより小さな女の子が、更に首を上げて彼を見る。

「ナナシ、は昔の名前だよ、ナミ。それと、そちらの……」

「あのね、ナナシ。この子が、わたしのヒカリちゃんだよ」

 道着を持っていた手を放して、ナミは自身の妹の肩をぎゅっと掴む。そうして2人は並んで彼を見上げてきた。

 ああ、やはりよく似ている。

 彼は改めてその印象を抱いた。自然と、彼の頬が笑顔に伴って緩んでいく。

「今はね、神矢師匠から名前を頂いてね、『神矢レイジ』の通称なんだ」

「ふーん。レイジ兄ちゃん、なのね」

 うんうん、とナミは大きく頷いている。

「レイジ、お兄さん……」

 その隣で、優しそうな表情で、ナミより一回り小さい小柄な女の子が、小さく頷いている。

「わたし、ヒカリ……風見ヒカリ、です……」

 そう言った少女は、快活な光を湛えたナミの瞳とはやや異なった、深い青緑色をその瞳に湛えていた。声が小さめなのは、初対面ゆえの恥ずかしさなのだろうか。

 そして、この瞳。ああ、彼女も。この小さな女の子も魔女なのだな、と。彼はその複雑な瞳の色で理解する。遠い歴史、長年に亘る魔女狩りの為に、流転の多かった魔女・魔力持ち特有の、複雑な混血を経てきているとされる、その目の色を。

 そうしてよく見ると、この子どもも、5歳のナミと同じように、耳にはピアス、胸にはペンダントと、魔女らしい宝珠を身に着けている。魔女のお守りとしての、そして魔力補佐としての、半ば信仰に近い位置づけの身だしなみだ。

 かつて。魔女狩人ウイッチハンターであった時分の彼であれば、それらは真っ先に確認をしていたことだ。相手が、自分と同じ魔力無しか。それとも、「魔女・魔力持ち」か。そういうことを。しかしもうそれは彼の中には存在し得ない習慣になっていた。そのようだった。その事実に、彼は軽い驚きと、大きな納得の感情を覚える。

 一方、姉の風見ナミは、流石にこれから武道の稽古だからだろう。当然それらのアクセサリー類は一切身に着けていない。よくよく見れば、耳にピアスの穴の跡が確認できる。だが、それだけだ。むしろ快活なその青の瞳が、一対の宝珠のようであった。

