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第22話/彼とミツル父さんと仁さんのこと

大変お久しぶりです、只ノです。


とりあえず、あまりにも間が空いたので、ともかく先に進めることにしました。

今日は新顔登場です。

――「黒」の刻/02月27日・朝


 そうして彼は、待ち続けた。

 何を待っているのか、彼自身もよく理解せぬままに。


 それでも。道は拓ける。


 根拠は無い。だが、彼はその「事実」を疑わなかった。




――「黒」の刻/02月27日・昼


 「父さん」によく似た雰囲気の刑務官が昼食を持ってくる。朝は別の刑務官だった。この人の勤務は、今日はきっと昼からなのだろう。朝同様、味も判らないままそれを無理やり飲み込みながら、彼はぼんやりとそんなことを思う。とりとめも無く。


 午前中の時点で、今日の新聞は読み終えてしまっていた。彼の状況改善に役立つような情報も報道も、何一つ無い。それも、いつもと同じだ。

 午後、半ば時間を持て余すかたちで、彼は再度新聞の検索にかかる。


 何か、契機があれば、と。


 この世界から解き放たれ、元の世界へと戻る道筋に繋がる、何かが。




――「白」の刻/4年前、春


 仁さんは、種無しだ。

 少なくとも、本人の自己申告ではそういうことだった。


 中野町の魔女仲間たちの間で、彼はそれを自分からネタにするくらい、飄々と楽し気に暮らしていた。

 彼の妻は、もういない。若い時に進行性の早い癌で、あっという間に亡くしてしまったのだという。だから、ヤモメ。漢字は難しすぎて、彼にはまだ書けない。彼がその和語の単語について、音も意味も知ったのは、仁さんの身の上が契機だ。


 子どもの数を減らしている魔女、魔力持ちにとって、彼のような「種無し」あるいは「不妊」の要素を持つ男女は、あまりいい顔をされない。侮蔑の対象となる場合も多々ある。特に男性に対するその視線は、差別に近いものがある。

 不妊男性に対するその嘲笑の酷さは、魔力無しである彼自身の文化圏よりも更に厳しい蔑視の目に晒されることも多いのだ、と。

「仁さんが悪いわけでもなんでもないのにねぇ……」

 そう言って、北の魔女があとで教えてくれた。まるで、敢えてそれを自称し道化として振る舞う仁さんの、その人間的な正しさを一人でも多くの人が知ってほしい、とでも言うかのように。


 だから魔女・魔力持ちの文化圏では、夫婦が離婚した、死別した、などということがあると、まずはともあれ子づくりを前提とした再婚がすぐに持ち込まれ、強く推奨される。

 魔女人口の少ない中野町の魔女コミュニティではあまり無かったことだが、中野町よりも魔女人口の多い北の魔女コミュニティで、本人同士の意向を無視するようなかたちで年頃の男女への縁談が次々と持ち込まれているのを、部外者である彼ですら何度も目にしている。

 だから、独り身となった仁さんがこうして長いこと独身として放っておかれる、というのは魔女文化圏ではあまり例を見ない、大層珍しいケースでもある。それは同時に、当人が自嘲気味に言う「種無し」が恐らく変えようの無い事実であるということを、遠回しに示唆しているともいえた。


「でね、レイジ」

 電話口で、仁さんがやや困ったようにことばを継いだ。

「ワリィんだけどさ、ミツル、連れて帰ってくれる?」



 春。桜はとうに終わり、時には暑い日も差し挟まれるようになってきた、という季節。あと2、3か月で夏が来る。そう。あと少しで風見の家が二番目の子どもを喪ってから1年が経過する。そんな頃合いだった。

 乱高下はするものの、少しずつ立ち直りを見せる妻のミチと相反するように、この頃のミツル父さんは時折とんでもない失態をしでかし続けていた。

 そのサポートに回っていたのが、彼と、そしてなぜか同じ中野町でヤモメ貴族を謳歌している仁さんだった。


 尤も、ミツル父さん自身の環境は、かなり恵まれていたい方だろう。少なくとも、彼はそう聞いていた。

 法律事務所の事務方という仕事柄、彼は娘の事件に関することであれば休暇も取りやすいということだった。尚且つ、基本的な法律リテラシーを持ち合わせる同僚が大半という職場環境である。彼を含む魔力持ちへの憎悪犯罪という社会的な問題への理解もあれば、我が子を喪った父親への心的外傷といった情報の共有率もまた高かった。そう彼は聞いていた。

「他の仕事場よりも俺の職場って恵まれている方だからなぁー」

 そう、父さんは疲れたように言いながら、裁判傍聴や母さんの通院分の休暇を埋め合わせるかの勢いで仕事に没頭していた。それは、仕事に没頭することで自身の心の辛さをやり過ごしている面もありそうだった。少なくとも、には彼はそう見えた。

 同時に、これまでのミチ母さんの状況の酷さもあって、父さん自身は自分の傷に向き合うことを後回しにしていたのかもしれない。

 そのツケが、今頃になって出てきた、ということなのだろうか。


「ミツルは変なとこ真面目だからねぇ。融通がきかないっていうか、意固地っていうか頑固っていうか。まあ、そこはミチと似たり寄ったりで……だからいい夫婦なんだけどね。でもね」

