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第12話/彼が「神矢レイジ」であった頃

漸く12話、話はほぼ「白の刻」の過去回想です。

しかもなぜか、「風見ミツル」スペシャル。

以前の「神矢タカフミ」老師スペシャルよりも盛りだくさん。あれこれの出来事が続きます。

――座標軸:「白」の刻/6年前の春


 風見ミツルは魔力持ちである。


 中年。

 妻とは仲が良く、可愛い娘2人にも恵まれている。平均的な和国人であり、かつ世界的には少数者である魔力持ち。それでも基本は凡庸だ。そんな、平凡な人間であるのだ、と。彼は自分のことを、よくそう言っていた。

 当人の外見にも、特にこれといった特徴があるわけではない。目を惹くような美形の要素は皆無で、かといって目立つような醜さとも無縁である。その外見に関して印象に残るものはあまり無い、と言い換えてもいい。背は高くもなく低くもなく、体格もごく一般的。そう、和国人としては。

 体毛がやや濃いのか、髭は濃い。だがそれもそう極端なものではない。髪は、魔力持ちらしく長いが、後ろにスッキリと纏めており、背面に回らなければまるで目立たない。

 昔からそうだったのだ。魔力持ちという属性を除けば、自分は極めて平凡な男だったのだ、と彼は言う。強いて個性があると言えば、年より若く見られることが多いという程度だね。声は年相応だけど。低く深い声でそう言って、穏やかに笑う。彼、風見ミツルのいつもの癖だった。


 そんなことを、彼は思い出す。


 最初に会ったときのこと。すぐに彼は、「ミツルと呼んでくれ」と親しい調子で言われたものだ。さん付けもいらない、名前で呼べ、と。

 2人の年は10程離れている。けれどもどこか、彼に親しみを覚えてくれたのだろう。初見での彼はそう、風見ミツルの表情を見て取った。穏やかに笑いながら、彼と会った最初の晩に、男はそう依頼した。

 そうはいっても、2人の娘は男のことを「父さん」「お父さん」と呼ぶ。だから彼も自然と、「ミツル父さん」と呼ぶようになっていったのだ。


 彼が最初に仲良くなった風見家の人間はナミだったが、しかしすぐに彼は「ミツル父さん」ともとても仲が良くなっていた。

 目立つ要素の特に無い、しかしどこか愛嬌のある、穏やかな父親。

 魔女の人権運動を担い立ち居振る舞いも会話も理知的、かつ容姿の整った妻の「風見ミチ」と比べると、正直、見劣りもする。

 けれども、美しい母親は当たり前のように夫の隣が我が定位置であるとばかりに立っている。いつも、いつも。

 そして娘たちはというと、「この緑青の目がとてもきれいなのよ。ヒカリちゃんと同じなんだから」と長女のナミが父のことを大いに自慢して、「兄ちゃん、わかった?」と彼にも同じ感想を要求するのだ。下の娘ははにかみながら、嬉しそうにそんな父と姉を見上げていたものだ。

 緑青。瞳の色素がモンゴロイドらしくないという点で言えば、遠い昔から移住が多く混血の多かった魔女らしい特徴が出ていると言えるだろう。こうした複雑な混血の形跡は全世界の各地で多くの魔女に見られる特徴であり、風見家の人間全員に見られる特徴でもあった。



 彼自身は多くの兄弟の末っ子として生まれたのだが、その中でも一人の兄とミツル父さんの印象が彼の中では重なっていった。

 しっかり者の長男。口が達者で他者受けの良い次男。観察力があって立ち回りの上手い三男。その下となる4男の兄は、どうしたことか要領が悪く、よく次男、三男の2人の兄たちからからかわれていたものだ。けれども末っ子である彼にとって、すぐ上となるこの兄は、強くて逞しい長兄と同じくらいに頼りになる大事な兄だった。

 ロードック家のきょうだいの中では唯一の女性となる彼の姉も、この5人兄弟の中で一番立ち回りが鈍く何かと貧乏くじを引きがちな4番目の兄のことを、大丈夫かとばかりに心配の目で見ていることも多かった。