 彼は改めて、より小さな少女に微笑みを向ける。

「ヒカリちゃん、よろしく。神矢レイジだ」

 そう言って、彼は腰を落とし小さな2人の姉妹と同じ目の高さになった。

「ナミ。これからは『レイジ』の名前で呼んでくれ」

「うん。わかった」

「ヒカリちゃんも、そうしてくれないか」

「はい、レイジお兄さん」

 声の質は、2人共とても良く似ていた。ただ少しだけ、年下の少女の方は声が細く儚げに聞こえた。声量が少ないのかもしれない。

「しかしナミが拳道を習っていたとは。知らなかったなぁ」

「わたしだって、兄ちゃんがまさか道着をきてこの神矢の道場にいるなんて、おもってもみなかったよ」

 彼が心底意外といった表情と声色だったからだろう。対するナミも堂々と、背の高い、年長の彼に張りのある声を返してくる。

「大きくなったな。幾つになったんだっけ」

「9さいよ」

「3年生だね」

 と、そこで初めて、ニコニコと3人のやり取りを見ていただけの神矢老師が、さり気なく会話に加わってきた。

「ナミちゃんはこの道場の中でも最年少だ。彼女以外の子どもたちは、大体4年生以上だからね」

「でもお師匠さま、わたしも来月には4年生に上がります」

「そうだったね。そして、ヒカリちゃんは2年生になるんだね」

「はい」

 姉と比べると、やはりどこか静やかな身振りで、妹が師匠の話に頷きを返す。

「でもね、お師匠さま。ヒカリちゃんは4月、来月には8さいになるのよ」

「そうだね」

 師匠が優しく2人の姉妹を見遣る。

「ヒカリちゃんは、入門しないのかい?」

 素朴な疑問とばかりに、彼は小さな少女に話を振ってみた。しかし少女は、首を横に振るだけだ。

「ヒカリちゃんはね、今日は見学の日なのよ」

 ねえ、そうでしょ、おししょうさま。そう付け加えるように言ったのは、少女の姉であるナミだ。

「確かに。いつもではないが、時折見学に来てくれるね。有難いことだよ」

 師匠も、それをそっくり穏やかな声で肯定する。

「それは……」

 より小さな少女は、そこで声を途切れさせてしまう。やはり恥ずかしいのだろうか、と彼がそっと見遣るが、その表情にはどこか判り難いものがあった。

「ヒカリちゃんも、そろそろ道場に入門を考えてみようと思っているのかな?」

 それっきり声を出してこない姉妹の妹に助け船を出したのは、彼の隣に立つ老師匠だった。

 しかし小さな声で、「ううん」と否定の音を漏らすと、少女は左右に首を振る。隣に立つ快活な目の色をした姉とはどこか違う、委縮した身体の動きだと彼は思った。

 姉のナミは、そんな妹を庇うかのように無言でその両手に自身の手を重ねた。

「はは、大丈夫だよ。見学は大歓迎だ、ヒカリちゃん、ナミちゃん。入門をしなくたって、ヒカリちゃんがナミちゃんの応援をすることは、それだけで力になることだからね」

 師匠はヒカリへと目線を合わせて、ゆっくりと穏やかな声で話す。

「はい、ありがとうございます」

「お師匠さま、ヒカリちゃんの見学のきょか、ありがとうございます」

 姉妹はそれぞれ道場の主に改めて礼を言うと、姉の方だけがくるりと彼へと身体を向けてきた。

「で、レイジ兄ちゃんは、どのくらいおけいこをしてきた人なの?」

「ワタシかね? いや、まだ3年も経っていないよ」

「なら、わたしとあまり変わらないのね」

 そう言って、小さな子どもはニヤリと笑った。どこか、勝気な色を帯びた笑顔だ。

 それからハタ、と何かに気がついたかのように眉をハの字へと変える。ちょっぴり自分は不機嫌なのだ。そう言っているかのような。

「でも兄ちゃん、大きいなあ」

 確かに。彼の平均身長は、この和国人の男性の平均と比してもだいぶ高い。特に今は、隣に、武道者としてはやや小柄な部類に入る神矢の師匠が立っている。

 ここ数日を見ている限り、この道場へと訪れる人の内、彼と並ぶ長身の入門者は、中野町内の大きな団地街から通う上級者の男性くらい。あとは、彼よりも身長が低い人ばかりだ。

 更に刑務所内での経験を振り返ると、看守や和国人の収監者は殆どが彼よりも身長が低かったような気がする。長く暮らした刑務所内だというのに、そこでの印象は既に彼の中では曖昧な印象へと変化していて、彼はあまりよく思い出せなかったが。

「くやしいな。わたしも早く大きくなって、強くならなくっちゃ」

「強く? ナミが?」

「うん」

 女の子なのに、「強く」とは。パッと見ても決して不美人ではない、むしろ綺麗な部類に入ると言っても過言ではない2人だが、その姉の言い分はあまりにも女の子らしさからは外れている。


「だって、わたしがヒカリちゃんをまもらなくちゃいけないもの」


 そう、どこか誇らしげに姉は胸を張る。

「そうか」

 彼は、9歳児のそんな目標に、ただ肯定の意を返す。隣の師匠も、ウンウンと軽く頷いているだけだ。ひょっとすると、これはいつもの彼女の物言いなのかもしれない。そんなことも彼は思った。


 

 子どもたちが増えてきたところで、稽古が始まった。彼も含めて、数人の大人も初級者として参加している。尤も、彼は初級と言うにはこの面子の中では大分ベテランでもあった。

 そしてもう一人、この中にはその仲間がいた。

「ナミちゃん」

 老師匠がそのもう一人、ナミに声を掛ける。

 確かに、彼とほぼ同じくらいの期間入門しているのであれば、彼女が「初級」なのは逆におかしい。だが恐らくそれは、彼女の若さと身体の小ささといったものによる都合なのだろう。そう、彼は想像を巡らせた。


