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第03話/彼が「クローアー・ロードック」の名を捨て去ったときのこと

02話の続き、同じ日の回想です。

兄ちゃんと幼女コンビの会話劇が続きます。

――座標軸:「白」の刻/10月31日/10年前/02


 「よくもまあこんな小さな子どもが、一人で歩き回っているものだ」。

 次に彼が思ったのは、どこか滑稽な程、そのときの自分の意識とかけ離れたこの土地の治安上の問題だった。


 魔女狩りさえ無ければ、和国は基本的には治安がとても良い。そう、密入国前の組織からのガイダンスでも言ってはいたし、実際に密入国をしてからのこの数週間で彼自身が大きく実感を得ていることではあった。

 けれどもまさか、保護者も誰もおらずに一人でフラフラとで歩いている子どもがいるとは。家が、近いのだろうか。

 そうした彼の疑問がきちんとかたちになる前に、子どもは彼に尚も言い募った。

「兄ちゃん、かさ」

 そして、彼女は手にしていた傘を、更に彼へと差し出してきた。

 彼は、渋々とそれを受け取った。断ろうにも、相手は小さな子どもで、尚且つ彼はこの時分は未だ和語がそこまで達者ではなかったからだ。子どもの機嫌を損ねること無く上手に断るにはどうしたらいいのか。彼は和語でそうした会話を組み立てることができそうに無い、と思ったのだ。

「ありがとう。でも、そうしたら、君が濡れてしまう」

「だいじょうぶだよ、兄ちゃん。わたし、もう『かさのじゅもん』、もっているもの」

 そう言って、青い瞳の幼子は、にっこりと笑顔を浮かべた。

 彼女が言う通り、彼が既に彼女の差し出した傘を手にしていても、彼女が微塵も濡れていないことに、彼はすぐに気がついた。

 

 そうか。これが、「魔力行使」というものか。


 しかし彼女はいつの間に、「傘の呪文」なるものを唱えていたのだろうか。彼には、子どもが何かを呟いたようにはまるで見えなかった。とはいえそれは単純に、彼が呪文の詠唱に気づかなかっただけなのかもしれないが。


 そも、魔力持ちの魔力行使は、大抵の場合は呪文とセットである。体内のエネルギーを魔力に変換させるのに、そういった仕組みが欠かせないのだ、と。そう彼は聞いていた。TVなどでもそういった場面を見た。また、所属組織のライブラリーでも、そういった邪悪な力と呪文とのセットで為し得る魔力行使なるもののビデオを見たこともあった。

 しかし目の前の子どもがそれらと同一とは、彼にはとても思えなかった。だが、子どもが一切濡れていないのも事実だ。

 そんな疑問を隠せない彼の様子を一切考慮する気配も無く、子どもは彼を楽しそうに見上げている。実に、楽しそうに。

 一体、何が楽しいのだろう。彼には、子どものことなどよく解らなかった。

 更に。

「ヒカリちゃんは、まだ、かさのじゅもんが、いえないのよ」

 そう言って、子どもは彼にはわけのわからない話をし始める。何らの脈絡も無く、整合性も無く、子どもは自分の興味の赴くままに話を始める。

 如何にも、子どもらしい。

 そう思いながらも、傘を借りているということもあり、彼は子どもの話を聞くことにした。

 何より彼にとって、実際に生きて、呼吸をして、話をする「魔女、魔力持ち」の本物と相対したのは、これが初めてのことなのだ。


 そして彼は、「傘の呪文」という「魔力行使」を直接目の当たりにして、それをもっと見たくなったのだ。単純に。

 正直に言えば、魔女、魔力持ちによるそうした魔力行使は、怖いものである。彼を含む多くの魔力無しには成し得ない、魔性の力による物理法則の悪用なのだから。

 しかし、彼自身もまだ10代後半の若者らしい好奇心は持ち合わせていた。恐怖心よりも、好奇心。彼の感情は素直に動く。

 しかも相手は、小さなちいさな、無力な子どもだ。


 彼の手の中には、武器もあった。大丈夫。


 そんな、目の前の子どもとはまるで不釣り合いな連想をしたことに、彼の中に小さくも後ろめたい思いが過る。そしてそれをやり過ごすかのように、一瞬だけ強く瞳を閉じると彼はその連想そのものを思考の中から追いやった。

 そうして彼は改めて、彼女の貸してくれた傘を見る。

 傘は、子ども用の小さなものだった。18歳、そして平均的な和国人よりも立派な体格の彼が広げるには、少々面積が狭い。既に肩幅の広い彼の両方の肩に雨粒がポトリ、ポトリと落ち、冷たい滲みを作っていた。

