表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/24

第23話/彼が大学を目指していた頃のこと

ミツル父さんの状況が落ち着き、彼は本格的に大学進学の為の行動を開始します。

そして少女は、小学校卒業です。

さて。

――「黒」の刻/02月27日・消灯後


 眠れなかった。

 それは、不安や恐れといった要因ではなかった。


 体……身体と心の解離。体が心に沿うことが、決して無い。そんな違和感。それが根底にあるようだ。そう、彼は判断する。


 起き上がって、彼は、本来の自分の体であればなんら不自由の無い行為である拳道の型をあれこれとつけてみる。

 汗が出るほど丁寧に、正確に、時間をかけて。

 しかし、この身体は「他者」のものだ。借りもの、紛いもの、偽もの。だから、動きもまるで違う。違和感は深まりこそすれ、薄れることはない。この身体になってから、ずっとこうだ。



 ……そろそろ、日を越しただろうか。




――「白」の刻/4年前、秋


「レイジ、ほんッとうに、済まん」


 日曜日の朝。ミツル父さんが、神矢の家までやってきて、彼に深々と頭を下げた。

「父さん、どうしました。落ち着いてください。頭を上げてください」

「でも、レイジ……」

 これまでも、彼が仁さんの家から風見家まで酔い潰れた自身を連れて帰ってくれたことに対して、父さんはその度に深刻な程に詫びを入れてはいた。だが今回は、これまで以上に真剣に、彼に詫びを強く言い募り続けていた。


「もう、深酒はしない」

「飲むときは適量に留める。必ず」

「絶対に意識のある内に家に帰ってくる。自分の足で」

「というか、飲む機会もこれからは減らそうと思っている」

「いや、思っているだけじゃいけないな。減らす。ああ、減らすとも」

 等々。先日の、上下とも服を駄目にしたあの深酒が、どうにも堪えたらしい。

「いや、でも……」

 彼は、仁さんの話からそこまでのこととは受け取っていなかったので、父さんの話を遮るが。

「いや、もうあんな……あのズボンも駄目にしたしなぁ」

 洗って返すと言っていた服は結局それでは済まなかったのだと、父さんは恥ずかしそうに口にする。ひょっとすると失禁以上の酷い状態だったのだろうか。父さんの名誉に関わることなので、彼もそれ以上尋ねることはしなかったが。


 散々と謝った後、父さんは、

「これまでの埋め合わせは、絶対にする」

「レイジは今勉学に集中するときなんだからな」

「レイジの勉学の足を引っ張るだなんて、人間失格だ、俺は」

「いや……レイジのお手本でないといといけない年代だよな、俺」

「とにかくレイジ、お前の大学合格まで、ウチでしっかり面倒を見てやるからな」

 等々、父さんは慌てるようにあれこれと言い募った。

「いえ、まあ。とにかく父さん、勉強はワタシが頑張ることですから、そこはいいんです」

 流石に前回のあの酒盛りの後、仁さんから釘でも刺されたのだろうか。彼はそう思って、父さんの会話を誘導してみる。だが、どう角度を変えて話を展開してみても、父さんからそうした話は出ない。

痺れを切らした彼は、ついには、具体的に、

「仁さんに何か……言われましたか?」

 と切り出してみた。

 しかし父さんはというと、

「いや、それが……まるで、ないんだ」

 だからこそ、ちょっと怖いんだけどな。そう、父さんはどこか据えた目を、町の南へと向けながら呟いたのだった。



 ともあれ秋口。ミツル父さんは、なんとか自力で帰ってこられる程度のお酒で抑えられるようになっていた。有言実行。同時に、飲酒の回数も減っていた。

「約束だからな」

 父さんは彼にそう、こっそり打ち明けるように呟いた。



 父さんがそうやってかなり落ち着いてきた頃、彼は風見の居間にいることが多くなっていた。

 彼は間近に迫った試験に向け、勉強に集中していた。神矢の屋敷の自分の部屋でも相当勉強を重ねていたが、半ば習慣的に、彼は風見の家で勉強をすることが多かった。それに対しては誰も、不思議だとも何とも思っていなかった。彼も、また風見の家の皆も。そして、神矢の家族たちも。

 彼とは違い、ナミは地元の公立中学への進学が決まっている。従姉妹のミツキのように私学を目指してはいない。だから彼のように勉強にそこまで熱心になる状況があると言えなかった。元より成績もさして悪い方ではないという。クラスでも上位グループで、体育ばかりか学問方面でも利発な子どもという評判を貰っているらしい。

 とはいえどうしたことか、彼女もまた彼と一緒に勉学に励む時間が長くなった。秋分を越え日が落ちるのが早くなり、昼の時間よりも夜の時間が長くなってきていた。だから、机に向かうにも丁度いい。そんなこともあったのかもしれない。