 そうして全員が揃って基本の型を丁寧に収めた後、2人一組になって組稽古に入った。

 彼はその実力から、この日の子弟たちの中で組を作るのが難しかったので、神矢師に言われた通り端に退いてた。この日の大人の門下生が奇数だったということもある。

 彼は、隅でちょこんと座って見学をしているヒカリの傍に寄っていくことにした。そして何か話をしようとしたが、彼女はナミ程彼に対しての関心を持っていないようだった。最初に軽く目線で挨拶をしただけで、あとは眼を広く道場へと向けている。姉だけを追っているのではない。道場全体を見渡している。そんな目線だ。

 子どもが話をする気が無いと見て、彼もまた道場を見る。自然、動きの良い入門者へと、彼の目は惹きつけられていた。いつものことだ。

 この日、その当該者はナミだった。


 子どもたちの中では一番小柄な彼女は、しかし身体能力的には他の子どもたちよりも速く、力強く、正確に事を運んでいた。物凄く実力がある、というわけではない。ただ、身長体重といったハンディをあまりにも凌駕するレベルで、他の子どもたちを引き離していたのだ。入門してから3年近くいうから、その期間は相当きちんと稽古を積んで来ているのだろう。型の正しさからも、そのことが彼にもとてもよく理解できた。

 彼自身も3年近くの稽古は重ねてきているが、やはり週に一度の短い「刑務所内での娯楽の時間」に、数少ない自由時間での自主稽古のみという環境である。それと比較すると、ナミが積み重ねてきたであろう稽古の時間、密度よりも遥かに分が悪いだろう。

 そのくらい、9歳の彼女の動きは無駄が無く、巧みで、美しかった。


 そう、美しかった。


 彼がそう認識して9歳の彼女を眼で追い続けていると、やはり彼女が他の子どもの門下生と組んでいては、双方稽古にならないと踏んだからだろう、師匠が声を掛けて、彼女に休憩を申し渡していた。

 そうなるだろう、と彼も納得をしていた、そのときだった。

 

 彼の耳に、大人の鋭い叫び声が刺さる。

 次いで、ほぼ同時に、「危ない!」という叫び声が響く。


 身体が、最初に動いた。


 彼は、「それ」を避ける……と同時に、隣に座っていた子どもを抱えて、庇い、転がった。


 ヒカリは……無事だった。目を見開いて、恐怖におののく以前に驚きに占められた表情で、彼のことを見つめている。

「大丈夫だったかい?」

 そう、彼が聞くのと同時に。

「ヒカリ!」

 彼女の姉が、ものすごい速さで飛び込んできた。


 すぐに、彼らの方に飛ばされてきた大人の門下生も、痛む背中をさすりながら彼らへと向かってくる。

「だ、大丈夫……大丈夫ですかっ?」

「すみませんっ!」

 その組の相手も、師匠もやってきた。

「怪我は? 痛いところは無いかね?」

 そう、師匠が真摯な声色でヒカリへと尋ね、ナミがヒカリを抱き取った途端。


 「……ッ……」

  と、驚きの限界を越えて、ヒカリが泣きだした。




――座標軸:「白」の刻/6年前/03月のその日・2


 本来、拳道という武道に投げ技は存在しない。無いにもかかわらず、しかし武道ということもあり動きは活発だ。

 その影響で、組稽古をしていた中の一組が、こちらへと飛ばされてきた、というわけだ。

 師匠とナミとで、ヒカリに怪我が無いことをすぐに確認する。

「兄ちゃん、ありがとう」

 落ち着いてきた頃に、ナミが彼へと礼を述べる。その彼女は、抱き取ったまま泣き続けている妹の背中をさすり続けていた。

「いや、その……」

 無事で、何よりだ。そう、彼は続けた。声は小さかったが。

 そんな彼に、泣いたままの妹を抱えたままのナミは、嬉しそうな表情を一瞬、真っ直ぐに向けてくれた。そしてすぐに妹へと目線を戻す。

 師匠はヒカリの無事を確認し終えると、彼にも無事を確認し、次いで飛ばされた方の門下生とに向かっていった。ヒカリ自身は、まだ泣いていた。

「だいじょうぶだよ、ヒカリちゃん」

「……うん、おねえちゃん……」

 漸く、声が出せるようになったようだ。泣きべそをかきながらではあるが。それを見て、彼はホッと体の力を抜く。

 同時に、ヒカリとナミ、両方の頭に手をやると、無事で何よりとばかりにグリグリグリと髪を撫でた。彼も何か、2人の子どもを安心させてやれることばを言ってやりたかった。だが、彼の中では何もことばが見つからなかったのだ。和語はまだ、そこまで達者ではない。だから彼は、ここは子ども向けに身体言語に特化して、2人に安心を伝えてやることにしたのだ。