 因みに、彼は末っ子としていつも味噌っかす扱いである。姉から多少気を掛けて貰っていた程度で、4男坊の兄以外からは放ったらかしにされることも多かった。そうでなければ皆から過剰に保護されているか。そのいずれかだった。


 そんな、決して間抜けではないもののどこか貧乏くじばかりを引くことの多いこのすぐ上の兄を、彼は、ミツル父さんに重ねて見ることがあった。

 そのことに気がついたのは、彼が風見家へと頻繁に顔を出すようになって間もなくのことだった。

 それは外見がというよりも、目立たない、どこか穏やかな立ち居振る舞いから感じたことなのかもしれない。


 和国の桜は、咲いていただろうか。それとも、散ってしまっていただろうか。


 確かナミは4年生へと上がり、ヒカリは2年生になって、2人共元気に学校へと通っていた筈だ。そんな頃だった。


 その日もいつものように風見の家へとお邪魔して、夕食を一緒に頂いていた。

「この家に、男の子がいるのも悪くないね」

 そういえば、風見の家は妻に娘2人。なるほど。男女比は和国風に言うと2割5分、3対1だ。

「これまで男性票は1票しかなかったからなあ」

 レイジがうちの子になれば、3対2で、大分比率が上がるぞ。そんな風に、ミツル父さんは小声で付け足す。

 母は笑うだけ。下の娘は、ややびっくりした顔。

 そして上の娘はというと。

「兄ちゃんは好きだけれども、わたし、どうせならお姉ちゃんがいい」

 と、結構な憎まれ口を叩く。彼が、彼女が彼を嫌っていないことをよく飲み込んだ上での言い回しだ。

 だからナミは、そうやって意地の悪いことを言いながら、しっかりと彼の皿へと、芋やら鶏肉やら菜っ葉やら豆やらの新しい惣菜を盛りつけていくのだ。まるで彼の姉であるかのように。「ほら兄ちゃん、もっと食べなきゃ、大きくなれないよ」などと言いながら。

「ナミ、給仕は大変に有難いのだが、ワタシがこれ以上大きくなったら、大変だよ」

「そうね。それにわたし、ぜったいに兄ちゃんに追いつかないといけないんだから」

「身長……で、かい?」

「うん」

 チラリ。改めて、彼は彼女を見る。すると彼を挑戦的な目線で見つめている彼女の青い目と、視線が重なった。

「それは無理だと思うよ、ナミ」

「そうかな」

「そうだよ」

 そうやって彼とナミが漫才のように言い合いながら、競争のようにしてそれぞれの皿の上の惣菜を各々の口へと放り込んでいく。

「ほら、しっかり噛んで食べるの。ナミも、レイジ君も」

 と、母さん。

「そうだよ。大きくなりたいんなら、沢山食べるのも大事だけれども、よく噛んで食べないと。ナミ、レイジ」

 と、ミツル父さん。


 ミツル父さんが、まるで息子のように、あるいは年の離れた弟のように、彼を呼んでくれた。その低くて深い声を、まるで、4男の兄貴のようだ、と。

 そう、彼は意識した。


 ああ、桜は散っていたか。それどころか、そろそろ梅雨が、と言われていた頃かもしれない。


 そうやって彼は、いつの間にか、風見の家で夕食を摂ることが増えていっていた。

 それは、彼の保証人である神矢家の事情も関係してはいた。


 だがそれ以上に、彼は子どもたちにも好かれ、風見ミツルと男の友情というえにしでもって結ばれていたのだ。

 そう、彼は思う。




――座標軸・白の刻/6年前、春2


 彼が初めて風見家へとお邪魔した3月初頭のその日。その最後に、彼は食事をしながらすっかり打ち解けた風見の父、ミツル父さんと、軽い気持ちで外出の約束をした。

 初見の食事の際、ミツル父さんが彼に打ち明けたのは、父さんが「落語」が好きなことと、大学時代には「オチケン」なる、落語の自主勉強会に所属していた、という話だった。

 話はそこから広がった。

 母さんは2人の話に笑うだけ。幼い姉妹のナミとヒカリは、ちょっとついていけない、といった顔となる。そして男2人は、初顔合わせにもかかわらず、和国文化を肴に一挙に会話が盛り上がったのだ。



