第21話/彼が気がついた、一番大きな「相違」
悟朗少年のこと。ナミの気持ちのこと。
たくさんの過去からの声に、彼の気持ちも大きく乱高下します。
そして最後に、彼は大きな「違い」に気がつきます。
――「白」の刻/5年前。夏
ヒカリの葬儀には、ナミのほかにもう一人、怪我人が参列していた。
2人に共通することはそれだけではない。
とてもとても悲しい顔をして、しかし叫ぶことなく静かに涙を流し続けていたことも、その涙が決して止まることがなかったことも、同じだった。学齢も同じだ。ただ年齢は少年の方がナミよりも先に誕生日を迎え、このときは確か既に11歳になっていたのではなかったか。
なぜかその少年のことだけは、彼はしっかりと覚えていたし、思い出すことも容易かった。 そのくらい、彼の中で少年は強く印象に残っていた。
同時に彼にとっては、この件の中でも思い出すのが最も辛い顔であった。今でも、記憶に蓋をしたくなる。そういう類の思い出だ。
彼があの日の少年の姿を思い浮かべるとき、孤狼の魔女姉さまの泣き声が、強く、一緒に思い起こされる。
葬儀のその日。彼が神矢悟朗と会うのは、実に久しぶりのことだった。ひょっとすると2カ月近くは顔を見ていなかったかもしれない。そのくらい久しぶりのことだった。彼が、少年の父親のもとに身を寄せているにもかかわらず。そのくらい、少年は当時、東乃市の祖父母の家で根を張って生活をしていた、ということだ。
しかも久しぶりというのが葬儀の場であり、年齢は違えども男2人、どちらも大泣きに近い涙に暮れていたことは、なかなかに複雑な気持ちを彼にもたらしていた。
掌に大きく包帯を巻いた少年は、目に涙を湛えながら、それでも静かに参列していた。いつもの快活な、どちらかというと単純であまりものを考えていない、あまりにも無邪気な子どもらしさに満ちていた丸顔の少年が、そんないつもの彼とは別人であるかのように、少女の収められた棺をただただじっと見つめながら、止まることの無い涙を流し続けていた。
手は、少年が犯人からナイフを取り上げたときに怪我をしたものだ。
神矢悟朗は、風見ヒカリを最後まで守り、最期を看取った人間だった。
ナミと同じ学年のこの少年は、ヒカリを守ろうと、手近な棒を見つけて暴漢へと叩きつけた。少年が、父の極めた拳道ではなく剣道の道を選んだのは、偶然の巡りあわせとはいえ何かの予兆でもあったのかもしれない。後にそう、彼は思ったものだ。それでも少年の剣は少女を守ることが叶わなかった。
結果、犯人は顔の半分を潰され、鼻の骨が砕け、片方の目が再起不能になったということだ。代わりに悟朗少年は素手で犯人のナイフを引き受けることとなり、左の掌の腱を切断。剣道復帰は趣味レベルであっても無理になったと、後に彼は聞いた。
だが、少年はそのくらいのことは気にも留めていなかった。
「ヒカリちゃん……」
葬儀の前も後も、彼は少年が少女の名前を呟く以外の声を聴くことはなかった。あれだけの涙を流し続けながらも、少年は泣き声を上げることはなく、静かにしずかに、只時折少女の名前を漏らすだけだった。
その後、ぽつりぽつり、と。少年から直接聞いたことと、裁判を通して、あるいは老師やリサ夫人、ミツル父さんと母さんの話を総合して、彼は理解した。
あの日。少女は、少年に会いに行っていたのだ、と。
少女は、少年のことがずっと好きだった。
少年は、少女を心から大切に思っていた。
初恋だった。
――「黒」の刻・02月26日、夕刻
思い出し続けながら、彼はいつしか泣いていた。久しぶりに、自分のこと以外で泣いているな、そう思いついて、彼はほんの少しの落ち着きを取り戻す。
5年前の不幸なあの事件。彼が心底怒り、憎み、悲しみを覚えたあの事件。
だが。
この世界の「彼」は、クローアー・ロードックは、それ以上のことをしているではないか。この世界であれば、鼻を砕かれ目を潰されて然るべき人間は、「彼」なのだ。こんな火傷の痕すら、生ぬるい。
違いは、些細なことだ。
風見ナミと、「こと」を起こす前か後か。二人の出逢いのタイミグが違っていた。それだけだ。