 2人共、それを特に嫌がる様子は無かった。彼は2人が落ち着いたと見て取ると、その手をそっと外した。

 それからも暫く、より幼い方の少女は怯えた様子が抜け切ってはいないようだった。姉の方は心配だとばかりに、妹へと声をかける。

「ヒカリちゃん、もう、今日は帰ったほうがよくない?」

 と。

 しかし。

「ううん」

 あれだけ驚き、恐怖におののき泣いていた小さな妹は、しかし姉のことばには頑として従わなかった。

「家はこの近くなのかね?」

 むしろこんな小さな子が2人だけでフラフラと歩き回る方が危ないのではないだろうか。場合によっては師匠と相談し子どもたちの家の近くまで送ることも想定して、彼は2人の姉妹に声を掛ける、が。

「うん、おとなりよ。うちは」

 でも、歩くとちょっとあるけれど。そう、姉の方は相変わらずハキハキと返事を返してくる。

 確かに。彼がこの神矢家にお世話になってからこの数日の間に確認した限りでは、神矢の家、家屋や庭、更に道場を含むその敷地全体は、和語の「屋敷」ということばに相応しい広さを有していた。隣に家があっても、それはある程度の距離があるというその言い分も、彼には理解できた。

「母屋でナミちゃんの稽古の終わりまで待っているかね?」

 戻ってきた師匠が、心配もあって更に声を掛けるが、彼女は否定するだけだ。「ううん、ここにいる」、と。

 その怯えを含んだ瞳が、しかし何らかの意図をもってここに残りたいと訴えている。皆でそこまで強制することもできないので、子どもは更に隅の方へと移動をさせ、彼らは稽古に戻る。

「それでだ、レイジ君」

「はい、何でしょう、師匠」

「ナミちゃんなんだがね」

 そう言って、今度は師匠が、背中側から小さなナミの両肩に軽く手を置いた。

「少し君の手で、稽古をつけてやってくれないかね」




――座標軸:「白」の刻/6年前/03月・その3


 その後、他の門下生とはやや隔離されるようなかたちで、2人は組稽古を始めた。


 技術的には、ほぼ同格と言ってもいい。ただ、圧倒的な体格差に基づく優位性で、彼が稽古をつける、といった様相となった。実際には、同じレベルでの体格差の違う相手とどう組み合うか、どう向き合うか、そういったやりとりに近いものとなっている。それは彼にとってもある意味ためになる体験であった。

 それにしても、すばしこい。速さだけに関して言えば、ナミの方に軍配が上がるかもしれない。彼は体格差と重量の差にかなり助けられながら、彼女との型を決め合い、同時に自分の実力をもきちんと認識していった。柔道のように投げ技でもあれば彼の方が圧倒できるのだが、細かいところでナミは勘もよく、先を見通す身体を持っている。その事実に、彼は素直に感嘆する。

 彼の中の公平な感覚で確認したことを言えば、体格差を抜きにしても、実力は彼の方が多少は上回っている、と感じられた。だが、それも本当に僅差だ。彼は侮ること無く、正々堂々と向き合って、9歳の少女と稽古を続けた。