「あ」

 子どもが声を漏らした。

「兄ちゃん、かさが、たりない?」

 そのことに、この幼子もすぐ気がついたようだ。そこまで気のつく子どもとは、珍しい。地面に近い子どもの位置からは滲みは見えないだろうが、雨が彼の肩に当たっていることは流石に見えているのだろう。

 自分がこの位の歳の頃には、まず思い浮かばなかったその連想。それは、この子の個性というものだろうか。なぜか彼は、自身の姉や兄たちの、末の弟である彼への気遣い思い起こした。

「ああ、そのようだね」

 彼は少し微笑んで、彼女の思いやりを有難く感じているのだと、表情でも伝えることにした。

「大丈夫だよ、ありがたい。君、家まで送ろう」

 このときの彼の笑顔は、本心からだった。それに礼を言われたからだろう。子どもはどこかホッとしたように、元の、子どもらしい影の無い澄んだ笑顔へと表情を変えた。

 しかしいくらここがこの子どもの地元であるとはいえ、こんな小さな子どもが一人ぼっちでウロウロしているのはあまり良いことでは無いと、彼は改めて思った。いくら、この和国が、魔女狩りを除けば治安がとても良い国なのだとしても。

 だから彼は、そう彼女に伝えたのだが。

「おうちはいいの。わたし、おうちにいるの、あきちゃったんだもん」

 だから遊びに出たのだと、子どもが目線で訴えかける。

 彼にしてみれば、子どもを家まで送りながら、あれこれ話を聞き、また魔女の家の中か、せめてその周辺の家々を見ることもできるだろうという期待もあった。

 だが、子どもはもう少し外を散歩したいと言い張った。

「兄ちゃん」

 そう、彼女は再び、彼を見上げて呼びかけた。

「わたしのこと、『たかいたかい』、できる?」



 彼は、子どもの言っていることばの意味が、よく判らなかった。

 無理もない。

 彼は数週間前に和国に来て、必死に和語を勉強してはいた。そうしたものの、この時点では、まだまだ彼の和語使用は付け焼刃といったところだったのだから。今、こうして会話が辛うじて成立しているのも、子どもの語彙の少なさと喋りの遅さが彼の事情と一致しているからに過ぎない。

 そうして、実にたどたどしい和語で子どもと何度もやり取りをして彼が理解したのは、彼女をおんぶするかあるいは肩車をしろ、という要求だった、らしい。幼児語という概念すら無い彼ではあったが、根気強くやりとりをしたおかげでなんとかその内容を理解することができたのだ。


「たかい、たかーい!」


 そして。

 彼女の要求に従って、なぜか彼は、初めて会ったばかりの子どもを「高い高い」、つまり肩車をして、この雨音郡、西乃市の中野町を歩いている。傘もささずに。

 簡単なことだ。雨除けの魔力を行使しているこの子どもが彼の頭の傍にいれば、その恩恵を彼も被る、というわけである。彼女が説得したのは、まさにそこだった。

 けれどもきっと、この子どもは、単純に「タカイタカイ」とやらをしてほしかったのだろう。それもまた大きな要因に違いない。そう、彼は受けとめていた。少なくとも彼女の悪戯っぽい色を秘めた青の瞳の色からは、そうした要因があるように感じられたのだ。彼には。

「とおくまでみえるよ、兄ちゃん」

「そうかね」

 子どもは軽い。けれども、何ともいいように使われているようで、彼は少し不機嫌な気持ちだ。

 しかし。子どもの手を取った瞬間から、彼は雨に濡れるという感覚が身体から飛び去ったことを体感した。その瞬間。驚きよりもむしろ喜びが先に立ったのだ……何とも、不思議なことに。

 実際に、子どもの身体は、彼にとって邪魔になる程の重さは無かった。それどころか、軽いと言ってもいい程だった。しかし、温かい。人としての温もり。彼はそれをダイレクトに感じていた。雨を弾きながら。


 こうして、彼は見知らぬ子どもを肩車しながら、彼女の行使する傘の呪文で雨を避けつつ、中野町を練り歩くこととなった。

「ところで君」

「ナミよ」

「ナミ?」

「そう、カザミナミ」

「カザミナミ」

「うん」

「それが、君の名前かね?」

「うん」

 頭上にいる子どもの表情は、彼にはわからなかった。けれども、どこか、彼女がそう言いながら、彼に微笑んでくれたような気が、彼はしていた。

「カザミ、がみょうじでね、ナミ、がわたしのなまえなのよ」

 少し自慢気な声色で、彼女が自身の名前を名乗る。

 名前。

 とはいえ、それは通称で、真名ではない。それが魔女文化でもある。それでも姓名併せて名前を名乗るということは、相応に対応しようという意思表示でもあるということくらいは、魔女文化をよく知らない彼にも見当がついた。