 そう言って、北の魔女ことスズノハが風見の夫婦を心配そうに見つめていたことを、彼は覚えている。

「惚れた女を落とすのに落語って絡め手を使うくらいは発想が柔軟なのに、肝心なところで生真面目過ぎるのよね。まあ、だからミチに相応しい夫なのかもしれないけれども……」

 そう続けるスズノハの淡い色の瞳は、どこか沈んで見えた。

 父さんが必至に隠していた落語の秘密を、彼女も見抜いていたのか。そう、彼は少し意外に思ったが、案外、父さんの真っ直ぐさ加減でバレバレだったのかもしれないと思い直した。

 そう。真面目だからこそ、なかなかにその傷の深さからの立ち直りも難しいのだと。彼もまた、スズノハの心配に頷く。


 料理やNPO活動といったかたちで発散し、少しずつであっても自分を取り戻そうとしている母さんと対照的に、落語や読書、美術館巡りというやや受け身な趣味が軸足の父さんは、昨夏以降、ぷっつりとそうした趣味関連を一切放棄している状況だった。



 一方、娘のナミはというと、元が拳道という体を使う趣味が生活の主軸で、尚且つ6年生に上がる頃には彼と一緒に朝の走り込みも始めていた。体を使うことで家族を喪った悲しみから立ち直ろうとしている、というのは少女を傍で見ている彼にも理解できることだった。


 とはいえそういったことに気がついたのも、仁さんに言われてのことだった。


「成長期だからね」


 ある日。仁さんの家で酔いつぶれたミツル父さんを迎えに行った彼は、酔って動けず鉛のように重たくなった父さんを引き受けながら、そう呟く仁さんの声を聞いた。

「ナミちゃんは成長期だからね。辛さも大きいが、内なる力でもってそれを乗り越えていく力を得ていけると思う。若いからね」

 内なる力。自分にはそんな力、無さそうだ……一瞬過ったその思いを彼は目を瞑ってやり過ごすと、何も言わずに仁さんに頷きを返す。他者がナミを褒めることばを聞くこと自体は、彼にとっては悪い気がしないことでもあったのだ。

「それに何より、彼女はイリスウェヴ神の贔屓があるのかっていうくらい、強い魔力を持っているからね。あの子は、妹を喪ったという心のいたみを、それでも力に換えていける。でも」

 そこで。仁さんは、彼が背中に負っている、その父親の肩を軽く叩いた。

「大人はね、ダメなんだ。一度喪ったものを、それが取り返せないとわかると、何かで埋め合わせるしかないんだ。でもって、そういうのって大抵はなーんも埋め合わせにならないのよ。そんで、埋め合わせられなかったら、欠落したままの、がらんどうの自分を抱えて、死んだように生きていくしかないんだ」

 仁さんが話していたのは、ひょっとすると、風見家の9歳の少女の事ではなく、自身の最愛の妻のことだったのかもしれない。

「ミツルにはまだ、ミチちゃんだっているし、ナミちゃんもいる。ナミちゃんなんて、先が楽しみだよね。でも、残された家族がいても、今も傍にいる彼女たちがかけがえのない人であっても、喪われたヒカリちゃんの身代わりにはなれないんだよ。だって、その人たちは別人で、ヒカリちゃんではないんだから」

 だから、ソレを抱えて生きていくしかないんだよ。欠落って奴をな。

「まぁ、だから、俺たちは酒を飲むんだけどね」

 そう言って笑って、仁さんは彼らを送り出してくれた。

「すまねぇな。俺も酒口にしてっからよ。車で送るってわけにもいかねぇし。まあ、こっからだと風見んは近すぎて、タクシー呼ぶってのもなあ……」

「大丈夫です、仁さん。ワタシは頑丈だから」

 そうやって、彼は力なく笑う仁さんを安心させようと、より軽く見えるように父さんを改めて背中に背負い直した。

「そうだな。レイジは鍛えてるから。そんじゃま、頼んだぜ、ミツルのこと」



 ……そしてこの日も仁さんの家で、父さんはいつものように酔いつぶれていた。

 元々、父さんは酒が強い方ではない。というよりも、かなり弱い。

 実は彼自身もアルコールにはかなり弱いという自覚があった。だが、そのところはミツル父さんもあまり違いが無いのではないだろうか。彼はそう思う。和国人を含むアジア系の人種はアルコールの分解酵素が足りない人が多いのだという話も、彼は聞いたことがあった。

 

「兄ちゃん、ありがとう」

「レイジ君、ごめんね……ミツル君、ミツル君」

 風見家に着くと、ミチ母さんが細く綺麗な声で、何度も何度も夫の名前を呼びかける。弱く、揺すりながら。その音は美しく、切なく、そして寂しく響いた。

 一方のナミは、健気にも、彼を手伝って靴やらなにやら父さんを布団に押し込むには不要なものを取り外し始める。布団は、もう取ってあった。この頃になると、布団に押し込むまでが彼の仕事となっていた。