「一休みしようか」

 周囲も休憩となり、彼らも一息入れようと、彼はナミに礼を取る。彼女もしっかりと礼を返してくる。

「レイジ兄ちゃんも、強いね」

「ああ、ナミもな」

「拳道だけじゃないよ、わたし。体育はどれも全部、とくいだもん」

「そうだろうな」

 彼は納得して頷く。

「足も早いよ、わたし」

「そうか。確かに、拳道は走り込みが重要だからな」

 そう彼は返す。

「ううん、ときょうそうの方。マラソンは……どうかなぁ。たぶんそっちはフツーかも」

「なるほど。短距離の方が得意なのかね、ナミは」

「うん、そう!」

 でも、と彼女はその先を、少しだけ言い渋る。

「……でも、いっつも1位にはなれないの。1年でも2年でも3年でも。クラスが変わっても、かならず他のもっと早い子が一人いて、いっつも2位……なんでだろう」

 一番欲しいものが、手に届かない。そう、彼女の口調からは悔しさと諦念が伝わってきた。

 それにしても、長距離よりも短距離走の方が得意だとは。拳道の術者としては、やや意外な得意傾向だと思いながら、彼は子どもを見遣った。

 そうしてとりとめも無く2人は話を続ける。

 彼も監獄時代を経て大分和語を覚えた。多少、語彙に不自由はあるものの、普通に話をする分にはそこまで大きな問題は無い。

 そして9歳の少女との会話にも、不自由は無かった。むしろ、語彙も多く文法もやや複雑なものになりがちな大人と話すよりも遥かにリラックスして話を続けられた程だ。

「でも、持久走は出来た方がいいぞ。特に、拳道をより究めるのだとしたら」

 確かに、子どもだからという部分は大きい。持久力はこれから身に着けていく分野だろう。彼はそう思った。周囲で稽古をつけている他の子どもの門下生と比べても、スタミナだけはそこまでリードしているというわけではない。そこも年齢的な要因だろう。基礎的な体力はこれからおいおい培っていけばいい、そういう年代だ。

「ま、兄ちゃんももっと走り込まないとな」

「兄ちゃんも強くなるの?」

「ああ」

 特に、強くなりたいと思っているわけではない。ただ、刑務所内で身に着けたもの中で、これが一番性に合ったのだ。だから単純に、一生をかけてしっかりと身に着けていきたい。道を、ある程度極めてみたい。それだけなのだが。そう彼は思ったが、流石に彼女にそこまでの話はできなかった。

 だいたい、9歳の子どもに刑務所に入っていたことを話題にはできなかった。ましてその罪の内容である武器携帯や密入国といった事情について、どう言えばいいのだろう。

 彼は深くそれまでの自分を反省しているし、実際罪も償っては来ているのだが、その事実をこの歳若く純真な子どもに知られて嫌われるのは避けたかった。ある程度の年になって、その時にもまだ友情が続いていれば、そのときには対等な友人として大人となった彼女に打ち明けることはあるかもしれないが。あるとすれば、それは遠い未来のことだろう。

「兄ちゃんはどんな教科がとくいだったの? 国語? 算数? 理科? 社会?」

「ワタシが、かね?」

「うん、そう」

 それからは、子どもにとって身近な存在である学校の話となった。

 彼は、自分の学校時代の話はあまりしたくなかった。学校はリタイアしたようなものだし、この時点での彼自身があまり学問に興味のある状況では無かったからだ。彼が魔女狩人ウイッチハンターへと転身した根底には、そうした学問に対する興味の無さも要因としてあった筈だ。その程度の自己分析はできていた。

 しかし彼女は、その彼の僅かな躊躇いには気づかなかったようだ。

「わたしはね、」

 国語、算数、理科、社会。大方の科目は好きだ、と彼女は言う。大きな目をくりくりと輝かせ、素直に自分の話をし始めた。

「一番とくいっていうのはないけれども……ないのかな?」

 どうなんだろう。自身のことであるにもかかわらず、そう小さく呟きを漏らす。

「あ、でも地図を見るのは好きだし、読み解きもとくいよ。動物も好き。木や花や草も好き。ずかんはよくみているわ。だから」

 と、そこで一息をつくと、彼女はその目線を少しだけ離れた妹に向ける。だが、妹は意外と長いこと老師と話をしており、こちらの2人には意識を払っていない様子だった。

「だから、わりと……ううん、地図のよみときと動物の名前あてのクイズは、たぶんクラスでもいい線行ってると思う。まける気がしないわ。だれにも」

「つまりはナミは、社会科と理科……というか、生物と地理か。それが得意ってことでいいのかな?」

「うん、そうね。きっとそう」

「じゃあ、他の教科はどうなんだい?」

「うーん、ほかはへーぼん」

 と、そこで、少し彼女の声のトーンが下がる。

「図工と音楽は、ほかの、もっとできる子がいくらでもいるし。まあ、フツーっていうか、悪くないよ。ソコソコだよ、ってところかしら」

「絵を描くことや音楽は、確かに基本的な才能もいるからなぁ。兄ちゃんもまるで駄目だ」

 特に音楽は。彼は、自身がかなりの音痴であることを思い出し、つい眉間に皺が寄っていることを自覚する。その表情がおかしかったのか、ナミがキョトンとした表情を零した後、こぼれるような笑顔になった。