「兄ちゃん、おなまえは?」

「ワタシは……」

 彼は、言い淀んだ。


 一応は、偽造パスポートには適当な名前をあしらってはある。必要な時はそれを名乗りやり過ごすのだと言われており、実際にそうしたことも何度かあった。

 けれども。彼は、この子どもにだけは、そうした偽りを為したくなかった。そう思った。

 それは、小さな気持ちではあった。けれども、彼の偽りの無い本心でもあった。

 では、「本名」を名乗ろうか。いや。

 それもまた、彼は違う、と感じた。理屈ではなく、背景も何も無い、直観。少なくともそのときの彼は、そう感じた。

 だから彼は、又も言い淀む。

「兄ちゃんはね、名前が無いんだ」

 出てきた答えは、それだった。

「ふーん」

 子どもは案外、どうでもいい、といった声色になって、彼の頭上から軽い返事を返してくる。

「兄ちゃん、ナナシなの」

「ああ、そうだな」

 なぜ、そんなことを言ってしまったのか。後々数年のときを経ても、彼は未だにそのときのことばの選択がどこから出てきたのか、解らずにいる。

「ねえ、ナナシ兄ちゃん」

 子どもは彼の身の周りに関してはあまり興味を持たなかったらしい。そのまま名無しなのだと納得して、そのまま勝手に話を続ける。


 肩車をしている子どもは、相変わらず重さを感じさせなかった。彼自身が頑丈な身体の持ち主ということもあり、あまり重量に頓着することも無かったのだ。だがそれにしても、軽い。

 同時に。彼は、母国の家族の中では末子で、自分よりも小さな子どもと家の中で過ごすような機会はこれまで殆ど無かった。勿論、従兄弟などは沢山いるのだが、それらの中でも彼は最年少者に近い。そう思い返して、彼は、このくらいの年齢の子どもと話をすることも、その手を握ることも持ち上げることも、これまでまるで経験が無かったことに、漸く気がついた。末子として庇われる経験こそ数多あれども、自分より小さな子どもを庇護するような機会、その巡り合わせが無かったのだ。

 その事実に、彼は小さく動揺した。

 ナミを、肩車しながら。

 極東の地方都市、その片隅で。


 そんな彼のわずかな躊躇いに気がつくこともなく、子どもが彼の頭上で嬉しそうにはしゃいでいる。

 やれ、空が近いだとか、遠くが見えるだとか、けれども遠くと言っても雨だからやっぱり見え難いだとか、話は子どもらしく支離滅裂だ。彼は、習いたてのよくわからない和語を必死で頭の中で整理整頓しながら、小さな子どもの話に根気よく付き合った。子どもらしくゆっくりと喋ってくれるのが、彼には大助かりだった。

 それに、子どもが地元を散歩したがっている状況は、斥侯という彼の今の仕事には実に都合がいい。丁度、この地をいろいろと見て回れるではないか。幼いとはいえ、地元民の案内つきで。

 そんな彼の邪な発想を微塵も想像すること無く、子どもは子どもらしいのんきな話をどんどんと繰り広げていく。

「ヒカリちゃんはねー。ひとつしたの、いもうとなのよ」

「ナミは幾つなのかね?」

「5さいよ。ヒカリちゃんは4つよ」

 でもね、生まれた月が違うから、ヒカリちゃんは幼稚園では2つ違いになるのよ。わたしは早生まれだから。

 そう、まくしたてる子どものことばの意味を、彼は半分も理解していなかった。和語が解らないこともあったが、それ以上に和国での学齢システムが母国と違うということを、彼は想像ができなかったのだ。和国では学齢の区切りが4月から始まる、ということに。

 考えてみれば、彼が母国を離れ、外国の地を踏んだ体験は、この和国への密入国が初めてなのだ。その土地ごとにそれぞれの習慣があるという概念も発想も、このときの彼は持っていなかった。

 ともあれ、子どもの話によれば、この子は5歳であり、生まれは2月であり、あと4カ月で6歳になる。妹は4歳であり、生まれは4月であり、10月末の今は丁度4歳と半分、といったところである、等々。