 父さんはというと、

「うーん」

 とかなんとか。唸る程度で、自分がどうなっているのか、よくわからない。そんな様子だ。


 母さんを手伝って父さんを寝かしつけると、彼は風見の家を後にした。

「兄ちゃん」

 扉の外まで見送りに出てくれたナミが、心配そうに彼を見遣る。

「ごめんね、遅くにまで。父さんのこと……」

「なぁに、構わんよ」

 不安気な瞳の色。心細いといった声色。そんなナミの顔を見るのは、彼は辛かった。だから彼は顔も声も、オーバーな程に演技めいて、おどけたように言ってみる。

「父さんはね、兄ちゃんにとってはホントの兄ちゃんみたいな人だからな」

「父さん……、じゃなくて兄ちゃんの兄ちゃんなの?」

「ああ、というか……そのくらい大事な人だよ。ナミ」

 彼女の不安そうな顔は未だ晴れない。彼はその不安を振り払えるように、ポン、と軽く彼女の頭に自分の大きく無骨な手を置いた。

「それに何より、ずっと世話にもなってきている。恩返しがしたいんだ、ナミ」

「でも……」

「いやそれ以前に、人柄も好いている。ミツル父さんは、ホント、いい人だから」

 うんうん、と彼は更にやや大げさに見えるほどに何度か頷き、口角を大きく上げた。

「そんな父さんの役に立てる機会だなんて、たぶん人生で今くらいだろうから。大丈夫、こういう時くらい、ワタシに甘えてくれていいんだよ」

「甘え……?」

「ああ。ナミが辛いときに、兄ちゃんにわがまま言うだろう?」

「え? う……い、言わないわよっ!」

 一瞬で憮然とした表情になると、ナミは即座に否定し、彼を睨み上げる。

「いやまあ、じゃあ、わがままじゃなくて……そうだな。道場で稽古をつけたり、走り込みに付き合ったり。そうするのと一緒だ」

 ふと。彼の脳裏に、坂道をゆっくりと上る、いつもの散歩の光景が過った。

 そのほんの少しの間、彼女は考え込むようにこうべを下げ、手を口元に寄せる。

 そして、

「……大人でも、いいの? 甘えて、いいの?」

 彼女は心底驚いたかのように、純粋な疑問の意図だけを瞳に乗せて、大きく目を見開いた。

「ああ、当たり前だ」

 だから彼は更に、大きな肯定を伝えようと、ゆっくり大きな頷きを一回彼女へと返す。

「だいたい、こんなことくらいで、ミツル父さんを嫌いになんかならないし……それはナミもおんなじだ」

 ああ、同じだとも。そう、彼は繰り返す。

 どこまで彼女は理解したのか、その表情からは今一つ掴み得なかったが、少なくとも彼女の表情からは心細そうな影は消えていた。

「だから安心して休むんだぞ、ナミ。わかったな」

「うん、わかった」

 また明日。そう言って、彼は軽やかに手を振ると、神矢の家への帰路についた。




――「白」の刻/4年前、その当時のこと


 仁さんの家で、あるいは仁さんと一緒にご近所のどこぞで酔いつぶれている父さんを連れて帰る役割を彼が自然と担うことになったのは、当時の彼の側の事情があった。

 勿論、風見家及びミツル父さんに、彼が大変世話になっている、ということもあった。

 同時に、彼はこの時期から、猛烈に取り組んでいたことがった。


 受験勉強、である。


 彼自身の法的立場を言えば、既に和国国籍を取得している。だから、外国籍の留学生枠ではなく、和国人の社会人枠という入学資格を勝ち取らなければならない。そうした目標を立てて、彼はこの頃から猛勉強を始めていた。

 その背景として、彼の母国での最終学歴の証明が難しい、ということもあった。母国政府の、彼の属する少数民族に関する政策の、明らかな手抜きもあった。また、和国ほどシステマティックにそうした情報を政府が把握できない、という事情もあった。その結果として、中途退学した彼の学歴保障はできかねる、と母国政府は結論づけたのである。

 ともあれ彼は、「大検」なる、大学を受験できる程度の学力があることを証明する和国独自の制度を活用することとなった。

 今秋に大検合格。そして可能であれば、その翌春には大学合格と進学を、と。ナミの中学進学と同一の時期という目標を彼は立て、拳道の道場の手伝いの時間以外の全てをほぼ勉学に費やすようになっていた。

 丁度、魔女の人権NPOの活動に関して、ミチ母さんがかなりのムラがあれども活動に復帰している、ということもあった。彼の時間的な自由度は、その分も増えていた。

「お金はなんとかできるよ。出世払いで返してくれればいい。奨学金もいろいろと当たってみよう」

 神矢家も、彼の結論にはかなり乗り気だった。たとえ奨学金を蹴られたところで金銭的なことは全てこちらで請け負ってもいい、と神矢の老師は彼の背中を強く押してくれたのだ。