「だいじょうぶだよ。兄ちゃんは、こんなに拳道が強いもの」

「そうだな。じゃあ、聞き方を変えようか。得意じゃなくてもいい、好きなものは何かね、ナミ」

「どれも好きよ。新しいことをおぼえるのは面白いし、楽しいし。新しいことに気がついたり、できなかったことができるようになったり、そういうの、うれしいもん。そこまでニガテなものってのもないし。それにお友だちと遊ぶのも、ふざけっこするのも、みんな好き。大好き」

 活発で、どの教科も楽しく学び、友人にも恵まれている、生きものと地理が好きな少女。なるほど、と、彼もまた楽しくなって、頬を緩ませながら彼女に頷きを返す。

「はは、毎日が楽しくていいな。何よりだ」

「うん、やりたいこと、たっくさん! 毎日よ」

 でも、と、彼女の声のトーンが少し、変わる。それは、どこか強い意志を秘めた声だった。

「でも、まずは拳道。うんと強くなりたい。うんと」

 そう、彼女は再び口にした。


 休憩は短い時間だった。すぐに2人は稽古を再開した。師匠の一声のもと、皆が動きを始めたからだ。ナミは短時間、ヒカリの様子を見に離れる。そして姉妹2人で少し笑い合ったあと、すぐに戻ってきて彼との稽古を再開した。


 やがて今日の稽古の終わりが告げられる。神矢老師が皆を集め、今日の出来について子どもたちを中心に褒め、次いで大人たちも褒め、更に次回の予定を告げて、解散となった。

 今度は、ナミは妹を優先する。すぐに、妹を抱きしめるように抱えて、しかしなぜか2人揃って、彼の方へとやってきた。

 彼は次の時間帯となる稽古にも参加する予定でいた。だが、少女2人は、何かもの言いたげな様子である。

 そういえば、この子たちには迎えなどは無いようだ。そう、彼は連想した。尤も、多くの子どもたちが自主的に、あるいは仲間同士で帰路についていた。ひょっとするとそれがこの和国の習慣なのかもしれない。この国は総じて治安も良いようだから、それは分からなくもない。そう、彼は思った。

 そうして殆どの子が道着の上にコートを羽織り、あるいは道着のままと言った薄着で、師匠に改めて挨拶をし、三々五々散っていく。大人の門下生も同様だ。

 さて、次の稽古はもう少し上級のコースだ。それまでに少し道場内を片付けるか、あるいは床でも拭くかと彼が師匠に意向を訊こうとすると、姉妹は揃って彼に声を掛けてきた。

「レイジお兄さん」

「レイジ兄ちゃん」

 妹と、姉。とても良く似た2つの声が、綺麗に重なった。

「ああ、2人共気をつけて。近いといっても、外はもう……」

 3月。和国では大分日が伸びているが、それでもこの時間はそろそろ暗くなり始める時間帯に突入する。7歳と9歳。早く家に着くに越したことは無い。そういう時間帯だ。

「よかったら、うちでごはんを食べませんか」

 そう、声を掛けてきたのは、姉の方だった。



(つづく)


「黒の刻」とは全く違う、「白の刻」。幸せな回想となっています。

今彼の居る「黒の刻」と比べると、なかなかにつらいものがありますが。

子どもが生き生きとして、レイジ君もほのぼのとして、拳道は楽しく……と、書いている方も楽しいですね。

いいことです。


さて、もう少し、過去回想が続きます。

この世界のことわりが、もうちょっとだけ明らかになります。


お読み頂いてありがとうございます。どうかぜひ、次もおつき合いの程を。

それでは、また。(只ノ)



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