 実はそこには、彼の興味も加わっていた。

 彼が刑務所にいた3年の間、非常に短期間ではあったが、落語家に師事していたという芸人崩れの犯罪者と同室になったことがあったのだ。

 詐欺で捕まったというその男は、しかし刑務所内では巧みな話術で囚人たちを楽しませ、結構な人気者となっていった。和国の芸能関係、TVの動向に詳しくないどころかそれをまるで知らない彼でも、その囚人の華やかな話芸には引き込まれた。

 男は気が向くと、ちょっとした時間に面白い落語の小話をいくつか、幾度となく披露してくれた。大好きな師匠を真似ての落語だと言うが、その囚人自身の語りそのものも、実際かなりのものだった。有名だとされる古典落語のときもあれば、彼の師匠が創作した落語のときもあったらしい。外国人である彼には、その区別は殆どつかなかったが。だが、和国の文化にそこまで馴染んでいなかった頃の彼であっても、それらの「噺」はどれもこれも、とても面白く感じられた。

 娯楽に乏しい監獄内で、このようなことが歓迎されない筈がない。刑期の短い囚人ではあったが、男は皆に大層喜ばれながら、彼らの自由時間のその一部を、皆で落語噺を楽しむ場として変えたのだ。

 彼は、短期間の収容でありながらも強い印象を残していったその詐欺師の話術を思い起こしながら、武道とは別のアプローチとなる和国の文化に深く興味を抱いていたことを強く意識した。


 「ラクゴ、ロウキョク、ケンゲキもいいですね」


 数少ない娯楽の機会として、刑務所では月に一度、興行があった。刑務所内の、娯楽に飢えた囚人たちは、その月に1度のイベントを待ちわびていたものだ。3年間と少しの間、彼も又その楽しみを待ちわびている一人だった。

 興業の中身は、音楽のときもあれば、こうした落語や古典芸能の興行もあった。和語が完全には解るわけでもない彼でも、それらの内容の内大半は相応に理解が追いつくものが多かった。


 こうした刑務所内の娯楽の中で一番多かったのは、映画だった。

 彼はその中でも、和国情緒が溢れる時代劇や、それに近い内容のものが特に気に入っていた。剣劇のシーンなどは、彼が週に一度、神矢師から教わっていた拳道との共通点からより深い興味でもって視聴をしていた。

 何より、物語がシンプルで理解のしやすいものが多かった。敵味方が明確で起承転結がはっきりとしている時代劇の作劇は、和語がよく解らない内から彼の心に響くものが多かった。3年の内に和語がどんどん上達するに従って、その傾向は更に強まった。


 そうしたわけで、彼は落語も、あるいは各種の芸能も、そして時代劇フィルムといった映画も、かなりの興味を持っていた、というわけだ。



 しかし。「ここではあまり刑務所内の話はしないほうがいい」。彼は風見の玄関を入ってから最初の内に、両親から、さりげなくそう釘を刺されていた。

 刑務所にいたという事実は大人の2人は知る事実であったが、娘2人はそのようなことはまるで知らない、というわけだ。風見家に足を踏み入れて初期の段階で2人の親がさり気なくそう情報を提供してくれたことに、彼は大変助けられた。


 だから彼は、刑務所で知ったそれらの娯楽のことを、あまり口にすることは無かった。それでも大層な興味を喚起されながら、父親の話す内容にあれこれと疑問を差し挟み、会話を広げていった。

 むしろミツル父さんが、彼の興味のドアを再び開いた、と言った方が近いかもしれない。

 

 彼にとって心底興味のある分野だったからだろう。この日の最後には、すっかりそうした和国の伝統文芸に関しての話ばかりとなり、飽きた様子の娘2人の顔を見て、父、そして彼が肩を竦ませる、といった流れで食事会は和やかに終盤に向かっていた。