「そうとも、レイジ君。神矢が弟子の一人や二人、学校に上げられないだなんていうことは無い。大丈夫だとも。一切心配しないでいい」

 資金面では、ほぼ神矢家におんぶに抱っことなることが確実だが、彼もそれは後に働いて返すしかないと、そう固く決意し、また約束もしていた。



「ナミ、この漢字は……」

「ああ、それはね、兄ちゃん。読み方が他にもあるのよ。音読みと訓読み、この間やったよね?」

「うむ、漢字というやつは、全くもって理解をするのが大変だなぁ」

「音読と訓読、どのくらい区別つく?」

「……いや、あんまり」

 彼の眉毛がハの字になるのを見て、ナミは小さくため息を漏らす。

「兄ちゃん、時代劇の小説とか読んだら? おサムライでもニンジャでも。そういうの。時代劇、好きでしょ? 漢字を覚えるのに役立つかもよ」

「うむ、それもいいアイデアだな。でもナミ、読書でどの程度効率よく漢字を覚えられるだろうか。それと、小説本の場合、フリガナの問題があるな」

 彼の和語の読解力は、正直、小学6年生のナミよりも、まだ随分と下だった。学習参考書も、小学校中学年……3、4年生対象ならまずまず。5年生の分はまだつかえることも多い、といったところである。

 そんなわけで、ナミが家庭教師を引き続き担当してくれていた。自身の勉強、道場での精進、また学校の友人たちとの遊びと、彼女自身もかなり忙しくしている筈である。なのだが、不思議と彼女はどんな空き時間であっても、彼が指導を必要と感じたときに、いつの間にか隣に座り、勉強をかなり細かく見てくれた。結構なスパルタであったが。

 それは道場での稽古の合間、あるいは神矢の屋敷の居間でのこともあったが、基本は風見の家の日当たりの良い南向きの居間でのことが多かった。

 温かく、良い香りがする。お茶の匂い、あるいはお菓子の甘い匂い。その印象と共に、彼は風見の居間での勉強の時間を思い出す。


 ナミに結構な負担を強いていないだろうか。彼は心配になって、一度母さんにはっきりと相談してみたことがあった。

「ううん、いいのよ、レイジ君。レイジ君の勉強を見ることで、ナミもなんだか成績が上がったみたいだし……」

 これは本当なのかどうか、彼には判らなかった。だが少なくとも母さんはそう言って、彼の心配を大したことは無いのだとばかりに否定する。


 風見家の居心地の良い1階の居間で、あーでもないこーでもないと勉強を重ねる大男の彼と、そこに厳しくダメ出しをする少女。2人を見遣りながら、いつも丁度良いころ合いで、ミチ母さんは温かいチャイを淹れてくれた。

「兄ちゃん、筆順にも気をつけて。そこ筆順が違うでしょ。ほら、ハネの方向が違う」

「兄ちゃん、手を抜かないで、きちんと辞書引いて」

「兄ちゃん、そこ……」

 変わらず、ナミの家庭教師は実に手厳しい。武道者として自己にも他者にも厳しく、が身についているからなのか、彼に対してもなかなか痛烈だ。とはいえ、間違ったことを言っているわけではない。それにどうしたことか、そのどこかサディスティックな言い放ち方が、いかにも彼女らしい。強い独善が見える言い方でもあったが、彼はそれをどこか好ましいものだと受け入れていた。

「ねえねえ、わたし、ひょっとして学校の先生とか、向いてる?」

 強い瞳の色で、少女がニヤリと笑う。

「いや……それはどうだろうか」

「えー、兄ちゃん、ひどいなぁ」

 どうやら彼女は、自分がそうした方向に向いていると思っているらしい。なるほど。彼への指導が熱心なのも、きっとそうした将来像を描いているからなのだろう。

そんなことを彼は思った。


 そうして、今日は父さんが遅い、と不安になる頃に、案の定といったタイミングで、仁さんから電話が入るのだ。

「あ、レイジ? 今、風見さんとこ? 丁度良かったー、いやね、またミツルがぶっ倒れてさー。急性アルコール中毒」

 ぶっ倒れて、ということだと救急車を、と思うのが一般的であろう。だが、そこは仁さんの経験があった。

「まあ、最低限のサポートはしてあるから。落ち着いたら、こっち、ミツル、拾いに来てくんない?」

 

 仁さんの職業は、看護師である。

 元より、魔女、魔力持ちにはどうしたことか、介護職や看護職の人間の比率が高いという話だった。和国ならではの傾向なのか、あるいは全世界的な傾向なのか、魔力持ちではない彼にはよく判らなかった。だが、少なくとも和国内の魔女たち、魔女コミュニティではそういう話はよく言われていた。

 なんでも、魔女、魔力持ちの持つちょっとした「力」「魔力」の発動は、介護や看護といったケアの現場で重宝されるのだということらしい。

「簡単な治癒魔力も使えたら、結構な延命につながるからね」

 当事者である仁さんも、また他の魔女仲間の誰かからも、そんなことばを彼は聞き、うむなるほどと頷きを返した。

 この狭い中野町でも、仁さん以外にも医療方面や介護関連の仕事についている若い魔女・魔力持ちが複数いた。正看護師となると仁さん一人だったが。

 就職差別も未だに聞かれる現在の和国において、そうしたハンディを無視できる手堅い職業として、看護関連は魔女たちの就職先としても大いに人気があったのだ。


「学校出て、最初の頃は職業もあれこれと、な。サービス業全般、一通りって言うと大げさだけれども、いろいろやったよ。でも」

 いつしかきちんと資格を取り、この職業に落ち着いたのだという。

「結婚を考えたらね、やっぱりそうなるよねー」

 惚れた女と所帯を構えるわけだからさ。まあ、惚れた相手が同族で、本当に良かったよ、俺。

「……ああ、そうか。魔力持ちではない女性を好きになる可能性もあったんですよね」

 その話題は、彼にはどこか他人事のように感じられた。

 結婚も、恋愛も、今の彼にはそこまでの興味を持つテーマではなかった。それどころではなかった、と言ってもいい。抱えた大きな罪、贖罪。拭い切れない罪の意識と、更生への意欲。目指すべき社会正義に力を尽くすにはどうしたらいいのか、といった迷い。それらの諸々のことで手一杯。その為、彼はそれ以外のことを思うことができなかった。そうした余裕など、まるで無かったと言ってもいい。