本当に、「この人間」は、罪を犯さなかったのか。
否。
「その違い」さえ無ければ、自分もまた、あのヒカリを刺した加害者と同じ道を辿った筈だ。それも、より破壊的なかたちで。大きな被害を、まき散らしながら。
彼は確信する。
力なく、それでも新聞紙を手にしたまま、彼は寒い部屋の中で震え続けていた。
「ワタシは、もう帰らない方がいいのかもしれない」
そう、呟いた。カラカラと力の無い、和語の声だった。声の渇いた音にゾッとして、彼はふと左右を見、背後へと振り返る。声の主が別にいるのではないか。そう、思ったのだ。
「違ったか……」
やはり、声は彼のものだった。
もう、よそう。諦めよう。ワタシもまた、罪人なのだ。罪人なのだ。そう、和語で声に出そうとする。ヒューヒューヒューと、何も声は出ず、喉を空気が通りすぎるだけだった。
涙は、もう出なかった。
どうして彼が「この世界」に呼ばれたのかは、わからない。けれども、何かが欠けていて、何かが必要で、彼がその欠落に必要だからこそ呼ばれたのだとしたら。
死刑こそが、彼に相応しい道に違いない。
そう、彼は思い至った。
心が、折れそうだった。
散々違うとその違いばかりを並べ立てていたこの世界のクローアー・ロードックと、この自分に、どれだけの違いがあるのだろう。いや。自分こそ、ヒカリを刺し殺したあの加害者の男と何ら変わらない、それ以下の人間ではないか、と。
かつて。5年前のあの事件の日からこのかた、件の加害者をあれだけ激しく憎んだのも無理はない。あれは、「もう一人の自分」だったのだ。それも、「絶対になりたくなかった」自分だ。そんな「大嫌いな自分」を具体的に突き付けられたことが、あの大きな感情の根源だったのだ。自己嫌悪、近親憎悪、あるいはなんというのだろうか。その反発が、怒りのかたちを借りて彼の中から尽きずに涌き出ていたのだ。
寒さからなのか、あるいは別の何かか。ブルブルと震えながら、彼は思った。
沈黙が、部屋を支配していた。
辛うじて手にしていた新聞を放り出し、頭を抱えて蹲る。それまで秩序をもって重なっていた今日の新聞が、バラバラと、紙面が分かれて狭い畳の上に放り出される。
そうして彼は、暫く放心していた。
どのくらい時間が経ったのだろう。夕食が来たことに彼は気がついていなかったが、既にそれは終わっていたらしい。見知った刑務官がやってきて、彼に消灯を告げた。
「96号。消灯時間だ」
刑務官の中でも、一番彼に理解を示す、というよりも一番ニュートラルな対応をしてくれる男だった。彼に対して、英語ではなく和語で話しかけることにあまり躊躇の無かった刑務官。顎の形と髭の濃さが、ほんの少しだけミツル父さんを思わせる。その男が、畳に広がったままの新聞紙を片付けるよう、彼に強く言い渡す。
「ああ、すまない……すみません」
力無く、よろよろと、彼は刑務官に言われるままに、散らばった新聞を、大きさだけを揃えるようにして折りたたんでいく。天地がひっくり返ったままのものも混ざっていたが、彼の眼はそれを捉えることは無かった。
「布団」
「はい」
布団を敷けという指示のもと、言われるままに、彼は布団を取った。
こうやって、人に言われるままに体を動かし、判断を放棄することは、なんて楽なんだろう。彼は少しだけそうした依存の満足を感じた。それはどこか、かつての魔女狩人時代の彼の思考回路に似ていると、心の奥で彼は意識した。
気がつくと、刑務官は出て行っていなかった。廊下を歩く靴音と、別の囚人に声を掛けている音が、遠くから聞こえた。
もうすぐ部屋の明かりも落ちるだろう。彼はそう思い、動くこともままならず、机の前に座り込んだ。というよりも、力が抜けて動けなかった。
机の上には、さっき畳んだばかりの新聞が、無造作なまま置かれていた。折りたたみ方は雑だった。雑ということにすら、彼は気づくことは無かったが。
だから、その名前が彼の目に入ってきたのは、偶然のことだったのだろう。
『クリスティーナ・レオノーラ、2月29日に和国来訪!』
クリスティーナ・レオノーラ。
どこか、覚えのある名前だった。