 2人揃って、1階の居間で、温かいお茶を飲みながらそれぞれの勉学に励む。

「兄ちゃん、てきとーな頃になったらドリル、こっちに渡して。採点するから」

「うむ、ナミ、ありがたい」

 そうは言っても、この頃にはもう彼の学問レベルは小学校を越えていたのだが。そしてそれを、ナミも知っていた筈なのだが。

 いつも、2人はそんな風にやりとりをしていた。


 外が暗くなる頃、彼は「息抜き」と称して、母さんやナミとよく一緒に台所に立った。

「レイジ君、これ、勉強にならないんじゃないの?」

 母さんは楽しそうな、しかし少しばかりの心配の色を瞳に乗せながら彼に尋ねるが。

「いえ、和食の素材は知らないものもまだまだ多いから……これもまた、勉強ですよ」

「そうそう。玉ねぎのタマ、の字を思い出したりとかね」

 ナミが、横から口を挟む。

「ナミ、和語ばかりじゃないぞ。科目は多岐に亘るからな」

 これだって勉強なのだ、と彼はむしろ自分に対して呟いた。

 3人で何かをするには台所はやや狭かったが、それでも皆で食事を作ることは楽しかった。やはりこれは、彼にとっては勉強というよりも娯楽、実質の息抜きであった。

 そしてまた、食事をしっかり摂ると更に集中力が増すようだと、彼は感じた。食後、父さんが帰ってくるまで、彼は集中して勉強を続けた。


 実際のところ、この年の大検の出題には、和食に関する分野も少しばかり追加されていた。お陰で、彼が風見家の台所で手伝いをしたことが結構役に立った部分もあったのだ。棚から牡丹餅、といったところだろうか。



 この年、この季節の父さんは、仕事が忙しかった。仁さんと一緒に飲んだくれていなくても、家への帰りはやや遅めとなっていた。それでも、何があっても必ず家で食事を摂った。この頃になると、父さんが遅めの夕食を摂るその脇で彼とナミが勉強をしている、といったことも増えていた。彼が神矢の家へと戻る時間も、遅くなることが多かった。


「これだと太っちまうなぁ、俺」

 俺も、道場に通った方がいいだろうか。

 そんなことを、父さんはぽつりと口にした。彼が父さんの視線の先を追うと、夕食と言うには随分と遅い時間を指す時計の針があった。

「道場は歓迎しますよ、父さん」

 その父さんの発想に彼は嬉しくなり、つい張りのある声で大きく返す。

「でも俺、今まで体を動かすような趣味ってやったこと無いんだよな……」

「なるほど。それなら、少し走り込みから始めてみませんか」

 そうだ、ナミ、一緒に走ればいい。そう、彼はナミにも話を振ってみる。

「えー、父さんと走るの……」

 きょとん、とどこか話にピントが合わないといった表情で、少女の青い瞳が父さんと彼とを交互に見遣る。

「うーん、本当? 父さん、走れる?」

 彼女の顔は、父と一緒に走ると楽しいという連想を一切排除した表情だ。むしろ、己の父が今の話を実施可能かどうか、それを実務的かつ冷静に点検する、といった表情になっていた。

「……どうだろうな」

 その視線の意味を読み取ってか、父さんの返事もどこか声が弱々しい。

「だって父さん、お仕事、今ものすごく忙しいんでしょ? 土日だけ一緒に走るってこと?」

 それでもいいけど、とナミは続けるが。しかしその目には「信用してないゾ」といった色が濃く浮かぶ。

「っていうか、土日の朝、早くに起きられる? 父さん」

「……どうだろう」

 どうだろう、どころか殆ど自信の無い声になって、父さんが呟くように返事を返す。

「そうか、うーん……どうかなぁ……」

 言い出しっぺの癖に、煮え切らない。その様子がかわいそうで、彼は助け船を出すように、

「まあ、父さんが走りたくなったらでいいですよ」

 と言って、その日は別れを告げたのだが。

 父さんは結局道場へ来ることも、また走り込みに付き合うこともなかった。

 タイミングも悪かったのだろう。そう、彼は思っている。彼自身、試験が近いこともあり、自分の状況に手一杯。自身に、父さんが何かを始める為の助力に入る余裕など、まるでない。そういう状態だった。

加えて、大検の後は即座に入学試験に備えねばならない。そういった背景もあった。とにかく、時間的余裕がまるでなかった。

 実際に状況を自己分析すると、現状は大検の勉強に対応するだけでやっとといったところ。その数カ月後に控える入学試験への取り組みなど、相当の無理があった。

 彼の気持ちの中に歯がゆいものが残った。己だって父さんの役にも立ちたいのに、と。


 ともあれ、今は、大検に集中すべきである。神矢老師にもミツル父さんにもまた他の人びとにも、これまで受けてきた沢山の恩をかたちとして返すには、まずはそこから始まる、と。そのことだけは、彼もよく解っていた。

 そう、彼は考えを切り替えて、この時期は雑音を一切排除し勉強に集中していった。


 そうして、彼は試験に挑み……無事、その壁を乗り越えた。




――「白」の刻/4年前、秋から冬


「運が良かったね、兄ちゃん」

 ことばこそやや揶揄めいているが、ナミの青い瞳は心底嬉しそうに彼を見上げていた。

 晩秋。彼の大学の受験資格が確定すると、風見の家でもお祝いの膳が設けられた。

「ああ、数学と理科に関しては、本当に助かったよ。まさかあそこまで自分の過去の勉強分野と被るとは思わなかったからな」

「このチャートシートだと、苦手分野の和語関連の部分を、そっちの点数でカバーしたっぽいね。あと、英語。スゴイじゃん、兄ちゃん。まあこっちは兄ちゃんの得意分野になるのかな」

 うんうん、大したものよ。そう言って、彼女の青い目がくりくりと動き、最後に彼を自慢気に見つめる。

「結果論だけど。とにかく、やったね、兄ちゃん!」

 試験内容に関しては、幸運が重なったと言える。合格シートの分析結果はナミが読み解いた通り、理科、数学といった、彼が母国で子ども時代に勉強した内容でぎりぎり間に合い、その成績でが結果的に底上げへとつながった。和語を覚える為に活用した子ども向けの理科教材の内容を覚えていたことも、功を奏したようである。