 だが、仁さんのライフヒストリーには素直に興味を惹かれた。

「まあね。でもなー、まさか俺っちが種無しだなんてね、思わなかったけどな」

 それで追い出すような女房でもなかったし。ああ、相性は抜群だったのさ。そう、彼は続ける。

 周囲からは、早く子どもをという声も大きかったようだ。婚姻後の早い段階で夫婦は不妊を理解していたが、そのことは周囲にはひた隠しにしていた。もしもどちらかに明らかに不妊の原因がある場合、婚外子の推奨……つまりは公然とした浮気といったことになる……や、場合によっては離婚を言い出す古老たちもいるのだ。

 そこまでしても、魔女、魔力持ちは一族の血筋を絶やすことを恐れているのだともいえた。そうでなくても、魔力持ちの夫婦は往々にして魔力無しよりも妊娠率は低い。そのことは、出生率というはっきりとした数字にも出ている。それが世界的にもみられる傾向、即ち魔女魔力持ちの遺伝的傾向であることは、よく言われていた。

 だからこそ、「より多くの子どもを」という推奨にも繋がっていたのだが。

 そうした周囲の雑音を、しかし夫婦はのらりくらりとかわしながら、夫婦仲睦まじく暮らしていたという。

 凡庸な彼には、

「仲が良かったんですね」

 そうとしか言えなかった。

「そうだなー。流石に他の相手と番ってまで子種を、とは一切考えなかったもんなー」

 少しだけ照れた表情で、仁さんがポツリと言う。


 生活が落ち着いてきて、蓄えの見当もつき、養子を迎えるか、といった話をしていた矢先。妻に病魔が襲い掛かった。


 子どもの出生率が少ないことは、同時に、魔女・魔力持ちにとって、子どもは宝であるという意識形成にもつながっていた。だから、育ちに何らかの不都合があるような場合、養子のかたちで非血縁者が子どもを育てることは、かなり気軽に行われているということだった。

「和国だと、特に魔力無しだと、結構養子縁組とかって大ごとになるっぽいけどね」

 俺たちは割とそこんとこ、手早く手を差し伸べるよ。だって、子どもは大事だもんね。そう言って、仁さんは屈託なく笑うのだ。

 だが。

 妻が若く病に倒れるとは。夫婦とも、それは思いもよらぬことだった。当時、2人はそれぞれまだ30代。そうした自身の若さに過信もあった。少し具合が悪いけれども、それはただの調子のせい、季節のせい、等々。そう、彼女も思い込んでいて、相応に忙しく暮らしていたのだ。


 病の発見が遅れたことを、だから仁さんは大層悔やんでいる。

 よりによって、自分が医療従事者であるというのに。世界で最も大切な人のその兆しを見落とし、あまつさえ悪化するまで何もしなかったことに、彼は強い罪の意識を抱いているようだった。

「仕事柄もあってな。余計にな……」

 父さんを介抱しながら、仁さんはそう呟いて、話を終わらせた。


 この小さな中野町の、小さな魔女集落で。愛する家族を喪った男が2人。


 ああ、だから。

 父さんは、仁さんのところでしかお酒が飲めないのだろう。弱音が吐けないのだろう。

 彼は、自分がミツル父さんの支えになれないことを、ほんの少し残念に思う。ことばは勿論、表情にさえその気持ちを出すことは無かったが。少なくとも意識化された本心を隠すことに関しては、彼はかなりの上級者であるという自覚はあった。だから仁さんにも、小さく頷きを返すに留めた。

 そうして仁さんに別れを告げると、父さんの熱を背中に感じながら夜の中野町をゆっくりと風見家に向かって歩いたものだ。




――「黒」の刻・02月27日、夜


 夜も、ミツル父さんによく似た件の看守が彼に夕食をドアの下から差し込んできた。恐らく夜勤の前に勤務が交代になる。その前の今日最後の仕事だろう。そう、彼は思う。

 あの彼もきっと、背負ったら父さんと同じ温かさと、似た重たさを感じるのだろうか。体格も父さんに近い。重たさはそう大差は無い筈だ……それは当たり前のようでいて、しかしどこか違う。違和感とまではいわなくとも、やはり考え方がおかしくなっているような気がして、彼はその連想をそこで止めた。


 一方の、彼。今の彼の体は、全くの別人のものなのだ。

 平素の彼とは違う肉体に、彼は未だ馴染むことは無い。夕食前には時間をかけ、体を使うことを試みてみたが、やはりこの体は別人であると、その結論以外を実感することは叶わなかった。