「もう。父さん、ずっとその話ばっかり」

「いや、でも……」

 聞くと、職場の人達、また魔女・魔力持ち仲間の中でも、この風見の父のように和国の伝統芸に興味を示し、深く掘り下げて話をできる仲間はあまりいないのだという。大学時代の友人のごく一部だけだ、と。そう、少し寂し気に、若い父親は彼に告げた。

「どうだろう。来週、隣の東乃市に、江戸時代の版画の美術展がやってくるんだ。もし良かったら一緒に行かないかい?」



 結論から言えば、彼ら2人の男はその外出を大いに楽しんだ。

 彼からすれば、本当に久々の訪問となる大都市・東乃市への訪問であった。

 人混みの中、活気のある街を歩くという行為そのものが、彼にはとても面白く感じられた。見るもの、見る人、それらの全てが彼の興味をかき立て、彼の心に何かを訴えかけてきた。街の風景、在り方そのものから彼自身が活力を与えられている。そんな気持ちにすらなった。

 本来の目的である美術展は規模も大きく、充実した展示内容だった。見るも珍しい美しい古の絵画、版画の数々。彼は目を瞠って、色鮮やかなそれらを眺め続けた。ミツル父さんはそれを邪魔すること無く、彼のペースに合わせてゆっくりと見て、時には解説を差し挟んでくれた。ミツル父さん自身が興味のある絵画になると、彼はそっと離れて、父さんが満足する様子を傍から眺めては、和国の美術館の在り方そのものを理解しようと努めた。

 元より、彼は母国では鄙びた辺境の村の出身で、美術館などという場所に縁の無い生活を送っていた。美術館、図書館、博物館等、それらの文化的な娯楽や知的活動とはまるでかけ離れた暮らししか知らなかった。そうした建物や催しが存在することすら、知らなかったと言ってもいい。

 その彼が、今、故郷から遠く離れた和国の片隅で、美しい古の美術品に囲まれている。そこには知的好奇心も、感性へと訴えかける豊かな美意識も、更には歴史の音色すら感じられた。美術品は静物なのにどこかお喋りな存在で、彼の心へと、そうしたかたちにならない「何か」の息吹を伝えてきていた。

 そうした、彼にとっては人生でほぼ初となる行動を、隣のミツル父さんは、殆ど当たり前のようにこなし、楽しんでいる。彼はそこにショックを受けると同時に、それ以上にこの場のすばらしさに素直に感嘆し、心から楽しんだ。

 

 流石に小学生の2人の子どもは、父のこの嗜好に理解も示さず、興味も持っていないらしい。父親は、そのことを悔しがっていた。

 若くて綺麗な母親は、この日はその子どもたちと一緒に過ごしていた。丁度、所属する魔女の人権団体で、ボランティア活動の用事が地元の西乃市であるとのことだった。風見の女性陣3人はそちらへと出向いていた。そうしたわけで、この日は男2人の休日となったのだ。


 帰り道には、夕方の早く、明るい内から、大都市である東乃市のバーでビールを酌み交わした。ゆっくりと寛いだ時間を過ごした後、2人は夕景を楽しみながら中野町まで戻ったのだった。