 数学も、単純な計算分野はまるで問題が無かった。但し和語の文章問題が入ると勘違いが発揮されて、2、3は見当違いのことになっていた。それでも、基本はこの辺りの高得点が貯めとして作用したようだった。

 英語に関しては、彼は元が英語圏の生活者であった。母語こそ彼の属する少数民族のみが遣う少数言語だが、幼少時から英語の使用に大きな不自由は無い。但しそれは会話などの実用のみで、和国の試験で重視される「文法」を意識することは無い。その為、とにかくまずは基本を押さえること、特に単語の綴り違いをしないことに重点を置いて、彼は大検への対策を練った。英文法の参考書にも彼の理解を促す良書が見つかった。そう、幸運が重なった。

 幸運ということでいえば、社会科関連の教科も同様だった。彼の最も苦手とする、というよりも彼に蓄積の無い和国史に関する比重が、今年は少なかったらしい。元より和国の歴史的事件など殆ど知らず、想像がつくのはせいぜい時代劇で描かれた部分のみ。そんな彼にとって、年表を見てよく知らない歴史的事件を暗記するということは、かなりの苦痛だった。だが今年はそうした出題は少なかった。それどころか時代劇で見た内容に近い息抜き問題が出されるなど、幸運の女神はここでも彼に微笑んだ。近代史や政治経済といった関連の分野はいずれも一般常識に沿った内容で収まっており、彼も躓きを最小限に食い止めることができた。

 最大の課題である和語も、直前の勉強分野に近い出題が続き、「張った山が当たった」といった状態だった。とはいえ、ある程度はマシという程度でしかなく、彼にとって一番の課題はこの教科であった。成績的には、足を引っ張っていたと言える。

 しかし他の教科で下駄を履かせてもらっていたこともあり、総合的には合格点にぎりぎり手が届いた、というわけだ。

「ふむ。問題は……本番の大学受験だな」


 神矢家でも老師とリサ夫人、そして悟朗少年の心尽くしの夕食会があったが、同時に大人3人は食事を楽しむとすぐに、来る大学受験への対策という実務的な話に移った。晩酌を欠かさない老師が殆どお酒を飲むこともなく食事をしていたことを不思議に思っていた彼は、すぐさまその事情を理解した。

 悟朗少年は、リサ夫人から席を外すように言われると、あまり抵抗することなく部屋を移り、大人たちだけで話がしやすいようにしてくれた。

 悟朗も、ナミ同様、地元の同じ公立中学に進学を予定している。とはいえ彼の場合、成績は学級でもかなり下位の方という話で、

「レイジ君を見習って、悟朗ももうちょっと勉強すればいいのに」

 とリサ夫人はため息交じりに零す程、座学には縁の無い生活をしていた。そういったことも、あったからかもしれない。


 そうして、彼は神矢家で、実務的な受験対策についてすぐさま話を開始した。

 大学受験、そして合格に対する見立ては、かなり厳しいと言えた。

 だが、神矢家は強い意欲でもって、彼を支援することを約束してくれた。



 同じ話題でも、風見の家ではその辺りはかなり楽天的な話に終始していた。


「兄ちゃん、受験生なんだ、凄いね」

 なんか、嘘みたい。小さく呟いてナミが隣の席で眩しそうに彼を見上げていた。

「うん。なんか兄ちゃんも実感が湧かないな、ナミ。これが」

「そっかー。大学、受かるといいね」

「ああ。もう明日からすぐに受験勉強だ。頑張らねばな。うむ」

 そうして脇から父さんや母さんが、自分が大学受験の年はこうだった、でもそれはもう10年以上前のことだから今は違うだろう、来年の傾向はどうだろうか、とやや懐かしむように自分たちの受験の思い出話を重ねていく。

 それからはむしろ、大学入学後の2人の出会いの頃の話が主となっていた。ごく微量の惚気を含むそれは殆ど受験には関係が無かったが、しかし彼にとっては頬の緩む話でもあった。



 直後から、彼の大学入試の試験勉強は本格化した。

 しかし準備期間があまりにも足りないという事実は、勉強を重ねれば重ねる程、彼には大きな事実として圧し掛かってきた。

 とりわけ神矢老師は、楽観視しない方がいいだろう、と眉に皺を蓄えながら、呟くように彼に話していた。

 

 西乃市の中野町から通える範囲での大学で、彼の興味を引く「和国文化論」「多文化共生」「平和学」等、そうした分野を専門に学べる大学は限られていた。幾つか篩い落としをした末に、彼は国立と県立の2校を候補に残した。いずれも、合格ともなるとかなりの難関だ。加えてどちらも社会人枠の募集はとても少なく、毎年の倍率も相応に高いということだった。


「でも、兄ちゃんは英語ができるじゃないの」

「できると言っても和国の受験用のものとはまるで違うからなぁ」

「わたしなんか、ぜんぜん知らないもの。英語」

「そうだな……そうだ。大学に受かったら、今度は兄ちゃんがナミに英語を教授するとしようか」

「えー、兄ちゃんから? やだよー」

 小生意気な目線と軽やかな声で返してナミは笑うが、流石に大学受験の勉強分野は彼女の歯の立つ分野ではない。彼がどんどんと学力を向上させていることを、彼女も認めているようだった。