 もうそろそろ1週間。この身体になってからというもの、そんなに時間が経ったというのに。否。経ったにもかかわらず馴染まない、と言うべきかもしれないが。

 引きつりの酷い火傷の痕も、動きがどこか鈍い全体の身のこなしも、まるで別人のものだ。

 だが、それでも食べなければならない。それで、己の意識をきちんと保てるのであれば。

 彼は、相変わらず味のまるで感じられない食事を、無理やり流し込むようにして飲み込んでいった。


 そういえば、仁さんは意外と小食だったな。酒はあれだけ嗜んでいたというのに。

 

 ふと、そんなことを思い出していた。




――「白」の刻・4年前、初秋


 体の大きな彼からすると、ミツル父さんも仁さんも体は小さく見えた。もう一つ言えば、仁さんはミツル父さんから比較すると更に一回り小さく見えた。但し仁さんのその体格は、それでも和国人の平均の範疇ではあった。

 それは、そろそろ初老にさしかかり始めようとしていた仁さんの年齢のこともあったのかもわからない。そうした先入観で彼自身が仁さんをそう見ていた、という可能性も大いにあった。

 とはいえ、飄々と振る舞う仁さんを、彼は小さな男だと意識したことはあまりなかった。魔女仲間の集まりで、あるいは中野町の各種の酒盛りで、仁さんを見ることは常だった。そして、特段目立つことも無い男だった。

 スズノハのようにカリスマ性があり弁も立つということもなければ、大婆様のように年齢とそれに裏打ちされた経験で尊敬を集めるというわけでもない。目立ちたくないという願望が丸出しでむしろ滑稽なほど目立っていた孤狼の魔女姉さまのような、おどおどとした場違いな振る舞いなど微塵も無い。若々しい美貌が人目を集めるミチ母さんのような華やかさなどからは、更に無縁である。

 強いて一番の類似を求めるとするならば、平均かつ平凡を絵に描いた通りだと自己紹介するミツル父さんに近いものがあった。

 だから長い事、彼は魔女仲間との付き合いが増えても、特段仁さんと親しくなるような契機が無かった……この、ミツル父さんが仁さんに縋るように、一緒に酒盛りをするような仲となるまでは。


 そうしたミツル父さんの失敗も、夏の終わりの頃にはひと段落がついてくるようになった。とはいえ、過去の最大の楽しみであった落語のビデオ鑑賞も読書も、また美術館巡りもとうに止めていて、再開の兆しはとんと見られなかったのだが。



「あー、レイジ? そう、今、風見の家か。丁度良かった」

 電話の先の声は、仁さんだった。

「ワリィ、そろそろ大検の試験近かったよね? だからちょっと大変かもしんないんだけど……今、いい?」


 秋口に入り、そういった意味で仁さんのもとへと行くことも減り、ごく普通に暮らし始めていた頃だった。

 電話の要件はやはり、酔っぱらったミツル父さん保護の要請だった。久しぶりのことだ。記憶を遡ると、その前に迎えに行った頃から数えて2カ月近くの間が空いている。そう彼は意識しながら、仁さんの温かさと冷静さが同居する声を聞く。

「ちょっと涼しくなったじゃない。だから、ミツルも酒がね、大丈夫かな、と。思ったらしいんだよね」

 そう。仁さんの口調はいつも優しかった。それは、愛する人を喪うという同じ経験を持つ者としての同情なのかどうか。彼にはよくわからなかったが。

 また一方で、仁さんがミツル父さんに「飲酒はやめておけ」と留めるようなことも、これまで一切無いようだった。

「まー相変わらずの宅飲みだから、慌てなくてもいいんだけどさー。レイジの勉強のきりのいいところで。迎え、頼む」

 今日はどうも、酒が深いようだから。そう、仁さんは付け加えた。電話の先では、いつもの飄々とした表情なのだろう。そう、彼は思うともなしに思った。優しいけれども過剰な同情は無い。とても温かいのに、どこか感情の底に「冷静たれ」という意識がのぞく。そんな仁さんのいつもの声だった。


「兄ちゃん。父さん、迎えに行くの?」


 ナミの声が、彼を捉える。


 これまで。こうしたときに、彼女は口を挟まないようにしていることが多かった。

いや、当初は強く意思表示をし、自分こそが迎えに行くのだ、と言い張ったこともあったのだが。

だが、それはミチ母さんからの

「夜遅いでしょ。ダメ。ナミは行っちゃ、ダメ。ナミはここにいなさい」

 という、懇願に近い叫びで、終わった筈だ。


 この日はたまたま母さんの投薬のタイミングが早く、既に臥せっており、むしろ彼は父さんの帰りを待って挨拶をしつつ入れ違いに風見家をお暇しようとしていた。そんなつもりだったのだ。苦手教科となる和語と和国史の教本を読み進めながら、いつでも学習が終えられるよう、頭の中で予定を組み立てながら。

 そこに、久しぶりの仁さんからの要請だ。彼は素早く教本類をまとめ片付けると、自分の鞄にそれらを押し込み立ち上がった。


「ナミ……?」


 彼の声だけで、行きたいのか、という問い掛けが理解できたのだろう。コクン、と首を肯定の意図で動かして、彼女は少し肌寒くなり始めたこの時期によく羽織る、水色の薄手のパーカーを手にした。