……かなり長い時間をかけて、彼は思い出に辿り着く。
そう。その名前は、彼がヒカリとナミ、2人に贈ったスカーフの、デザイナーの名前だった。
そのことに気がついて、彼は狂ったように新聞を掴み取ると、一気にその新聞記事を読み始めた。
内容は、他愛もないことだ。
今年開かれるオリンピック。その主要楽曲を担当する世界的に有名なミュージシャンがいる。その衣装から舞台装置から、全てのアートを担当したのがこの有名デザイナー、クリスティーナ・レオノーラなのだという。そのミュージシャンはオリンピックの宣伝の為に、和国を含む全世界行脚を行っている。和国でのイベントは来月。それに先駆けて、今月末の3日後に、このデザイナーが和国にやってくるのだという。
あとはややゴシップに近いことがさらさらと書き連ねてある。公的な同性パートナーで同じく舞台や各種アートデザインの一部を担当している女性を同行させていることだとか。レズビアンなのかバイセクシュアルなのかは判らないが……公式にもその辺りは未公開という話だ……、彼女のかかわる「公的パートナー」は性別を問わず、しかもかなり頻繁に入れ替わることだとか。そうしたスキャンダラスなものも含めて。
彼はそうした背景は全く知らず、ただデザインが気に入ったというだけでそのスカーフを選んだわけだが。
と。
ここまで連想して、「この世界」のデザイナーであるクリスティーナ・レオノーラと、彼本来の世界のクリスティーナ・レオノーラとが、全くの同一人物であるかどうか、それが判らないことに彼も気づく。確認も証明もしようがない、ということに。
彼の世界における「彼」と、この世界における「クローアー・ロードック」。まるで同じだとは言えない、けれども同一の人物。しかし当人同士にしてみればまるで別人。そして証明の手段は無い。それと、まるで一緒だ。
そもそも彼の世界でスカーフのデザインを手がけた彼女は、一体どういった人物なのだろう。ふと、そんなことを思った。
――「白」の刻・4年前、春
手伝ってほしい、という声があったのは、ナミからだった。
「大物をね、少し動かそうと思って。6年生になる前に」
部屋の、模様替えなのだという。
ナミが11歳の誕生日を迎えた後のことだ。もう3月に入っていただたろうか。彼は24歳になっていたか、いなかったか。そんな、春めいたある日曜日だった。
因みに、ヒカリの部屋は去年の8月から未だそのまま、手つかずだった。
ナミからのその申し出は、意外なことだった。家具を動かす程度であればミツル父さんでも充分にお願いを聞き届けてくれるだろうに、と彼には思えたのだ。確かに、力仕事そのものは彼の得意分野ではあるが。
そも、かなり親しいとはいえ、再会してから2年程が経つが、彼はナミの部屋に足を踏み入れたことは無かった。それ以前に、風見家へと来たところで子どもたちの部屋がある2階に上がることすらなかった。単純にそこまでの用事が無かっただけではあるのだが。
いや。一度だけ。
ヒカリが刺殺された、昨夏の日。あの日に一度だけ。彼は、ナミの部屋へと入ったことがある。
電話で東乃市の中央警察に呼ばれて、彼女に外出の準備をさせるために、足を怪我した彼女を抱えたまま部屋に飛び込み、彼女に言われるままに必要なものを手近なカバンに押し込み、立ち去った。ほんの30秒程のことだった。
それから半年。春めいたぽかぽかとした陽気のその日、彼はナミに乞われて彼女の部屋へと入室する機会を得た。
階下ではミチ母さんが、新キャベツでザワークラウトを作るのだ、キュウリでピクルスも作らなきゃ、と保存食作りに精を出していた。台所のシンクを大量の淡色野菜で埋め尽くしながら。
「暫く1階はものすごーくお酢臭くなるから。レイジ君は2階でナミを手伝っていて。あとでお茶とお菓子、持ってくからね」
そう、母さんは落ち着いた表情で彼に告げた。
この日の母さんは安定している。そう、ちょっと安堵したことを、彼は覚えている。彼女が本格的に安定してくるのはもっと先で、この頃は、良いときはまるで問題が無いのだが、タイミングによっては鬱が酷くて扱いに困ることも多々あったのだ。