 半ばチンプンカンプンではある話なのだが、なぜか彼は、この子どもとの会話を妙に面白く感じた。意識がポジティブな方向で高揚している、と言ってもいい。

「ナミのお父さんとお母さんは、仕事に行っているのかね?」

「ええとね、お母さまは、ようじなの。スズノハのお姐さまにおよばれ。父さんは、おしごと」

 父親と母親に対する呼称が違うと思ったが、彼はその疑問を彼女に問うことは止めにした。それ以前に、当時の彼の語彙にはそうした質問を形成できるだけの数が無かったのだ。

「ということは、ナミ。君は、本当は外に遊びに出てはいけないんじゃないのかい? しっかり留守番をしておかないと、お母様にしかられるよ」

「そんなことないわ」

 彼がその後のたくさんの幼児語でなされた彼女の言い分をなんとか聞き取ると、どうやら彼女の家は彼に声を掛けてきた場所のすぐそばだったらしい。だからそれは、外出と言う程の距離ではない、という認識なのだろう。少ない和語の単語理解から、彼はそう推測する。

「わたしは、おさんぽ。そとあそびなのよ」

 それが仕事だ、と言わんばかりに声を張る。

「兄ちゃんは、なかのちょうに、なんのごようなの?」

「兄ちゃんは……」

 急に、話が彼へと言及される。 

 彼はそこで、この和国滞在時に必要となった際によく使うこととなった言い訳を、彼女に対しても使うことにした。

 つまり、彼は和国留学を予定している外国人であること。この雨音地方の東乃市の大学に、和語や和国の文化を学ぶ為の進学を予定していること。その下宿先を探しにやってきているということ。東乃市の隣となる西乃市の市街地かこの中野町辺りで適当な物件があればと思って見て回り始めたところだということ。大学には入学前の段階だから今はまだ旅行の立場でこの和国にいるのだということ、等々。


 まさか数年後、彼がこの適当に言った話の殆どを実現してしまうことになるとは、このときは微塵たりとも想像したことは無かったのだが。


「じゃあ、わたしがあんないをしてあげるわ」

 えっへん。そんな語尾がつきそうなほど、彼女は自慢を帯びた声で頭上から彼へと言い放つ。

「あ、ここはタカハシさんのおうちよ。おっきいいぬがいるのよ。おとなしいの。ムクムクで、にんぎょうみたい」

「おむかいはイトウさんのおたく。うえのおねえちゃんはピアノがひけるのよ。したのおとうとくんも、がっきをならいたいんだって」

「ここのナカムラさんはね、おじいちゃんとおばあちゃんだけのおたくなの。でもね、ねこがなんびきもいるから、わたし、さわらせてもらいにいったことがあるわ。かわいいのよ。おばあちゃんは、ねこといっしょにおねむするんだって」

 いきなり、子どもはマシンガンよろしく、ご近所の紹介を始めていく。

「ねこ、ちょっとうらやましいの」

「羨ましい?」

「うん、だって」

 子どもは、言った。「使い魔に丁度いいじゃない」、と。

 「使い魔」。彼は、少しだけその単語を聞いたことがあった。確か、魔女、魔力持ちの連中は、小道具や小動物に魔力を通して、それを使役するのだ、という。道具として使用するのが、そうした「使い魔」というらしい。

「そこの御宅……ナカムラサン? は魔女なのかね?」

「ううん、ちがうわ。でも、なかのちょうのごきんじょさんなのよ」

 そして、魔女じゃないから、あんなに可愛がっている猫を使い魔にしたいと言ったら悲しがるに違いない、とも。子どもの言い分は、彼には半分くらいしか理解ができていなかった。しかしナミの口ぶりからは、動物を、その生きものの意に反して使役することへの拒否感と、「使い魔」を所有したいという意欲とが、同時に伝わってきた。当人もそうした矛盾があることをうっすらと理解しているのだろう、といったことも含めて。

「にちょうめのササキさんのところにも、ねこがいるのよ」

 そこのねこは、かしこいの。そう言って、ナミはまた嬉しそうに笑った。そのササキサン、とやらも魔力持ちではないらしい。根掘り葉掘り根気強く会話を重ねて、彼は漸く結論づける。

 やはり、この周辺、中野町のこの辺りは、魔女と、魔力無しとの住宅が混在しているようだ。

「ナミ、魔女のお友だちのおうちはどこにあるのかね」

「ああ、それなら、こっち」

 彼女の指す「こっち」の方向へと、彼は足を向ける。

 中野町は坂道が多い。急坂ではないが道の殆どに適度な傾斜がある。ただ、それは彼にとって苦になる角度ではなかったし、頭上の子どもの重量はそこまで負担ではない。不思議な程に。

そうして、子どもをずっと肩車しながら、中野町の中をてくてくと、歩く。

 雨の中、坂を上ったり下りたりしながら、その間にも彼女は魔女や魔力無しの家のあれこれを滔々と述べていく。

「コロウの魔女姉さまは、ひとりずまいなのよ。とってもしずかなひとなの。あつまりがあっても、ほとんどおしゃべりしないんだけどね。でも、」

 やさしいの。そう、彼女は、どこか深みのある温かい声を小さく繋ぐ。

 「コロウ」が後に「孤狼」の魔女のことだと彼が知るのは、それから数年後のことだ。同じ町内でつき合い始めて5、6年が経とうとしている今も、彼がその女魔女おんなまじょの肉声を聞いた回数は本当に少ない。