「駄目だ、ナミ」

 少し逡巡したが、彼は彼女の意図を拒否した。柔らかく、しかし断固として。


 それは多分ミチ母さんの意図に近い。その筈だ。そう、彼は思っていた。

 母さんも、そして何より父さん自身が、そうして泥酔し、我が子を喪った悲しみに打ちひしがれる哀れな己の姿を、残る娘には見られたくはないだろう。そういう気持ちがあるに違いない、と。彼の知る父さんであれば、きっとそう思うに違いない。娘の前でだけでも、たとえ虚勢であったとしても、元気を取り戻した自分を示したい。そう考える筈だ。

 母さんは、勿論ナミが夜に出歩くことを恐れていたことも事実である。彼女は未だに下の愛娘を憎悪犯罪で喪った、その恐怖心を過去のものにすることはできなかったのだから。上の娘にも同じことが起こったら、という恐怖心は、殆ど母の根幹に近い感覚となっていた。昼間であればまだしも、夜ともなると彼がついていようがなんだろうが、彼女は強い恐怖感からナミの外出など考えられない、とヒステリックに泣いて否定した。

 だが、それだけではない。打ちひしがれた夫の姿を、少なくとも娘には見せたくない。そういった思いが彼女の瞳に過るのを、彼は何度か目にしていた。

「ごめんね、レイジ君。お願いして、いいかしら」

 心からの申し訳なさで一杯の声で彼女はそう言い、彼を迎えとして送り出したものだ。


 そんな母の顔を思い起こして、彼は再度ナミに言い渡す。

「駄目だ。ナミ。君は家で留守番をしていてくれ」

 母様を守っていてくれないか。そう、付け加えながら。

「ねえ、どうしても……」

「駄目だよ。どうして今日はそう聞き分けがないんだね?」

「だって……」

「怖くないのか?」

 ふと。母さんのように、彼女自身は憎悪犯罪に巻き込まれることの恐怖心が無いのかと、その疑問を口にする。

 しかし彼女は、かぶりを振った。やや曖昧ではあるが、しかし、横に。

 まだ若い彼女自身は、そうした怖さよりも、有り余る自身のエネルギー、気力と好奇心の方が勝っているようだった。尤もそれは、武道者としての自分の力を過信してなのか、または当日犯罪の現場に居合わせなかったという事実もあってのことかもしれないが。

「でも、母さんはきっと怖いだろうと思うよ……ふと目が覚めたら、ナミがいない、自分が一人この家の中に取り残されている、ということになるんだぞ、ナミ」

 彼が少し強く言い含めるように告げると、ビクリ、と震えて少女は黙った。

「ワタシは怖いぞ。ナミも、ミチ母さんも、夜に一人で出歩いて犯罪の被害に遭ったら、と思うと……」

「わたしは一人じゃないよ、兄ちゃん。兄ちゃんと一緒だよ」

「でも、母さんは一人だ」

 彼女の声が、またも詰まる。

「だから。ナミは、母さんを守っていてくれ。いいな?」


 そうだ。どうせなら、きちんと結解を張っておいてくれ。魔力をきっちり通してな。彼はそう、付け加えた。


 振り返ると、ナミが、とても不思議そうな、そしてどこか嬉しそうな顔をして、彼のことを真っ直ぐに見つめている。ことばは無かった。

「どうした、ナミ?」

「……ううん、その……」

 今の言い方、まるで魔力持ちみたいよ、兄ちゃん。

 少しだけ間を置いてから、彼女はそう呟いた。

 どこかはにかんだような声色と、目線。どうしたことか、そんなナミに向かい合うのが照れ臭くなって、彼は「行ってくる」とだけ声を残すと足早に仁さんの家へと向かうことにした。



 いつも、父さんはそこまでひどい状態になっていることは無かった。せいぜい泣き崩れて眠りこけて動けなくなる程度で、倒れ込んでの怪我や、嘔吐その他の諸々で酷いことになっている、ということは無かった。それは、一緒に酒を飲む相手が医療従事者でもある仁さんで、彼が何かしらのケアやサポートを無意識でもしていてくれたからだろう、というのが彼の読みだ。

 しかしこの日は珍しく、父さんの衣服は思いっきり汚れていた……ようだった。その為、服は脱がされて、仁さんの家の中にあった物を宛がわれていた。上も、下も。

 どうやら嘔吐もだが、失禁まであったのだろう。ミツル父さんの名誉もあって、その辺り、仁さんはことばを濁していたたが。

「漸く泣き止んだよ」

 むしろ自身が泣きそうな顔で、しかし声だけは相変わらず飄々とした音で、仁さんは彼を見るなりこういった。

 中野町の外れ。同じ中野町の外れでも、孤狼の魔女姉さまとは逆方向、南に位置する仁さんの小さな家は、この中野町界隈では珍しく平屋だった。

 男やもめに蛆がわき女やもめに花が咲く。彼も、そんなことばを聞いたことがあったが……確か、刑務所時代に娯楽の時間に見た時代劇か何かで覚えた筈だ……そうしたこと以前に、仁さんの家には極端にモノが少なかった。散らかりようがない程に。