 繁華街を歩くこと、外食での飲酒自体、彼にとっては数年ぶりとなることだった。

 そのことをミツル父さんに告げると、

「それはめでたい。今日は君のみそぎの日だね」

 君は、本当に罪を償ったんだよ、と。そう、彼に告げた。

「そうありたいです」

 彼は、返した。

「そうだね。再び罪を犯さないこと……君にその心配は全然無いけれども……そして類似犯、魔女狩りの、憎悪犯罪の、それらの防止に努めること、だね」

 そうして朗らかな笑顔を彼に向けながら。

「そんな顔をしなくたって、大丈夫だよ。レイジは未遂だったんだし、その罪がどこにあるのかも解っている。そうして償ってきたんじゃないか。だから、」

 もう二度と、「向こう側」へ行ってはいけないよ。

 小声で、父さんはそう呟いて、彼も「ええ」と強い瞳でそう返したのだった。



 3月、4月、5月、6月。ちょくちょく、どうしたことか、男2人だけで、そういった文化的かつ健全な外出が、よくあったのだ。

 勿論、その中には、娘たちも、また母さんも一緒のときもあった。だが、気がつくと男2人、ということも結構多かった。


 家族4人に彼が加わっての行楽、といったことが比較的多かったのは、向かう場所が東乃市のときだった。

 ただ、その内の幾つかのタイミングで、母親は娘たち、あるいは下の娘だけを連れて、よく別の場所へと出向くことがあった。そうなると男同士で、あるいはそこにナミが加わった3人での行楽となり、夕刻に母とヒカリが3人に合流して中野町へと一緒に戻る。そんな休日も多かった。

 ナミは、彼やミツル父さんの趣味に付き合わされるようなかたちで、和国の伝統文化についてのあれこれや、時代劇のような和国でもやや古めかしいとされる娯楽に同行した。

 しかしやはり、面白くないというときは、母方の方についていく。その点、ナミは好みもはっきりしており、主張も強かった。そんな場合は男同士で、といったといったこととなる。元より、ナミとは道場で毎週2回か3回、拳道の稽古を一緒にしているのだ。流石にいつも彼のような面白みの無い年長者と付き合ってばかりでは飽きるだろう。そう軽く考えて、彼はナミの様子はあまり気に留めず、和国の雨音郡のあちこちの街を興味深く歩いて回った。



 当時彼は、東乃市の行楽で、母親が娘を連れて行った先の話について、東乃市にある魔女コミュニティやイリスウェヴ教の教会で友人たちと交流しているのだ、と聞いていた。

 勿論、それもあっただろう。

 だが、そのときのもう一つの意外な理由を知ったのは、更に1年近くときを経てからのこととなる。




――座標軸・白の刻/6年前、春から夏


 彼が風見家へと頻繁に顔を出すようになった経緯。そこには、神矢家の事情があげられる。

 別に、神矢家に深刻な家庭問題が浮上していた、といったわけではない。

 ただ、神矢家の細君である神矢リサ夫人に、実の両親の介護問題が持ち上がっていた、というのは事実だった。

 

 夫人が、そして神矢家として出した結論は、家族の一時的なセパレート。分離である。


 リサ夫人の両親は、隣の大都市、東乃市の、そのまた東の外れの住宅地に住んでいた。

 当時、リサ夫人が年老いた両親の面倒を見る為に、東乃市の外れと西乃市の中野町では、通いでケアをするのに支障をきたしていた、といったところだったらしい。中途半端に近く、また中途半端に遠い、といった状況がそうさせていたようだった。

 最初の内は老人ホームのような各種のケア施設等も検討をし続けていたようだが、彼女、そして夫君たる神矢老師は、それを選ばなかったようである。

 ただ、彼女が仕事を再開した経緯も、それには加わっているらしい。そう彼は聞いたが、恐らく仕事場が両親の家からの方が通いやすい、介護の融通もつけやすい、といった条件だった、そんな話だったと彼は記憶していた。

 和国の福祉にまつわる事情も老親介護という状況も、彼には想像のつかないことだった。また家族の当事者ではなく部外者でしかないという立場上のこともあった。だから彼は、この辺りの話に関してはかなり大雑把な理解しか持っていない。ともあれ、神矢の人びとからの説明を、彼はそんなかたちで理解した。

 大学生となっている神矢家の上の息子も、とうに家を出て更に遠い和国首都圏で暮らしている。既にそうした暮らしがあるという事実が、神矢家の人びとにとって「分かれて暮らしていても一体感を持って家族を維持できる」と考える根拠となっていたのは確かだ。

 この長男も、母親のリサ夫人や父であるタカフミ老師に、頻繁に向こうの様子を伝えてきては両親を安心させていた。次男坊たる悟朗には、この長男から何やかやと細かい贈りものが比較的頻繁に届いていたことを、彼は何度も目にしている。