 冬も近くなると、彼は風見家よりも、神矢家の自室、あるいは近所の西乃市図書館の中野町分室で勉強することが増えていった。

 それでも道場は欠かさずに手伝い、ナミとも頻繁に顔を合わせてはいた。


 冬が本格化し年明けを迎える頃には、彼も、和国における大学受験の勉強のコツのようなものが辛うじて身についてきた。


 だが、時間はそれまでだった。


 健闘はしたが、惨敗。


 彼の春は、丸一年先に、持ち越された。




――「白」の刻/3年前、春


 2校分の大学不合格の通知が来たのは、ナミの12歳の誕生日を迎えてすぐ後のことだった。2月下旬。日が随分と伸びてきていた。寒さよりも温かさの方が話題に上がることも増え始め、季節は少しだけ春の気配を漂わせていた。

 椿、梅、桃、そして桜。

 彼の誕生月の3月に入ると、この年は春が早いのか、南の地から桜の話題がよく聞こえて来た。

 その頃には、彼も気持ちを切り替えて、「あと1年。次の年こそは」と上手く勉強の計画を立て、コツコツと自習に励むようになっていた。



 同時期。ナミは小学校を卒業した。


 彼も、悟朗少年と彼女の2人の縁者として、卒業式に保護者として列席した。

 背が高く体格もがっしりとしている彼は、どちらかというと小柄な神矢夫婦の隣に座りながら、周囲に自分の長身が邪魔になっていないか、少々心配に思いなが保護者席に着く。慣れないスーツ、ネクタイが少し苦しい。少しばかり離れた席には、風見の夫婦が仲睦まじげに立派に成長した娘の姿に目を細めていた。


 和国ならではの公立小学校卒業式のあれこれは、それを初めて見る彼には珍しく、しかし少々退屈だった。

 ただ、これだけ多くの子どもたちが集まり安心して勉学に励んでいること、そして殆どの子どもとその家族が飢えや貧しさと無縁で暮らし、それ故だろう、殆どの子どもがきちんと学業を修めて立派に卒業している事実に、彼は感動していた。

 よくよく考えると、ヒカリの事件があった直後から3カ月程の間は、彼もよくこの学校へとナミを送り迎えしていたのだ。その際も、何度も何度も、大勢の子どもたちが平和かつ楽し気に学んでいる様子を見てきていた。だというのに。彼は2年前のそのときには思わなかったことを、この日、このときに強く意識し、また実感した。

 尤も、あの頃は、風見家が憎悪犯罪によって尊い命を一つ喪った、その直後である。平和云々の発想そのものが出来る状態では無かった。魔女、魔力持ちにとっては、次の襲撃や魔女狩りを恐れている時期でもあった。彼の意識もそうだった。

 だがあれ以降、和国内に類似の凶悪犯罪の話は無い。小さな差別事件といった話は結構聞かれるが。


 子どもが一人ひとり、名前を呼ばれ、檀上で証書を受け取っていく。人数は多いが一人ずつ必ずきちんと手渡す、といった手法らしい。ナミも、また悟朗もフルネームで名前を呼ばれて……ナミの場合、それは魔女らしく通称の「風見ナミ」であるのだが……それぞれが自身の卒業証書を受け取っていた。ナミのその凛々しい背中を見ながら、彼は自然と頬が緩む自分を意識した。

 そしてきっと、他の子どもたちにも、それぞれの親が、家族が、きっと同じように我が子を誇りに思い頬を緩めていることだろう、と。そう思った。

 

 そうした風景を見ながら、彼は同時に、貧しさと飢えが絶えず背中から追いかけてくるような、自分の生まれ故郷のことを強く思い出す。貧困故に、進学どころか最低限の学問の履修そのものを簡単に諦めてしまう、それが当たり前の感覚として受け止められている、自分の生まれ育った寒村を。そしてそれと類似した村々が、世界のそこここに存在している事実を思い起こして、眩暈を覚えた。

 彼はここで、初めて、「学問とは何だろう」と改めて自問する。

 これは、自分の裁判や、その後のヒカリの裁判での証言でも語ったことではあった。だがそのとき以上に、彼は今、真剣にこのことを考え続けていた。

 長くかかった証書の受け渡しが終わり、今、壇上では、地域の政治家らしい壮年の男性が話をしている。彼はその話を聞くこともなく、学び続けるということ、そうして知識と見識を培い、社会をより良くしていくとは、具体的にはどんな行為を言うのだろうか、何をやることなのだろうか、と。そう、ずっとずっと考え続けていた。


 学ぶこと。

 彼はこの日、ひょっとするとこの日に、心の底から、その意味と意義を、獲得したのかもしれなかった。

 かたちにはなっていない。概念すらない。けれども、それは小さな種となって、彼の道を照らす一筋の光として輝いていた。

 振り返れば、そういうイメージだったのだ、と。そう、後に彼は己を語る。



 卒業の式典も終わり、学校は本格的に解散となった。

 親同士の話が尽きない神矢の夫婦、それに風見の両親を確認する。どちらもまだ時間はかかりそうだ。彼の鉄色の目が、校庭の隅にある程よい大きさの桜の木を捉える。いずれの両親からもそこまで離れていない位置である。向こうからも視認がしやすいだろう。そう思い、小さく頷くと彼は引き寄せられるかのように、ゆっくりとその木の下へと向かった。