ナミの部屋は南に向いており、明るく、小さいながらも部屋が狭い感じはあまりなかった。もう一面、西側にも窓があった。どちらからも陽光がよく入り、明るい。南面の広いベランダには鉢植えやプランターが並んでおり、そのベランダの広さも相まって、部屋はむしろ広いものかもしれないと、そう感じもした。
最初、彼は「何かが足りない」と思った。この部屋に入るのは、確かに2度めではある。だが、彼が前にこの部屋に入ったのはほんの30秒程のことでしかない。覚えているようなことも大して無い。だが、彼は何かの違いを感じていた。
東面に向いた壁が、妙に広かった。
「兄ちゃん。じゃあ、これを動かしてちょうだい」
ナミはいつものように、てきぱきと彼に言いつけを始めた。使い魔に命ずるかのような、生意気な口調だ。
同時に彼は、その妙に広く感じる壁の広がりを見て、「ああ」と思い当たる。
昨年の夏、たった30秒の間のことだが、彼はそこに、彼がプレゼントしたスカーフがきちんと大きな額縁に入り飾られていたのを目にしていたのだ。朝焼けの空のような色をした、真四角な布。左下に、指揮棒を持った小さな黒猫のワンポイント。
今、それは外されていた。
無理もない。あれはヒカリとお揃いなのだ。色違い、柄違いとはいえ、死んだ妹を想起させるそれが部屋の目立つところにあっては、ナミも辛いのだろう。かといって、一度飾った壁の空欄を別の何かで埋めようと思っても、彼女の中でそこに何等かの躊躇いがあったのかもしれない。
ヒカリを喪う迄の、子どもらしい真っすぐさに溢れていた少女は、この半年で随分と大人めいた雰囲気を纏うようになっていた。彼への要求などはむしろ子ども返りが目立っていたが、立ち居振る舞いや静けさを纏うようになった部分などは時折ハッとする程大人になってしまっていた。家族の死というものを体験した子どもは、大人にならざるを得ないのだろう、と彼は悲しく思ってもいた。
「机と本棚をね、ここに運んで」
かつてヒカリとお揃いだったスカーフを飾っていた東面の壁を埋めるかのように、彼女は大きな本棚と机を移動するよう、彼に依頼した。
東面の向こう、壁の逆側には、まだ手付かずのヒカリの部屋があった。
案外、全ては早くに片がついた。元より飾りの少ない、シンプルな、どちらかというと性別不明と言ってもおかしくはない部屋である。
彼が去年入室したときの印象を思い起こしてもそうだった。子どもらしい図鑑や地図帳などは幾つも目についたが、人形のような女の子らしいものや飾りめいたものが元々少なかった。そもそも部屋の色合いが青と緑といったアースカラーで統一されており、銀色の綺麗で大きな地球儀と、それと同じシリーズらしい金色の小さな月球儀が、部屋の中での一番大きな飾りものだった。拳道の進級の賞状などもあったかもしれないが、彼にはよく思い出せない。そういった部屋なのだから、落ち着いているがむしろ子どもにしてはえらく地味だという印象しか彼の中には残っていなかった。
だからこそ、余計、あのスカーフが短時間で彼の中に記憶されたのかもしれないのだが。
この日も、彼が来るから片づけたというよりも、元から片付いていたのであろうといったスマートさが感じられた。入る前も、片付いた今も、すっきりとして居心地は悪くない。地球儀と月球儀は変わらずに落ち着いた印象で置かれており、あとは古めかしい、大航海時代を彷彿とさせるデザインの、小さくて綺麗な世界地図が飾られていた。賞状類などは、本当に目立たない置かれ方をしていた。
あまりじろじろと部屋を眺めまわすのも悪趣味である。そう思った彼は、他に何か片づけるものはないかと彼女の意向を聴こうと、目線を落とした。すると、彼女の方から、
「じゃあ、この箱を出しちゃおう。廊下よ」
そう率先して、不用品が詰められていると思しき段ボールを持ち上げた。彼は残るもう一つの段ボールを持って、部屋のドアを開けて外へと出た彼女に続く。