 なので、彼もそこまでその件については突っ込んで話を聞いたことがない。


 彼が刑務所を出た2月、その同じ時期にその決断がなされていたらしい。リサ夫人は復職の準備を整え、更に自身の両親の家へ、ほぼ連日のように通っていた。時には次男坊の悟朗を連れて、といったことも多かった。

 彼が来たばかりの2月、3月は、まだリサ夫人も、悟朗少年も、この中野町が生活の拠点だった。

 たが、丁度和国の学年度が変わる4月、その直前に、悟朗少年は東乃市へと完全に拠点を移し、リサ氏も基本はそちらに住まうこととなった。彼が中野町に暮らし始めて一月かそこら、といった間の出来事だった。

 それでも、その後も忙しい合間を縫って、結構な頻度でもって、リサ夫人は西乃市の中野町へとせっせと戻ってきていた。夫の顔が、妻の顔が、それぞれ恋しいのだろう。夫婦の様子を見て、彼はそう思った。


「レイジ君、本当にごめんね」

 よく、リサ夫人は、彼に謝り倒していたものだ。

「ウチの人、うるさいでしょう?」

 鈴のような綺麗な声の持ち主のリサ夫人は、夫の面倒を年若い彼に見て貰っているような状態を心苦しく思っていたらしい。同時に、刑務所から一般的な和国社会に出たばかりで状況にまだ慣れていない彼のことを心配していたようである。

「そんなことありませんよ、リサさん」

 彼は実際にそう返事をしたし、それは事実でもあった。

 確かに、老師は自分の妻が不在がちであることを寂しく感じているようであったが、同時にどこかのびのびと過ごしてもいる様子であった。彼の目には、それは半々、といったところに映っていた。

 それ以前に、老師にはいろいろと仕事があり、世界的な有名人として、また地域の名士としてのあれやこれやで、大層忙しくしていたのだ。寂しさという点ではあまり問題が無い状況であった、と言える程度には。

 生活全般においても、自分のことは自分でやる、という生活習慣が身についているようで、彼とは生活面においてはルームシェアのような、どこかお気楽感の漂う生活を築きつつあった。精神面では、拳道の師匠として、むしろ本物の父親のように親しく尊敬の念を抱いて暮らしていたが、生活の実務面では各自の生活を責任をもって遂行する、といったところで完結していた。それでいて、大きな問題は何も起こらなかった。


 そうして忙しくしている別居家族が、隙をみては、暇をつくっては、家族3人で合流する機会を設けて家族としての交流をマメに図っていたことを、彼は知っている。

 それは、中野町の家でのこともあれば、西乃市の市街地でのこともあれば、東乃市でのどこか、といった場合もあった。


 特に意識したわけではないが、家族水入らずの場に彼がいるのは、流石に場違いだと彼も感じていた。

 同時に、そういったタイミングを見計らったかのように、風見家から、ナミから、またはミツル父さんから、彼はあれこれの「イベント」に誘われることが多かったのだ。

 勿論、たまには神矢家のイベントに、彼も参加したことがある。なにせ神矢家の次男坊、悟朗少年は、裏表のない素直な少年で、彼にも相応には懐いていた、といったこともあったから。

 ただ、ナミと同じ歳のこの少年は、丁度世界を広げる年齢にも当たっていたのだろう。休みの日は引っ越し先の東乃市の友人たちとの交流や、逆に残してきた中野町の昔の友だちとの遊ぶ約束なども多く、そこまで彼と一緒にあれこれと何かをするといったことは無かった。それはやはり、彼と一緒に暮らした期間が一カ月程度と短かったことが大きな要因だったのだろう。そう、彼は理解していた。


 だから彼は、神矢の家では拳道の門下生としての暮らしを充実させていく一方で、家族的な交流は風見の家で行うことが多かった。なんとなく、そんなふうに分けて対応をしていた。そう、彼は思い返す。