 強い色を帯びた桜の蕾が、幾つもいくつも木を取り巻いている。その意外とはっきりとしている色を見ながら彼はぼんやりと立ち尽くしていた。

「兄ちゃん! いたいた!」

 探しちゃったよ。まったく、もう……そんなことを言いながら、ナミが彼を見つけて駆け込んでくる。

 元よりナミは、友人が多い。そうした仲の良い子たちとの話が、やっと済んだのだろう。

「もう友だちとの話はいいのか、ナミ」

「うん。だってどうせ中学でも一緒だもの。みんな」

「ああ、そうか。そうだったな」

 多くの卒業生は同じ地域の同じ公立中学に進学するという話だから、ここで進路が別になる友人が少ないのだと、彼も前に聞いていた。ごく一部の生徒はミツキのように私学の中学校へと入学を予定しているということだが、ナミの親しい友人にはそうした子どもは少ないらしい。バレエを嗜むというあの小太りの少女を含め、何人かの顔見知りの子どもたちの顔を思い浮かべ、彼は穏やかに頷きを返す。

そうやってぼんやりと彼女を見遣り、微笑むと、彼はまた眼を桜へと戻す。

「花」

 と、彼女は口にする。

「え?」

 不思議に思い、彼は彼女を振り返った。

「もうすぐ咲くね、桜」

「ああ……そうか」

 そうだな、と。彼も彼女にことばを返す。彼が桜に気を取られているから、話題を合わせてきたのだろう。それに彼女も、桜の美しさは好ましいと感じているようだった。

「桜の蕾ってこんなに紅いのね」

 そのナミの声になるほどと思い、背の高い彼は桜の蕾を手にそっと乗せるようにして見つめる。木の枝にも蕾にも負担にならないように、ふんわりと、触れるか触れないかの柔らかさを意識しながら。

 残念ながら、桜の枝を折らない限り、子どものナミの手元に蕾を寄せることは叶わない。身長が伸びたとはいえ、ナミと彼にはまだ40センチ程の身長差があった。

 だが、そんな彼の様子を見ながら、ナミ自身は特に花を見たがることも無く、

「じゃあ、お母さまたちがくるまで、ここで少し待っていましょうか」

 そうどこか、嬉しそうに話をするのだった。


 一旦、彼女はことばを止めた。

 やがて、少しまた間を置いてから。

「兄ちゃん、あのね」

 いつも元気で潔さの塊といったナミが、今はどこか歯切れが悪い。しかも彼の機嫌を窺うように、上目遣いである。しかし意を決したのか、目線を強く持ち直し、彼女はこう尋ねてきた。


「もうすぐ兄ちゃんのお誕生日でしょ。何か欲しいもの、ある?」


 大学受験のこともあり、この年、ナミの誕生日をあまりきちんと祝えなかったことを彼は思い起こす。風見家の豪華なディナーに参列し、彼自身は花束を渡した程度なのだ。花束にはナミもびっくりし、大層喜んでもらえたが、彼としては具体的に彼女の役に立つような、彼女の助けになるような物を贈りたかったのが本音だ。だが、今年はそれも叶わなかった。彼にとっては、それが少々気になる……どころかかなりの心残りともなっていた。むしろ自分の誕生日よりも、ナミのそれを大事にすればよかった、と。

 彼女からの質問に、彼が抱いた感想はそれだった。

 だが、彼は今、それを上手くことばにできなかった。何より、先にナミに答えを返さなくてはいけない。

「欲しいものは……無いな」

「ホントに?」

 尚も彼女は食い下がる。だが、彼が自分の内心をよくよく探っても、やはりそこまで解りやすい回答は出てこない。

「物」に関しては、そこまで欲しいものは何もないのだ。本当に。何も。

「大学の合格証書だけかー」

 何も言い出せずにいる彼の顔を見て、そうナミが呟きを返す。

「まあ、それは確かに欲しいが……ナミにねだるものでも無いしな」

 そう、彼は笑って、いつものように彼女の頭に手を軽く置く。随分と頭が近くなってきたな。そんなことを思いながら。

「それじゃあ。どこか行きたいところ、ある?」

「行きたいところ?」

「うん」

 考えておいて。

 そう少女が言ったところで、風見の両親が彼ら2人の立つ桜の木へと向かって来ているのが目に入った。


 そして。


「兄ちゃん、デートしよう!」

 翌日。道場で出会うなり、そう彼女は言ってきた。


 「デート」なる単語が彼女の語彙にあったとは。

 彼はまず、その点に心底驚いた。

 これまでただの子どもでしかなかった彼女が、「デート」など。そのような単語を選択するという発想を持つ彼女を、彼はこれまで想像すらしていなかった。

 妙に落ち着かない。座りが悪い。けれどもこれも成長というものなのだろう。そう彼は自分に言い聞かせるようにして、神妙な顔で「うむ」と返事をし、考え込んだ。




――「白」の刻/3年前、03月27日


 この年の彼の誕生日……それは毎年のことながら3月の29日がその日に当たる……その当日は双方予定を合わせるのが難しいということで、2日前倒しとなる27日に2人は出かける約束をした。この日は一般的には平日だが、既に春休み。彼も彼女も、一日を遊んで過ごすにはまるで問題無い。