2階の廊下部分、その奥側にあたるところには、既に箱が一つ、置いてあった。それと、その上に乗っかった、もう一つの物体。白と黒の鍵盤の付いた細長い形。ピアノの、鍵盤の部分だけを切り取って四角く加工したような、プラスチック製と思しき人工物である。彼女の部屋に入るときは、彼がまるで気づかなかった物たちだ。
彼が手を止めてそれを凝視していたことに、彼女も気がついたのだろう。どこか重たい、口を開きたくない、といった遅さで、彼女がひっそりと、
「それね。ヒカリちゃんのキーボード。お友だちに、あげることにしたの」
彼女はそう言った。
「一番の仲良しの子でね、うん。魔力無しの」
「そうか」
「うん」
それしか、彼には言えなかった。手放すという決断をする母やナミの側も、悩んだことだろう。
「一番の仲良しの子……一緒にピアノ教室に行っていた子なの。大事にしてくれる、って」
「そうか」
自分の抱えていた箱を置くと、彼女はヒカリのキーボードに優しく、そっと触れた。
「ウチに置いといても、誰も弾けないでしょ。それじゃ、楽器もかわいそうだから」
「そうか」
一番仲の良い友人が、魔力無し。
それはナミもそうだった。連れてくる友人は全て、魔力無しの子どもばかりだった。
それ以前に、人口比における圧倒的少数者である魔力持ちが、公立の小学校にそう大人数いるわけもない。自然に、彼女たちは、人口の大多数を占める魔力無しともあたりまえのように交流を持ち、そうした魔力無しの友人たちと仲良く、楽しく、平々凡々と暮らしていたのだ。
魔女である彼女たちの一番の親友が、魔力無し。
初恋の男の子も魔力無し。
そして。
「ねえ、兄ちゃん」
そこでふと、彼女はキーボードを触っていた手を離すと、立ち上がり、彼へと向き直った。一瞬前とは違う、どこか力強い、芯のある所作だ。
「兄ちゃんは、あの犯人を殺したいの?」
……彼は即座に「ああ」と肯定の返事を返す、つもりだった。
だが。
一瞬、声が出なかった。
そも。彼が犯人を八つ裂きにしたいということは、割と常々声に出してあちらこちらで話をしていたことでもあった。
但し、幼いナミに面と向かってだけは直接には言わないようにしてはいたし、彼女を含め年少者がいる場ではそうした話は慎んできたつもりだったが。それでも彼女の耳に入っていないことは無いだろう、という程度には、彼は自身の河岸を明快にしてきていた。
むしろ、今更どうしてワタシにその解り切った結論を聞くのだろう、といった戸惑いが、彼の喉を詰まらせた。
しかし彼女は、彼の返事を待たなかった。
「わたしもね。犯人は死んじゃえばいい、って思う。スッゴク思う。この地球上からさっさと消え去ってくれればいいと思う。でも」
そう言うと今度は、彼女は目線を東の位置にあるもう一つの子ども部屋へと向けた。
「同時になんだけどね。わたしは、あいつに、生きて『まいりました』って悔しがらせたい。後悔させたい。泣いて、謝ってもらいたい。ヒカリちゃんのお墓の前で、ずっとずっと泣き暮らしてほしい。自分が本当に悪いことをしたんだって、そのことを心の底から本気でわかってほしい。大人なんだから。きちんと。それがないままに、あいつが死んじゃったら……」
と、そこで、彼女は深く息を吸い込んだ。彼女の両手は、拳を握っていた。
「あいつが今のまま死んじゃったら、それはそれで、すっごく悔しい」
小さく、彼女は頭を振った。
「あいつが、自分がしたことがわからないままに死んじゃうのも、なんか許せない。きちんとわかって、ドゲザとかして、わたしがその頭を踏んづけて、『まいったか』って言って、『まいりました、ごめんなさい』って言ってくれたら、また、ちょっと変わるかもしれないけれども」
「……そうか」
「まだ、わからないの。そのとき、そのときで、わたしの気持ちもくるくると変わるわ。お師匠様に破門されちゃうかもだど、この拳で犯人を叩きのめしたいって思うことだって……」
確かに。彼も、拳道の武道者として、私闘や私刑に拳を使うことがどれだけの罪悪であるか、よくよく知っているつもりである。そしてそれは、ナミもまた同じなのだろう。「そうだな」と洩らすと彼は頷いて、彼女を優しく見遣る。