――座標軸・白の刻/6年前、夏


 何度目かの行楽だった。

 その日は落語に関連する小さな展示会で、例によって母とヒカリが「東乃市の仲間に会いに」と席を外し、ナミを含む3人であれやこれやと行楽をしていたところだ。しかしナミは飽きてしまったのか、終盤は結構不機嫌で、揚句帰りの電車の中ではぐっすりと眠りこけていた。

 夏休みが始まったのだ、と。ナミはそう言っていた。前の日に珍しく夜更かしをしたうえに、朝から「ラジオ体操」なるイベントに参加をして、とても疲れていたのだ、と。そんな言い訳を最後にしていた。そう彼は思い出す。

 この日は珍しく、風見家は一緒に合流しての帰宅ではなく、2組に分かれての西乃市への帰還となった。


 西へ戻る電車は鈍行で、ゆっくりと進む。どこか、電車の騒音もそう大きくないように彼には感じられていた。

「それで。ミツル父さんは、どういった経緯で落語に興味を持ったのですか?」

 大学時代に落語の自主研究会に参加をしたのだ、と。彼はそう聞いていた。そして、それ以外のことを、彼は聞いていなかった。この日の催しが落語関連ということもあり、彼の頭の中にはそんな疑問が小さく浮かんだ。だから話の始まりは、ちょっとした好奇心だった。そう、ちょっとした。

「いや、それは、うーんと、ええっと……」

 普段そんなに饒舌ではないミツル父さんが、更に言い淀む。こういったところが4兄に似ているな、と。なんとなくそう思いながら、彼はミツル父さんの次のことばをのんびりと待った。電車はゆっくりと動いており、ナミは父親に凭れかかってぐっすり眠り続けている。

「話がね、上手くなりたくて、ね」

「話が、ですか」

 彼のイントネーションに「それは意外だ」といった感情がこもる。

 実際、ミツル父さんはそこまで雄弁な方でも、口が達者な方でもない。それは、他の魔女仲間たちの中での父さんを見ていて、彼もそう感じてはいた。だが、そこまでミツル父さんはそのことを不自由に感じていたのだろうか?

「ああ。だって、ミチさんは話術に長けているだろう? だから……」

 彼女に釣り合う人になりたかったんだ。そう、父さんは続けた。

「母さんと?」

「ああ」

 父さんの耳が少し赤いのは、夕焼けの陽の色が窓の外から彼らを照らしているだけではなかったのだと、彼は思う。

「ミツル父さんは、母さんと、大学で出会ったのですか?」

「大学で、というには若干の違いがあるがね」

 出会いは大学時代。同世代の男女として、魔女仲間の集まりで出会ったのだと、彼は言った。

「ほら。母さんは、ほんわかとした話し方をしてはいるけれども、実際はとても理知的だし、話の筋は通っているし。温かい人あたりで勘違いをしている人も多いけれども、とても論理的な人だろう」

 確かに。それはそうだ、と彼もまた実感を持って同意の頷きを大きく返す。

「でもってあの外見だ。母さん、かなりモテてたから」

 声が、少し掠れる。電車の音が大きくて、彼はよく聞き取れなかった。だが多分、この辺りのニュアンスに関して、彼は聞き取りを間違えていないだろう。

「その……彼女を狙っている男子は、本当に多かったから。魔女仲間の男衆は勿論のこと、魔女ではない、彼女の大学の友人たちやその他のいろいろな男子がいてね。そんな中で彼女に自分のことを気づいて貰う為には、自分の実力をもっと磨かないといけない、と。そう思ったから……」

 話術を磨こうと思ったのだ、と父さんは言う。しかも聞く人の心が楽しくなるような。そんな話のできる人になれば、他のライバルと大きく差をつけて彼女の心を射止めるきかっけが得られるのではないか、と。そう考えたのだと、彼は言う。