「他の仲良しの魔女は、いないのかい、ナミ。この町に」

「いるよ! タツミ・ミツキちゃん。いとこだよ」

「タツミサンは、ナミより……」

「2つうえの、お姉さん。がっこうにいっているの」

 たてぶえがとくいでね、いつもおうたをおしえてくれるの。あたらしいおうたなのよ。そう、まるで我がことのように、ナミは自慢気に会話を繋ぐ。

「ミツキちゃんは、わらうと、えくぼがとってもかわいいの」

 でもね、わたしの妹の方が、もっとかわいいんだから。なぜだか彼にはよく判らない比較をしながら、ナミは従姉妹と妹を自慢する。

「タツミサンのおうちも、ナミと同じ4人家族かい?」

「ミツキちゃんチはねー、ミツキちゃんだけだよ」

 3人か。どうも、子どもの話はまだるっこしくてわかりにくい。

「大婆さまは、もっととおくにおすまい。なかのちょういっちょうめのはずれのほうよ」

「あっちかい?」

「ううん、ぎゃくっかわ。そっちは『なかのちょうだんち』があるほうよ。よんちょうめとごちょうめ、ろくちょうめがそっち」

 「中野町団地」。それは、この西乃市どころか雨音地方きっての大団地街である。彼の属する魔女狩り組織が、中野町の魔女集落をターゲットにするかどうかを判断する際に悩んだのも、その団地がどの程度魔女組織と関連があるか、というところだったのだが。

「団地にも、魔女のお友だちはいるのかい、ナミ?」

「スダのぶんけのおうちがあるわ。あとは、だれかいるかもしれないけれども、わたしはしらないの」

 子供の話は、とにかく目まぐるしく変わる。そうして、あちらこちらをフラフラと歩き回りながら、この家はオウムがいる、といきなり話が更に明後日の方へととんでいく。彼が根気よく聴き返すと、そのオウムのいる家は只の魔力無しのご近所さんだった。その一方で、流し聞きしていたナミのご近所さんの魔力持ちの家では、無機物を小器用に使い魔として使いこなしている家があるとか、あるいは樹木に魔力を込めている家があるだとか。アクアリウムの魚類を使い魔にしている家もあるという。

 家の並びとしては、魔力持ちの家庭が完全に混在しているのではなく、どうやらそれなりに通り一本を隔てて棲み分け、といった感じで町が構成されているようなのだが、ナミの話がとにかくわからない。彼は半分諦めて、ともあれこの町の雰囲気だけでも掴もうという線で妥協しながら、ナミを頭上に頂きつつ、雨の町中を傘もささずに歩いていた。

 濡れることも無く。


 そうして、暇な子どもの遊びにつき合うようなかたちで、彼は魔女狩りの為の下調べをしていたのだ。


 そこでふと、彼は思い当たる。


 傘の呪文。それを持っている魔女、魔力持ちであるナミが、どうして、物質マテリアルとしての傘を手にしていたのかを。

 だから、彼がそれを問うたのは自然なことだった。

「ナミ」

「なあに、ナナシ」

「どうしてナミは、傘の呪文、を持っているのに、その……」

 本物の傘も持っているのかね、と。

「ああ、そんなこと」

 さも、何事でも無いかのように、彼女の声が軽く、上から降って来る。

「だって、魔力無しのひとは、びっくりするでしょう、って。お母さまが」

 確かに。彼のような、人類の大多数を占める魔力無しから見れば、傘の呪文自体が異端なものだと言えよう。

「となりにならんだしらないだれかが、びっくりしないように、って。魔力無しのひととおなじでだいじょうぶなことは、おなじようになさい、って」

 驚かさないように、と母親が娘に言い含めていた、ということか。しかしそれは同時に、魔力無しの中で目立つな、魔女としてのアピールを減らせ、という意味もあるのかもしれない。彼はそう、頭の中でナミの回答を別の角度で受け止める。