「でも、それはどっかの誰かに……警察の人だとか、裁判所の人だとか、わたしの知らない大人の人だとか、そういう人たちにわたしのかわりにあいつを殺してほしい、っていうんじゃなくて。そうじゃなくて。なんだろう……うん。でも、ちょっと違うの」
恐らく彼女は、彼があちらこちらで仇討ちを大きく肯定して話をしているのを知っているからだろう。彼に遠慮をしているのかもしれない。
だとしたら、それは良くないことだ。
そう彼は思うと、彼女に、いつものように頭に手を置いて、穏やかな声で語りかけた。
「ああ。ナミは、ナミが思うままでいい。昨日のナミと今日のナミの、感想や想いが、違っていても、いい。他の人と全く違っていても、いい。構わない。それは、ナミが決めることだよ」
そうやって髪を撫でながら、彼は大きくナミに頷いた。
「ああ。それに、奴が土下座をしているところに、その頭に足をドーンと乗せる、というのは悪くはないアイデアだ」
「でも、武道者としては恥ずかしいことだわ。それにこれって、私刑にならない?」
「なるかもな。でも」
気持ちは自由なんだよ、ナミ。そう続けると、彼は更に彼女の髪を撫で続けた。
「他の人が、あの犯人には死刑が相応しい、と思うことも自由だ。それと同じくらい、ヒカリのお姉ちゃんであるナミが、生きたままあいつに参ったと言わせたい、と思うのも自由だ。誰も、君の気持ちをああしろこうしろ、って言うことはできないものだよ。そもそもナミ、他人にそう言われたところで、君は君の気持ちを変えようだなんて思わないだろう? できないだろう?」
彼女の青の瞳を、まっすぐ覗き込む。それは、暁光を迎える前の青色を彼に連想させた。夜と、朝の、間。その僅かな時間だけ、天空を支配する、藍。もうすぐ朝焼けの赤に塗り替えられる、けれども一日で一番透明度の高い、青色。
「ナミが、ワタシと違う意見を持っていても、それは悪いことではない。ミツル父さんや、母さん……お母さまと、君の気持ちが違っていても、それは仕方がないことだ。それに、」
ナミは、どこか心細そうな表情を眉に乗せたまま、彼を見上げている。
「たとえ、ワタシの意見と君の気持ちが違っていたとしても。ワタシは、君が君でいることを、100%、いいや、200%でも1000%でも、ずっと応援しているからな。兄ちゃんは、ナミの味方だ。最後のさいごまで、ナミの味方だ。必ず。ずっとだ」
「……うん」
それだけを言うと、彼女はしばらく黙ったまま、彼を見上げ続けていた。瞳の青はとても綺麗で、触れる黒髪は彼の手にとても気持ち良く馴染んでいた。
「ねえ、兄ちゃん」
「なんだね、ナミ」
「わたしはね……」
一瞬、考えるかのようにことばを区切る。だがすぐに、大きくはないがはっきりとした声で、彼女は自身のことばを紡いだ。
「わたしね、やっぱり、あいつはこのまま死んだらダメだと思う。すごく死んでほしいし、できるものならわたしが殺したいけれども。でも、ダメよ。だって今、死んじゃったら、あいつはヒカリちゃんを殺したことの悪さを、ほんのこれっぽっちも知らないままで死んでいくのよ。そんなの、わたし、絶対に許さない! あいつが死んでも許さない! 魔女、魔力持ちだから殺してもいい、だなんて考え方、絶対にそれ、まちがっているんだから! そのまちがいをわかって、謝ってくれないと、ヤダ」
「そうだな」
「じゃないとあいつ、ヒカリちゃんを殺したことを正しいことだと思ったまま、死んでいくのよ」
青い瞳が、少し潤んでいる。それはきっと、悲しみではなく怒りの感情からのものだろう。彼はナミの目線にまで少ししゃがむと……ああ、彼女も大分大きくなったな、ここまで腰を曲げずに話ができるようになったか、と思いながら……彼女に真っすぐ頷いた。大きく。
「わたしは、あいつに、生きたまま、『まいった!』って言わせたい」
でも、明日にはやっぱりあいつ殺したい、って思っちゃってるかもわからないけれども。そう付け加えて、彼女は小さく笑った。
彼も、小さく笑った。
遠くから、母さんがお茶の準備ができたこと、それを告げる声が聞こえてきた。