 行先はというと。

「サプライズよ、兄ちゃん」

 ニヤリ。どこか大胆不敵な様子で笑みを浮かべ、彼女は自慢するかのように彼を見上げた。

「お弁当はお母さまが作ってくれるって」

 だから、あまりお金は使わなくて大丈夫だから。うん、なんとかするわ、そのくらい。風見の方でね。

 そうまで言い切る彼女にどこか恐ろしいものを感じながら、彼は小さく頷くしかなかった。その「サプライズ」とやらを含めたところまでが、彼女からのプレゼントなのだから。


 当日は晴天だった。桜は丁度良い塩梅の三分咲きから五分咲きといったところ。満開ほどではないが、充分写真映りもよさそうだ。彼はこの日、新しく買ったばかりのカメラを手にナミと落ち合った。

「良かったね、晴れて」

 あとね。2日後のお誕生日、25歳、おめでとう。兄ちゃん。そう、彼女は見上げて微笑みかけてきた。太陽が輝いているかのように、彼女のその笑顔は眩しかった。


 いつものバス停でバスに乗り、西乃市の市街地へと向かう。バスを降りると、彼女は彼を従えて、迷うことなく西乃市中央駅へと歩き始めた。地元の市街地界隈を巡るのかと予想を立てていた彼は、若干、驚いた。

 これまでナミと2人でどこかへ出かける場合、行き先はというと地元中野町の町内か西乃市の市街地、ごく稀に北の魔女コミュニティといったところで、いずれも西乃市の圏内だけだった。西乃市ではない場所で彼女と行動を共にするのは、これが初めてだ。

「さあ、行こう、兄ちゃん」

 切符を必要としないカード会計。2人分の会計は、今日は全て風見持ちなのだと彼女は言い張った。彼としては不本意であったが、今日は彼女が彼をもてなす日なのだから、と思い直し、それ以上異議を唱えることは止めた。年齢差を考えると、本来は彼が全ての支払いをすべきところではある。だが、彼女の背景には風見の両親がついている。つまり、彼はご両親に甘えるべきなのだ、この場合は。そういう理解で、彼はなんとか状況を把握する。

 西乃市の中央駅も、考えてみれば久しぶりだ。先の受験で通ったのが最後だから、かれこれ二カ月近くは電車に乗っていない。和国の公共交通網の優秀さにはかねがね敬意を払っている彼は、久しぶりの電車移動に気持ちが高揚した。

 移動中の車中は楽しかった。天気は良く、車中からの風景は軽快で、ナミは鼻歌混じりにあれこれと他愛のない話をし、あるいは静かに車窓を楽しんだ。


 急行電車は、息つく間もなく東へ向かう。なかなかに快速である。

 西乃市圏を出るか出ないかといった辺りで、すぐに海が見えてきた。雨音地方の南に位置する、雨音湾だ。ここから大海に繋がり、世界へと繋がっている。海。

「海、キラキラしてる」

 きれい。

 細い声で、彼女がことばを漏らす。

 そのとき、彼はその声にどこか既視感デジャヴを覚えた……何だろう、これは。

「ほら、兄ちゃん」

 そう、彼女が窓の外を指さして、改めて彼の感想を促す。そこで彼は漸く自分を取り戻す。

「ああ、綺麗だな」

 そうして彼もまた、素直な感想を呟いた。

「いつもの坂の上から見る雨音湾も、綺麗だけれどもね」

 そう言って微笑む彼女は、いつもと変わらない。車窓の南側で太陽光を反射させてきらめいている海も、また平和そのものだ。


 何が、彼に先刻の不思議なデジャヴを呼び込んだのだろう。



 東乃市の中央駅、その一つ前の急行停車駅で彼らは下車した。

「そうか……」

 駅名からも、また車窓からも彼は見当がついていた。東乃市の中央、そこから急行で一駅分西にある、大きな遊園地である。車窓から見えた大きな観覧車……その大きさは西乃市の小さな遊園地とは比較にならない……のあか抜けたデザインと、入口の近くにある美麗なメリーゴーラウンド。そして広い園内の案内図。いずれも、西乃市のそれとは規模が違う。


「さあ、入ろう。行くよ、兄ちゃん」

「……これは凄いな……」

「うん、大きいでしょ。広いでしょ」

 まるで我が事のように自慢するナミ。彼は西乃市の遊園地自体も充分立派だと思っていた。だがここ東乃市の遊園地に来ると、ナミがどうして地元の遊園地を「ショボい」と形容するのか、実感を持って頷くしかなかった。

 園内は広く、どの建物もどの構造物も全てが洗練されていた。床面に敷き詰められている目に優しいパステルカラーのタイル、あるいはアースカラーのレンガ。小洒落たベンチが適度な間隔で置かれており、全体的に居心地の良い造りである。子ども向けというよりも、むしろ大人同士で楽しむことを前提としているかのようだ。

 園内も、春休みということもあり大いに賑わっている。子ども連れの家族だけではなく、平日にもかかわらず男女のカップルといった客も多い。この辺りも、西乃市の遊園地とはかなり違う。

 改めて園内図を見ると、広さが随分とあるだけではなく、遊具の数も桁違いに多いようだ。


 入場し、彼が園内図を見てあれこれ唸っていると、いつしか、それまで車中ではしゃいでいるといってもよかったナミが静かになっていた。

「どうした? ナミ?」

「……ううん、なんでもない」

 なんでもないの。そう繰り返した彼女の瞳の青色は、どこか沈んで見えた。

 