「でもナミ。君はワタシに傘をくれたじゃないか」

「だって。ナナシ、こまってたでしょ」

 どうしてそんなこともわからないんだろう。ナミの声色には、そんな気持ちがありありと乗っていた。

「お母さまも父さんも、こまっているひとがいたら、てだすけしなさい、って」

 彼は、ことばに詰る。

「てだすけのできるうちに、こまっているひとには、てをさしだしなさい、ちからをわけあたえなさい、ただしきみちに魔力をつかいなさい、って」

 彼は、何も言わなかった。

 言えなかった。

「だから、ナナシは、こんどはだれかべつのこまっているひとに、てをさしだせばいいのよ。そうしたら……」

「次の人が、また別の困っている人に、手を差し伸べるんだね」

「うん、そう。お母さまはいってたよ」

 頭上で、うんうん、と幼児が頭を振る様子が感じられる。彼が腑に落ちたことが、彼女にも理解できたのだろう。

「このよのなかは、魔力無しのひとと、魔力持ちのひとと、どっちもいるけれども」

 どっちも、持てる力をわかちあえばいいだけのはなしなのよ、って。

「……随分と難しいことをお話されるんだね。君のお母様は」

 思わず漏れた彼の声は、少しだけ掠れていたかもしれない。

「うん。ようちえんでね」

 喧嘩があったの。そう、彼女の声が小さくなった。

 喧嘩をしたのが誰と誰なのか、彼女の話は要領を得なかったが、ひょっとするとナミ自身がした喧嘩なのかもしれない。そう、彼は思った。

 魔力無しと、魔力持ち。それぞれが5歳かそこらの小さな子ども同士の、些細な喧嘩だったようだ。

 けれども彼女の声色からは、どこか傷ついた人間のような声がした。

「もうこれいじょうね、けんかをね、しなくなるように、って」

 そう、母親に尋ねたのだろう。あるいは、周囲の大人たちにも。

「そうしたらね」

 子ども同士の喧嘩そのものは、謝り合って終わったらしい。ただ、その根底にあった「自分と異質なモノ」への感情。それをどうやり過ごすか、どう捉え直すか。この子どもが直面したのは、そうしたなかなかに哲学的な課題だったらしい。

「だから、お母さまが」

 そう、言ったの。言ってくれたの。

 そこだけ。どこか、嬉しそうに。朗らかに。

 小さな子どもは、彼にそう告げた。




――座標軸:「白」の刻/10月31日/10年前/03

 

 隣に魔力持ちの人間が住んでいる。そんな経験を、18歳のその日迄、彼は想像したことがなかった。体験が欠けていただけではない、文字通り、そうした軋轢があることを一度たりとも思ったことが無かった。そればかりか、そうした思いを魔力持ち、魔女たち一人ひとりが感情として抱いているということを、彼は思ってもみなかったのだ。

 魔女などは、潰しても何ら問題もない、虫けらと同じくらいの、無意味な存在だと。

 本当に、そのほんの少し前まで、そう思っていたのだ。


 しかし。そこで彼は思い出す。

 彼はこの町に来た任務をまだ大してこなしてはいなかった、ということに。


 ともあれ、今日、折角歩き回ったこの地域。もう少しだけ、地理関係を把握したい。

 そう思い、彼は頭上のナミに何を問うべきか、考えを巡らせた。


 子どもは、先程の話はもう引き摺っていなかった。呑気な様子で、この国の歌らしい何かの歌を歌っている。彼が初めて聴くリズム、初めて聴くメロディだ。朗らかで、どこか面白い。殆ど彼の国で聴くことの無い種類の旋律だった。リズムもこれまで耳にしないタイプのものだ。

 何の歌だろう。そう、彼はふと問いたくなった。問いたかったが、彼はその疑問を口にせず、ことばを止めた。

 むしろもっとその音を聴きたいということに、彼の判断のヤジロベエがほんの少しだけ偏ったのだ。

 歌が終わった。

「ナミ、何の歌だね、それは」

「うん、なかのちょうおんど」

 それが「中野町音頭」だということを知るのは、彼が刑務所での3年間の勤めを終えて、ナミと風見家と再会してから間もなくのことだった。


 ナミは歌に満足したようだ。余韻を残して、2人は声もなく歩く。

 そうして彼が、この町を一望できる場所が見たい、と少女に告げた時、彼女は少し考えているような雰囲気を身に纏った。しかしすぐに、

「うん!」

 と元気に言うと、指をかざしながら彼に方角を言い渡した。

「きた、よ。きたの、さかを。さかをどんどんとのぼろう、兄ちゃん」

 雨は小降りだが流石に太陽は見えていない。東西南北、と言われても、陽光で方角を確認出来ない今、彼は子どもの言い分を飲み込むしかなかった。まだはっきりとしたこの地域の地図を、彼は目にする前だったのだ。

 それにしても、5歳児でも、東西南北の概念があるのだろうか。今まで町内を練り歩きながら、しかし東西南北などといった話は一切出てこなかった。彼は不思議に思って、子どもに尋ねるが、その子ども自身も要領を得ない。そして、子どもにいろいろとインタビューをして彼が判ったことは。