「それに、大学は違っていたんだけれども、ウチのオチケンはイベントが多いから、彼女を誘いやすくてね」

「ふむ」

「あ、オチケンっていうのは、その落語研究会の和風の言い方だよ」

「ええ」

 彼は大きく頷く。それは、これまで何度もミツル父さんから言われていた単語だった。

「他の男魔女おとこまじょ連中の持たない話術方面ってことでね、ちょっと逆張りをしたんだ」

 中年男の頬を、夕日が赤く染める。でもそれは、夕日の赤さだけじゃない。彼はそう見て取った。平和な赤だ、と感じながら。

「何より、彼女は笑顔が素敵だったからね。その笑顔をずっと見ていたかった。彼女を笑わせることができる。笑顔にすることができる。そんな話術がこの世の中にあったんだ、って」

 大学の専門よりも勉強を頑張ったかもしれないな。そう、父さんは続けた。

「好きな人の笑顔は、何物にも代えがたいですからね」

 彼はもっとうまいことを言いたかったのだが、そんな、どうにも凡庸なことばしかミツル父さんに返すことができなかった。それでも、その一言が、どうやら父さんには随分と恥ずかしさのポイントを突いたようだった。

「ああ、どうしてこんなこと……酒も入っていないっていうのに、他人様ひとさまこんな話を……」

「まあ、いいじゃないですか、ミツル父さん」

「レイジ、君なあ……」

「そうやって父さんは、母さんを射止めたわけですから。落語、万歳じゃないですか」

 彼は相好を崩していたと思う。父さんは恥ずかしそうにこうべを垂れながら、ことばを止める。

 暫くして、

「実際、落語は面白かったし、自分の興味とも合っていたんだけどね。彼女でなくても、誰でも、大抵の人は喜んでくれる。悲しい気持ちにある人の心を、和ませる力がある」

 彼は、夕日に赤く染められたミツル父さんの、どこか真っ直ぐな瞳を持つ横顔を、ただ静かに眺めて、次のことばを待った。

「でも実際、蓋を開ければ、そんなもんさ。気になる女の子に振り向いてもらいたい、だなんて」

「そんなこと……」

「いいや、レイジ。人間なんて、そんなもんだよ。シンプルなものさ」

「いや。それでも」

 父さんは、母さんを、幸せにしたんですから。2人の笑顔、そしてナミとヒカリの笑い声が、4人家族の温かい夕食の香りが、彼の脳裏に浮かび上がる。その情景が、彼の脳裏からことばへ、するりと伝わった。

 だから。そう、彼は、ミツル父さんに伝えた。


 彼の記憶が間違っていなければ。



 ……覚醒していく。

 懐かしい夢を見ていた、と彼は認識する。

 夢? 夢だったのだろうか。否。あれは、彼自身の過去だった。現実だった。実体験だった。

 その筈だ。だが。

 本当に、そうだろうか。



 気が付くと、「いつもの」臭気が彼の鼻を捉える。寒い。冷えた空気が体を包む。

 夜が明けていた。

 2月25日。その朝を迎えていた。




 ――――座標軸・黒の刻/02月25日、早朝


 あれは、自分が体験したことだ。その筈だ。

 彼はそう、自分に言う。言い聞かせる。

 

 ――本当に?


 身体のどこかから、声がする。

 

 ――本当だとも。


 彼は、言う。



「本当に?」


 どこか。邪な感情の漏れ混じる声が、彼の耳に、響く。

 気のせいだと、彼も理解はしていた。


 だがそれは。

 

 どこかで聞いたことのある声だった。

 彼の、よく知っている人の声だった。




(つづく)


更新大変遅くなりました、漸く12話をお届けです。

次の13話まで一気に早めに行きたいところ、なんですが。

ともあれ次の話は早くのアップをと思っています。


思った以上に今回、ミツル父さんが出張っています。只ノびっくり! といったレベルで。

ロリが少ないよ、ロリが、と泣きながら、おっさん2人の絡みでお届けに上がりました。


但し次は、ちょっとした、というよりもかなり大きな出来事が語られます。

次は、現時点では黒の刻と白の刻、両方を見るかたちになる予定です。


では、早くのアップをめざします。頑張ります。

どうか次もご贔屓に。お読み頂いた皆さんに感謝を。只ノでした。ではまた、次回。

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