「兄ちゃん、どれに乗りたい?」

 腕に巻いたフリーパスでこの日の園内の乗りものは全て乗り放題だ。それは西乃市の遊園地も仕組みは変わらない。とはいえ、そのシリコン製の腕輪のデザインもまたあか抜けている。西乃市のどこか野暮ったい、見方を変えれば温かみのあるものとはどこか違う。

 彼は入口から良く見える大きくて豪華なメリーゴーラウンド、そしてやはり大きな観覧車が気になった。メリーゴーラウンドは絢爛かつ幻想的な美しさを湛えているし、あの観覧車の高さであれば見える風景はとても気持ちがいいだろう、と。そう連想した。

 それと、恐ろしいばかりの角度を兼ね備えたジェットコースター。案内パンフレットと園内地図によれば、なんでもそれらの「絶叫マシン」は3種類、あるいは4種類程あるという。それぞれ、名前は違ったが。

 また、自走が前提となるゴーカートも楽しそうだ。負けず嫌いのナミと競争をすると、面白いことになりそうだ。ゴーカートなら体格差やその他のハンディを気にすることなく、機体のみ、公平フラットな条件で対戦ができる。それより何より、彼女はこの手の遊びが結構好きな筈だ。

 天空から行くか、地上から攻めるか。

 そう彼が迷っていると、ナミはいつしかまた静かになっていた。彼は母さんから託された弁当入りの大きなトートバッグを改めて抱え直すと、少し屈んでナミの目線へと自分の姿勢を落とした。

「調子でも悪いのか?」

 顔色も、先ほどまでとは少し違って少々表情が曇っているように見える。彼は急に心配になってくる。

「なんなら、ベンチで少し休むか? 何か温かい飲みものでも飲んで……」

「ううん、大丈夫だよ、兄ちゃん。何言ってるの?」

 何でもない、とばかりに彼女は両腕をぶんぶんと振り回す。

「ならば、ゆっくりとした乗りものにするかね。大丈夫そうだったら、強度を上げていこう」

「強度……って。兄ちゃん、ひょっとしてジェットコースターとか、そういうの乗りたい?」

「いや、まだ時間はたっぷりあるのだし、それは後でも構わない」

 だが、乗るがな。そう言い切ると、彼女は少し安心したように、小さな笑みを浮かべた。

「ならば、観覧車から乗ってみよう。あれならば風景を見ているだけで、心が和むことだろう」

 うむ、そうに違いない。彼は一人頷く。

 すると、彼女は彼の右手を取ってきた。彼女は黙って頷く。彼も、取られた右手をきちんと握り返す。彼の手を取る彼女の左腕には、いつもきれいな音を奏でるブレスレットがつけられていた。

 こうして2人が手を取り合うのは、考えてみると久しぶりだった。そう彼は思い出し、少し照れ臭くなった。だが、彼女はそういったことは気にしていないだろう。そう思い直す。彼の思いは表情にも出ていないだろうから、ここはいつもと変わらぬ様子で彼女をエスコートしなければ。うむ。そう、彼は素早く考えをまとめた。

 そして観覧車のある方へと、二人並んで歩きだした。


 結構な時間を待つこととなったが、行列は確実に動いている。待ち時間が退屈で、彼は持ってきたデジカメを取り出し、撮影の仕方を点検する。

 カメラは買ったばかりで、未だ彼の手には馴染んでいない。先のナミの卒業式にカメラで沢山撮影をしていた父さんを見て、自分にも必要だと思い、悩んだ挙句に購入したばかりだった。

 風見家を出るときに風見の家族の集合写真を撮り、玄関と外の門で陽光の加減のテストの為にナミ試し撮りし、あとはいつものバス停や西乃市中央駅、それと車中からの風景を数点撮影した程度で、まだ殆ど使いこなせていない。ただ、カメラを弄ることそのものは、面白いと彼は感じ始めていた。

 そうしてカメラを点検していると、漸く順番がやってきた。

 待っているその間、彼女は妙に静かだった。いつもなら、彼女が口を閉じているときは、拳道で集中をしているときか、勉学に集中をしているときか。いずれにせよ、何かに取り組んでいるときが殆どで、彼と一緒にいるときは大抵他愛の無いあれこれを口にしているのが常であるのだが。

 観覧車の案内係が、やや訝し気に彼ら2人を見遣る。

「さあ乗るぞ、いいか」

「うん」

 彼女の返事の声も、妙に小さかった。


 観覧車の係員の目線が妙に気になったが、あれは、大柄で見るからに外国人だと判る彼と、ごく普通の和国の小学生といった彼女、その組み合わせが珍しかったのかもしれない。あるいは、彼女のピアスや指輪、ブレスレットといった宝珠から、珍しい魔女だと判断したのかもしれない。そう、彼は連想する。係員当人ではない彼に思い付くのは、そのくらいだった。

「ふむ」

 仕方が無いな、と思って正面に座ったナミに、ふと目を向ける。彼女がずっと静かだったことに、今更ながらに気がついた。

 そこで扉は閉まり、彼ら2人を乗せた観覧車は滑るように静かに地面を離れ、高みを目指し始める。

「西乃市が見えるかもしれないぞ、ひょっとしたら、中野町も」

「……そんなに高く上がるのかしら、これ」

 彼女の声は、殆ど独り言と言ってもいい程、小さかった。

 しかし彼は、どんどんと広がる視野に興奮し、目線を大きく外へと向けていた。気になる東西南北も、太陽の位置から簡単に把握できる。

「ナミ、西乃市の市街地はあっち方面だな」

 方角に確信を持ち、そう言って、彼が外のあれこれを指さそうとした、そのときだ。

 