 だから、父さんをはじめ人が上がりこんで酒盛りを始めても、片付けはせいぜい酒瓶程度。いつもそこまで散らかっている印象は殆ど無かった。

 しかしこの日は違った。

 大きく窓を開け家の中に風をよく通している状態なのだが、それでも父さんの吐しゃ物と思しき臭いを彼の鼻は捉えていた。目は、恐らくそれを片付けたであろうゴミ袋が家の扉のすぐ隣となる台所の角に置いてあるのを見つけていた。

 確認すると、着ていた服はやはり仁さんのものだということだった。仁さんが着ているのも見た覚えの無い、初めて見る妙に明るい柄のシャツと、ボトムは「ツンツルテン」というやつだ。これは彼が少し前に見た時代劇のフィルムで使われていた用語だが、長く中野町に住んでいてもそうした状態の着衣の人を見るのはこれが初めてだと、彼は少し間抜けなことを考えた。シャツは、恐らく新品なのだろう。その場違いな、エグい程明るい黄緑色とオレンジにレモンイエローというビビッドな組み合わせが、目に痛い。

「いや、すっかり汚しちゃってね、ミツル」

 俺のだとサイズがなー、と仁さんはここで漸く、彼にしては珍しくも困ったような声となる。ミツル、これでも足だけは長いんだよな、生意気なことに。ウエストサイズは同じだってのに。畜生め。そう付け加えながら。

「服は洗っとくよ。明日か明後日には返しにいくから。ミチちゃんにはそう伝えといてくれる? 心配しなくていいっから、って」

「ええ、大丈夫です。母さんが心配しないように、何とか」

「ああ、何とか頼むよ、レイジ」

 そう言って、仁さんは深呼吸をする。

「まあ、こういう時くらいミツルに恩を売っておいて、だな」

 何かあったら、彼の事務所を安くこき使わせてもらおうと思っているんだよ。そう、仁さんはニカっと、場違いに大きな笑顔を見せる。いや。彼が仁さん以上に困った顔をしていたからだろう。それを、大丈夫だ、とばかりに安心させようと、仁さんは笑顔になってくれたのかもしれない。

「まだ吐くかはわからないが、ここまで落ち着けば大丈夫だろう」

 吐き気や嘔吐対策は済ませてあるから、と仁さんは言う。

「もう、移動させても大丈夫でしょうか、父さん」

「大丈夫じゃないかな。時間置いたのも、それがあったからだし。外の風に当たる方がいい」

「ワタシが車を運転できればよかったんですが……」

「え、でも風見の家は車が無いだろう?」

「いえ、神矢の家にはありますから」

「ああ、そうか。そうだったな」

 そこで、仁さんはどこか不思議そうに、どうしたことか思いっきり穴が開くほど彼の顔を覗き込みながら。


「そうか。あんた、まだ、風見の人間になっていなかったんだっけ」


 そう、とても不思議そうな表情で、小さく言葉を漏らしたのだ。

 まるで、仁さん自身に言い聞かせるように。




――「黒」の刻・02月27日、夜


「消灯」

 廊下に声が響く。確認の刑務官は既に出て行った後だ。

 あのミツル父さんとほんの少しだけ似ている刑務官、彼一人を除いては、皆が皆、彼に対しては、最低限の声かけ、最低限の関わりしか持とうとしなかった。尤も、件の刑務官もそこまで親し気というわけではなかったが。

 恐らく、死刑になるであろう人間に、そこまで深くかかわらない方がいいという判断なのだろう。そう、彼は推測する。職務上の指導でもそういうことがあるのかもわからない。むしろ、声かけや身振りも含めて可能な限りニュートラルに接しようとする件の刑務官のような人間の方が稀有かもしれない。そんなことを思いながら。


 それにしても、どうして仁さんはあのとき、彼を風見の家の人間だと見做していたのだろう。見做してくれたのだろう。時間識りでもないというのに。

 だがしかし、そのことは、彼にはどこか心が温まる記憶の一つだった。


 かつて。ナミと再会したその日に、ヒカリが「お兄さんはあたらしいおうちをみつけるの」と、自身が識った未来を口にしてくれたときのように。


 そして実際に、仁さんのひょんな一言が、彼の運命を変える、その大きなきっかけになったのだということも、彼は思い出していた。




(続く)

と、本当に間があきました。一応構想だけはきちんとあったのですが、多忙にしていてこちらまで手が動かずにおりました。

当面は、もうちょっとこちら小説へとエネルギーをふりむけられるようになりそうです。


話は続いておりまして、主役の4年前くらいの回想にまできています。

あとは、彼が「風見レイジ」になるまでと、その後の生活へと移りたいのですが。

もうちょっと、特にここは仁さんに頑張ってほしいと思います。


彼の存在は元々『青波の魔女と名無しの使い魔』でもちらっと触れられていた通り、基本、構想にあったものです。

とにかく先に進めることを優先したため、細かい部分の整合性にややひやひやとしております。

なので、直しがある可能性が高いです。

特に、仁さんが風見家の家長、風見ミチの呼び方、たぶんここは二つ名で呼ぶだろうなぁ、と思いながら、これまでこちらの世界での二つ名に関しての扱いが少ないことから、現状流しました。

いつか、その辺りも含めて、遡って加筆が出来ればと思います。


お読みいただき、どうもありがとうございました。

どうか懲りずに、できればまたお付き合いの程を。

更新ペースを上げて行く、が今年の目標ということで。ではっ! (只ノ)

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