第11話/彼があくまでも「クローアー・ロードック」だと見做され続けているということ
今回は「黒の刻」のみの進行です。
弁護士とのやり取りと、彼自身の背景説明といった地味回です。
日にちは02月24日、1日が過ぎていきます。
――座標軸:「黒」の刻/02月24日/昼
「控訴の手続きはします」
透明な板の向こう。男は心底不愉快だという気持ちを声に乗せ、冷たい目線で彼を見る。
「ですがそこまでです。それ以上、あなたとのおつき合いはできません」
目線が更に厳しく、険しく彼を睨みつける。
「あなたは本当にひどい人だ」
目の前で、中年の男が板一枚を隔てて彼を罵倒し続けている。全てが和語だ。
「まさか1年も……1年以上もそうやって騙し続けてきただなんて! 最低ですね、あなたって人は。本当に」
隣で、通訳の男が……和佐田、と言っていたか……が、必死で取りなす。一応は、弁護士の言うことばを英訳しながら、その合間に、弁護士に対して和語でことばを挟みつつ。
すると弁護士は、
「和佐田さん、あなただって騙されていたんですよ、いい加減そんなことしなくたっていいんです!」
「いえ、むしろこの事例はどう考えても精神鑑定の必要性アリでしょう」
「いや、そんなもの必要無い! 彼がどう言ったところで、私たちが騙されていたことに変わりはありませんっ!」
「先生、それは結論を下すには早すぎでは……」
「いや。この間の判決からいきなりおかしかったじゃないですか。やっぱり死刑を免れたいが為の演技だったんですよ、この1年間は!」
「いいえ先生、むしろあの日と今日、それとそれまでのロードック被告の違いっぷりを考えると……」
「そうやって愚弄されているんですよっ、私たちがっ!」
透明な板の向こう側の2人は彼を置き去りにして、今や2人の間での会話、というよりも口論に近いものを繰り広げていた。見張り役らしい刑務官が、心底呆れた、といった表情を浮かべ、生温い目線を隠そうともせず2人の訪問者を眺めている。
対する彼は、静かなものだ。彼を見張っているこちら側の刑務官も同様に。
ただ。
……ああ、対応に失敗したのだな、ワタシは……
そう、それだけを理解した。
彼は静かに、透明な板のこちら側で手錠をしたまま座り続けていた。2人の男のやり取りは、彼を無視してどんどん熱を帯びている。
「いや、先生、ですがこれは不可解ですよ。明らかに精神判定が必要なケー……」
「君も法学部出身だとは言っていたが、そこまでの助言は求めていないんだよ、和佐田さん。彼はずっと黙っていたんだ。その方が同情も引いて、死刑判決を免れる可能性を僅かに、一ミリ程度は向上させられただろうからね。むしろ黙ったまま、こちらが右往左往している様子を眺めて楽しんでいたんだ、きっと」
そう言って、弁護士の目が彼をちらりと見て、睨む。
そんなことは……と、彼は小さく口を挟む。だが、その彼の小さな声は、板の向こう側の2人には通じていなかったようだ。和語だというのに。
そうか。和語だったから、余計に駄目だったのだな。英語でアピールを通していたらまた違った結果になったのかもしれない。
そう、彼は諦めも含めて、大きくため息をつきながら、言い争いに近い様相を見せている板の向こう側の2人を眺め続けるしかなかった。
――座標軸:「黒」の刻/02月24日/午前中~昼
彼も、最初の内はかなり慎重に切り出していたのだ。
なにせ「自分とは違う人体へ、自分の意識だけがそっくりそのまま入り込んだ」などという話である。その確たる証拠、相手に信じさせ得るだけの材料を、彼は一切持っていなかったのだから。加えて言えば、元の当人、この体の真の持ち主の意識が、今、どこでどうなっているのか彼にはさっぱり不明である、といったことも含めて。
面会が1日延びたこともあり、彼はそれまでの残る時間で、弁護士と通訳、特に弁護士にどうやってその事情を知らせるか、あるいは納得してもらうか、散々考えていたのだ。
未来の予測でもするか?
しかし、この世界と彼の暮らしていた世界は別物だから、その予測が外れたらどうする?