 彼女の頬を、一筋の涙が伝って、零れ落ちた。


「……ナミ?」

 また一筋、涙が落ちる。

 彼は、ことばが出ない。

 そして。

「……違うの、兄ちゃん、違うの」

 違う、と。彼女は繰り返した。そしていきなり崩れるように、泣き出した。




――「白」の刻/3年前、03月27日


 泣きじゃくる彼女を見るのは、ひょっとしたらあれが初めてだったかもしれない。

「違うの、ちがう……」

 最初はそれだけを口にしていた彼女は、いつしか話すための音を漏らすことが不可能となっていた。


 とある、ひとことを除いては。


「……ヒカリちゃん……」


 嗚咽の中から彼が聞き取れた唯一意味のある音は、それだった。


 観覧車の高さが増していく。地上に戻るまでにはまだ相応の時間がありそうだった。

観覧車の構造がいわゆる個室に近い構造であるということは、今の彼らにとっては幸運だった。恐らくは。

 

 ヒカリの死去から葬儀、その後も、こうして泣き崩れるといった泣き方は終ぞしなかった。その彼女が、まるで幼児のように泣き続けていた。

 合間に挟まれる固有名詞。彼女の、死んだ、妹の。

 いつしか……小さなヒカリの、幼い、どこかはにかんだ笑みを、彼は思い出す。姉の背に隠れるような仕草をしていたこと。意外と器用な、小さな手。ナミよりも少し細い声色。そして、初恋……

そうして貰い泣きをしかけていた彼は、しかし目の前のナミを意識すると、途端に、感情が別方向に大きく揺さぶられた。

 ナミが……心配になったのだ。

 悲しがる彼女の辛さが、辛かった。まるで我が事のように。否。我が事など比較にならないくらい、彼女の悲しむ姿を見るだけで、彼は途方に暮れそうになった。

「ナミ」

 優しく名前を呼ぶ。今の彼にできることは、そのくらいしかなかったから。

「ナミ」

 座る位置を隣に移り、彼女の背中をさする。彼女は堰が切れたかのように大泣きしながら、彼の腕に縋り付いてきた。「違うの」と言いながら。

 

 頂の高みまで来る頃、彼女は少し落ち着いてきた。

 涙ながらに彼女が語ったこと、その断片を寄せ集めると、彼にも事情が飲み込んできた。

 ここは、彼女……風見ヒカリが大好きな遊園地でもあったのだ。家族4人で遊びに来たこともある。それも何度もだ。

「だ、て、……兄ちゃん、遊園地……」

 好きだから。と。西乃市のあの小さな遊園地でさえ喜んだ彼だ。この東乃市の大きくて立派な遊園地であれば、もっと喜ぶに違いない、と。まず彼女は、そう思ったのだという。

 ヒカリのことは勿論彼女の頭の中にもあった。だが、ここまで、現地に立って亡き妹の面影が胸に迫ってくることになろうとは、彼女自身、想像すらしていなかった。その事実に、彼女は打ちのめされていた。

 だから「違うのだ」と。彼女はそう言っていた。何度も、何度も。


 ポツリ、ポツリ、と。ナミは必死になってその情報を彼に伝えてきたが、最低限のことを伝えきったと思ったのだろう。観覧車が下りにさしかかる頃には、また大粒の涙を再度流していた。嗚咽も、だんだんと大きくなる。

「中野町に帰るか? ナミ」

 声を出せない彼女はしかし、果敢にも首を横に振った。

「だ……じょ、ぶ……」

「だが、ナミ」

「おち、つ、く……か……ら……」

 それだけを言うと、またもや声を上げて泣き出した。

 2人が地上に戻った際は、そうして彼女は大泣きの真っ最中であった。彼の方の涙は、乾いていた。


 観覧車の扉が開く。もう地上である。

 さて降りるか。まずはベンチを探して飲みものでも飲ませよう。何でもいいいが、甘いものがいいだろう。温かな。そうして彼女が落ち着かせて、後はまた彼女の様子を見てから判断すればいい……そう考えをまとめながら、彼は泣きじゃくるナミの背中に手を当て、屈み込み庇うようにして彼女を観覧車から下した。

 その瞬間。


 ダン!


 複数の手が、彼からナミを引き離す。彼自身は、背中から地面に押し倒され、「保定」されていた。


「東乃市警察だ」

「君、もう大丈夫だ、安心して」

「お母さんとお父さんは?」

 最初の単語は彼に向けた叫び、その次に言われた声は、ナミに向けたもののようだった。

 地面にうつ伏せにさせられた状態の彼に解ることは、複数の男性によって彼が彼女と引き離されてしまった、ということだけだった。




(つづく)

「白」の刻では漸く、少女12歳、おっさん25歳(-2日)といったところまで時間を遡ってきました。

あともう少し、あともう少しで「現在」です……たぶん。

しかもデート回の筈が、ありゃりゃりゃりゃ、といった展開で、次の引きです、ごめんなさい。

次話、あまり間をあけないように頑張りたいと思います。


そして今回、風見ナミは小学校を卒業したのですが、この辺りに関しては、もう少しあれこれ補足をしたいと考えています。

変更があれば、また改めて告知します。


お読み頂き、ありがとうございます。どうか次もご贔屓に。

それではまたお会いしましょう。(只ノ)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