「だって、お母さまも父さんも、さかをきたにいく、っていうもん」

 要は、大人の受け売りということだった。

 しかし、彼女の言い分のお蔭で、今彼らが歩いている坂道が南から北へと上り坂になっていること、その坂の上にバス停があり、大きな道が東西に走っていること、などが彼の頭の中に地図として描かれていく。それに、これまで子どもを肩車しながら歩き回った位置関係を落とし込んで行く。すると、彼は頭の中に案外はっきりとした「雨音郡、西乃市、中野町」の地図を描くことができた。


「ほら、あっちに、だんち!」

 団地、とナミが右手で指をさしたのだろう。頭につかまっていた右手が離れる感触を彼は意識する。その手に従って、彼は右を向く。北を向く彼らの右、即ち東の位置には、何層もの面積を占める、大きな団地群らしきものが見えてきた。先程ナミの話に出た、中野町の大団地群があれだろう。

「あそこも中野町なのかい?」

 町の意外な広さに驚いて、彼は思わす声を漏らした。質問というよりも、感想に近い。

「うん」

 中野町は広いのよ。対する彼女はそう言って、とても自慢気に、朗らかに微笑んだ。否、その微笑みは彼には見えていなかったのだけれども、きっとそうに違いない。そう、彼に実感させるだけの呼吸を、頭上から伝えてきた。

 

 坂を更に上る。すると、徐々に車の行き交う音が前方から響いてきた。距離はあるが、どうやら、彼女が最初に言っていたバス道、あるいは街道のような大きな道路があるようだ。彼が最初にバスから降りたのもその道だったに違いない。

 取り敢えずは、目指すゴールはそこだ。そこで中野町を軽く俯瞰して地形を把握し、適当な頃合いだろうから、この子どもをさっさと家へと送り返してしまい、更に夜間迄この辺りの地形と、魔女集落の造りを把握して、明日以降は地図を入手して数日かけて本格的な探索を……そう、彼は次の算段を考えていた。今日、この日の訪問は、単純にその前段階、下準備の一環でしかなかったのだ。本来は。

「兄ちゃん、あと少しだよ」

 そこでね、一番この中野町が良く見える場所があるの。そう、彼女が声を張る。子どもらしい声色である筈なのに、なぜかその声色が、彼には妙に大人びて聞こえた。

 おかしなことだ、と彼は思う。頭上にいる為に表情が判らない。だから、彼はそうやって変な連想をしてしまうのだろう。そう思った。

「ほら」

 見えてきた車道。雨だというのに、多くの車が行き交っている。車道の向こうは、また別の町だという。

 やれやれ、随分と長い坂道だった。そう、彼は思い返す。坂そのものは、そう急な角度ではない。けれども距離はあった。やはり中野町は彼が思う以上に広いらしい。改めて彼はその認識を強くする。

 そして、信号のある交差点へと彼らは登り切った。ゴール。そう、彼は一人内心で呟いた。

「兄ちゃん」

「なんだね、ナミ」

「このまま、うしろ、みて」

 彼女を頭上で支えたまま、雨の中、傘もささずに、しかし雨に濡れることもないまま、2人は南へと身体を向けた。


「ね」


 そこには。


 町が、広がっていた。



 どうということの無い、普通の町だった。

 住宅がある、人が住んでいる。とはいえ雨ということもあり、人は殆ど通ってはいなかったが。電線があり、細々とした家が並んでいる。

 すぐ手前の左の家には、鉢植えがとても綺麗に並べられていた。右手の家には子ども用の自転車が雨除けのできる軒先に置かれていた。その先には……


 そうして彼は、徐々に視界を広げていく。

 そうして彼は、町のその先に広がる風景を、目に焼き付けていく。


 見晴らしがいい、というナミのことばに、間違いは無かった。

 そうした、市井の人びとの暮らす町並み。その先にも住宅、町があり、更にその先には小都市が、その先には海があった。そうした暮らしの光景が、彼の視界を、占めた。


「きれいでしょ」

 子どもが、先に結論を口にした。

 彼の最初の感想は、見事にそれと共鳴した。


 普通の町並みだった。しかし上から俯瞰すると、そこは随分と広々と気持ちの良い町に見えた。そのかなり先にある街は、西乃市の中心地である市街地だ。更にその少し先にあるのは、南の海。海洋に面した西乃市らしい、当たり前の風景。そして上には、曇天がある筈だ……

 そう思って、彼が上を見上げようとすると。

「兄ちゃん。おろして」

 子どもが、着陸を要求してきた。彼はそのことばの通り、子どもの身体を丁寧に取りながら、彼の肩から外してやった。そして彼女の2本の足がしっかりと大地を踏みしめたことを確認すると、漸く安心して肩の力を抜く。子どもを支えるという初めての行為に緊張していたのだと、その時点で彼は初めて意識をした。