――「黒」の刻/02月26日、夜
すぐに消灯となった。
彼は読んでいた新聞を目で追うことが叶わなくなった。巡回が来る前に布団に入っておかなければ。そう、彼は刑務所の中にいる自分を意識する。
嫌々ながら布団に潜り込んだ彼は、そこで先ほどまで読みかけだった、スカーフのデザイナーの記事を思い起こす。
そういえば。ヒカリに贈ったあのスカーフは、一体どうしたのだろう。未だ、あの家のどこかにひっそりと仕舞われているのだろうか。そんなことを彼は思った。
そして。
「……オリンピック……?」
彼の漏らした声の語尾が上がる。
2月、29日。
閏年。
彼は、そこでカウントを始める。
……間違いない。この世界の閏年がもしも「今年」であるのならば。この世界は、彼の生まれた世界とは本格的に別の「世界」だ。当たり前ではあるのだが。
彼はその小さな巡りの違いを丁寧に数え直し、確認する。
そう。彼の世界の閏年と、丁度2年、ずれがある。少なくとも、「彼の世界」での閏年は、この年ではない。
尤もそれは、この世界でも閏年が4年に一度の周期であるのならば、の話だ。
場合によっては、「この世界」の宇宙、天体構造そのものが違うという可能性もある。
たとえば太陽や地球の大きさが元の世界とは違い、1年が365日でないことや、閏年そのものが無く、2月が30日や31日ある、といった世界であるような。
理科が好きだったナミが、よく図書館や学校の図書室でそうした宇宙にまつわる本やら何やら、何冊も借りてきては、居間で積み上げて読んでいたことを思い出す。彼も、写真の綺麗なそれらの児童向けの科学書を一緒に見ることもあった。ビジュアルが美しいということもあったが、児童向けの書籍は彼にしてみれば和語の理解にうってつけという理由もあった。
そうした科学書にあった内容を思い起こして、彼は暦に関する連想を進める。どうやって彼が「ここ」にやってきてしまったのかといった部分は後回しだ。
ただ、その場合、宇宙の理として、重力その他の条件も変わってくるだろう。そうなると土や太陽、水環境、地球の植生も違うだろうから、彼がこれまで当たり前のように食べてきた刑務所内の食事がもっと違うものになっていた筈だ。だが、その辺りで、彼の既存の世界との違いは一切感じられなかった。重力、気圧なども同様だ。違和感などは一切無い。とはいえ別の身体で体験をしていることだから、この辺りに関してはそこまでの確証は無かったが。それでも。
多分、違いとしては閏年そのものの位置が「ずれている」。
あるいは、閏月が2月ではなく別の月に設けられている、といった違いなのかもしれない。1月、3月、あるいは12月が閏月に当たっている、といった違いを持つ暦であるような、暦の造りそのものが違うといった可能性もある。
いずれにせよ、この世界は、「違う」。
ならば。
2月29日。3日後に、何かがあるのではないだろうか。この世の理が、宇宙の物理法則がそうなっているのであれば。彼が「ここ」にいること、それ自体が間違っているに違いないのだから。
自分は「呼ばれて」来たのではない。多分、手違いか何かで「間違ってここに送り込まれた」のだ。
根拠は無い。だが、彼は確信する。
「イリスウェヴの神よ」
彼は、はっきりと声を出して、普段信仰の薄い自分を鼓舞していく。
「ワタシに、違いを見極められるだけの充分な知らせを、それを読み解けるだけの知恵を、そこからチャンスを掴み取るための力を。どうかその一歩を与えてください」
あなたの御心のままに。イリスウェヴ神の名のもとに。
そう、呟くと、彼は力を取り戻す為に睡眠を得ようと、少しばかり前向きな心となった己を自覚して、布団の中で瞳を閉じた。
(つづく)
今回、時間が無いのでこの部分は省略です。
後で追記するかも、ですが。
あまり何かを書くと、ネタバレしそうだ、ということもありますので。
次は、少しインターバルを頂きます。少々時間を頂くことになりますが、必ず戻ります。
少し長く待つかと思いますが、どうか次もご贔屓に。
お読みいただきどうもありがとうございます。では、また。