 しかしすぐに、その手を、彼女は躊躇なく繋いできた。


 右手と、左手。


 右手を塞がれたのは、彼だった。


 左手を差し出したのは、彼女だった。


 そうして彼女は、彼の右手を、奪った。

 シャラン、と彼女の左手のブレスレットが、涼やかで美しい音を小さく響かせる。

 温かい、小さい、柔らかい。その手の温もりに、彼は力を感じた。彼女が頭上にいたときよりも、なぜか、彼はより彼女の事を身近に感じていた。

「ねえ、まえ、みて」

 彼女がそう言ったが、しかし彼は上を見た。

 曇天がある筈だった空は、しかし気がつくとその殆どが風で流れ去り、雲は切れ端となって、青空が輝きを見せ始めていた。

 いつの間にか、雨が止んでいた。

 既に、ナミの呪文が無くても濡れることが無いことに、彼はこの時点で初めて気づいた。

「兄ちゃん、まえ!」

 再び、彼女が声を上げる。少し、強めに。そして、彼がその声に合わせて、前を見ると。


 どうということの無い町。どうということの無い風景。しかし、人が日々の営みをしている。町がある。暮らしがある。

 町から街、そして海洋と続くその風景を、高くなだらかな丘から見下ろすその風景は、どうしたことか、とても綺麗に見えた。先程の感想通り。否、それよりも、もっと、輝きを増して。綺麗だ、と。彼の心の奥底から、その感想は湧いてきた。

 陽が射し始める。少し西の方からだ。そちらにも町があり、街が広がっていっている。東には、団地街。そしてこんもりとした森もある。

 町や街の間に飛び飛びにある森林や公園と思しき緑地が、雨に濡れてその緑色の輝きを一層強く放つ。

 

 陽が、己の住まう天空に、しっかりと光を放ち始めた。


 陽光が、遠く南の海洋を照らしていた。


 なんと綺麗なんだろう。そんな、凡庸だが温かい感想が、彼の身体の中から自然と、しかし途切れること無く湧き上がってきた。

「ね。きれいでしょ」

 彼の右手を繋いだ少女は、とても誇らしげな声で彼へと呼びかけていた。

 自然と微笑みを浮かべて、彼は右手の子ども、ナミを見遣る。

 見下ろした彼女は、まるで彼が彼女の目線を捉えることを知っていたかのように、力強い輝きで、彼を見上げてきた。

 その青の瞳の中には、強い誇りの色がある。見開いた目の湛える澄んだまなざし、素直で真っすぐな眉の線、柔らかい頬の下にある意志的な唇は心からの自信に満ちた微笑みで快く形取られていた。

 その小さな手が、ほんの少し力を強くして、彼の右手を捉え直す。


「わたし、なかのちょうが、すきよ」

 だいすき。そう、繰り返し、彼女は言った。声にも、強い誇りが滲む。


 その声に共鳴するかのように、彼は自然と目線を再び、南の全面へと向ける。広く視界を取り、目の中にその風景を治めようとしながら。


「ああ、綺麗だ」

 彼の声は、自然と漏れた。

 だが、声が出るよりも。それ以前に、心の奥底で。


 彼は、その風景を見られた幸運を、全身全霊で感謝した。

 彼の右手が、ほんの少し、ナミの手を強く包み込むように、力を増した。



 彼女と同じように、その風景を「美しい」と。そう伝われ、と思いながら。


 シャラン、と少女のブレスレットが再び綺麗な音を響かせた。



 そのとき。何かが彼の心に響いた。

 彼は、自分の内心の声を、聞いた。

 そして。その声に、彼は、従った。


 それが、彼の結論だった。



「ナミ」

 どこか、強い声で。

「何? 兄ちゃん」

「ここから一番近いコウバンはどこかね?」

「こうばん? 兄ちゃん、まいごなの?」

 見上げてくる青の目は、明るかった。そして、少し不思議そうな貌をして、彼を見ていた。

「ああ、ナミ。どうやら、ワタシは迷子になったらしい」


 そして。


 彼は、和国の交番に出頭し、数日後に彼と彼の属する組織の行おうとしている犯罪行為を、自首することにしたのだ。




(3話ここまで)


02話と違ってグッと長丁場でしたが、実質はこの02話と03話でひとくくり、です。

ここで回想は一旦小休止、また「黒」の時間軸へと戻ります。


お読みいただき、ありがとうございます。どうかぜひ次もおつき合いの程を。

では、また。(只ノ)

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