それどころか、彼自身が8年前の細かな事例をきちんと思い出せないから、予測できる項目など殆ど無い。従って、その手法は使えない。
ならば……ならば……ならば……等々。
初日の、判決の日の弁護士と通訳の2人の反応、そしてこれまでの刑務官たちの彼へのことばの掛け方から、彼は、この世界の「クローアー・ロードック」がかなり和語に疎いと思われていた、もしくは和語での意思疎通をキャンセルさせられていたことを理解していた。この1年と数か月、刑務所内でも裁判でも、「彼」に対する直接の使用言語は英語一本槍だった、といったところだろう。
だから慎重に、慎重に、と。
そう思いながら、切り出したのだ。
結果的に、そうした「事実」を洗いざらいぶちまける羽目となったことが一番拙かったようだ、と思い直すだけの余裕ができたのは、独房に戻らされて暫く経ってからのことだった。
あの後も、2人は散々にやり取りをし、2人がそれぞれに色目の違う「不審な感情」を乗せた目線を彼に向けながらも、結局話し合いはまるで纏まることも無く去って行った。一人は怒りながら。そしてもう一人は疑問でいっぱいだという背中をみせながら。
「ロードックさん、いいですか。早くに次の弁護士を立ててください。引き継ぎはします。控訴の手続きも。ですが、そこまでです。私はあなたの件からは全て降りますからね。それ以降は一切関わり合いを持ちませんから」
そのときの彼は、恐らく頷くことも出来なかっただろうと、あとになって思い返す。
そしてそのときですら、和佐田通訳は律儀にも、鍵崎弁護士の言い分を全てきっちりと英訳して彼に伝えてきた。
――座標軸:「黒」の刻/02月24日/午後~夕刻
気がつくと、昼食を食べ損なっていた。面会直後に食欲が無いままに放っておいた食事のトレイは、彼の気づかぬ間に下げられていた。
「難儀だな」
水を飲んで落ち着いて、彼はひとりごちる。この段階でも、彼の口を吐いて出てくるのは和語だった。
そうして、先程の大失敗に終わった面会を思い出す。
「中身が入れ替わった? SF? ああ、いいでしょう。けれどもね、ロードックさん。あなた、精神だけが入れ替わったと言っておきながら、きちんと和語が話せるだけの脳細胞はどこからどうやって引っ張ってきたんですかね?」
鍵崎弁護士の疑問に、彼も答えるものを持たなかった。それは、彼自身が薄々感じていた、しかし意識化されていなかった疑問でもあるからだ。
脳細胞云々のことだけではない。
これまでの3日程で、筋肉その他の面で彼はこの身体はまるで別人のボディだと認識が取れている。しかし、ことばの発音に関しては、そこまでの確証を彼は得られていなかった。
元の身体の持ち主であるクローアー・ロードックであれば、和語に基づいて意思疎通をしようと試みようとも発音の仕方そのものがわからない、といったところだろう。
だが今の彼にしてみると、この別人の身体であっても、和語の発音そのものにそこまでの違和感が無いのだ。
逆に言うと、本来違和感を持つべきその部分に、彼の身体は馴染んでいた。それ自体がおかしいのだと鍵崎弁護士からの指摘を受けて、改めてその点が意識に浮上してきたと言ってもいい。
和語と英語、更には彼の母語である少数民族の言語は、それぞれ発音も文法も大きく異なる。本来の彼、27歳と11カ月の風見レイジであれば、その後の努力の甲斐もあり、この3つの言語をそれ相応に扱うことができるようになっていた。
だが、この身体はどうだろう。そこまで和語に馴染みがあったとは到底思えない。母語と、母国政府の公用語たる英語に関しては問題が無かったとしても。
だというのに、和語の発音自体に関して言えば、本来の彼が和語の勉強を始めた頃のような失敗が無い。多少の使い勝手の悪さ、発音のし難さがちょっとだけ、といったところだ。
脳を使うこととなる思考の面でも、和語での思考が可能である。
脳機能がどう処理しているのか。どうして「本来の彼=風見レイジ」と同じ思考方法が可能で、和語による概念の構築も会話も問題が無いのか。なぜそれが可能なのか。
彼がそのことを疑問に思いながら、しかしそこまで明確に意識化しなかったことに理由を求めるならば、彼の信仰によるものが大きいかもしれない。
イリスウェヴ教。
今の、彼の、信仰だ。
そんなに熱心な信者ではない。むしろ、魔女の家族の一員となる、養子縁組をするにあたって、必要に迫られて改宗したに近い。それに元の宗教、彼の生まれ育った地域の信仰も、本来薄かった。
だから今の彼は、元の宗教を捨て、晴れてこの信仰を選び、彼の信を預けている。
イリスウェヴ教とは、とりわけ魔女・魔力持ちを中心に崇拝されている世界宗教の一つである。人口比にして少数派であり歴史的に長く多数派の魔力無しとの軋轢を抱えていた魔女たちが、団結のよりどころとしていたアイテムの一つ、という認識の方がより正確に近いものがあるだろう。
大雑把に言えば、女性性を司る「イリスウェヴ」女性神を頂きに置いた一神教で、実質的にはその地域ごとの地母神信仰を抱き込んだ、かなり大雑把な信仰形態を持つ。
女性神による一神教の構成になっている理由は、魔女独自の文化と歴史によるものだろう。彼もそう認識していたし、世界的にも、宗教学やその他の学術的分析でそう解説されることが殆どである。
信仰へと反映されたとされる魔女文化の特徴とは、いわゆる魔力の強弱、その関係性によるものである。
事実として、魔力の強弱で言えば、男性より女性の方に軍配が上がるのが、魔女・魔力持ちという人類の在りようである。魔力の揮える範囲や時間がより広くより長い、といった面で、地球上のどの地域でも、概ね女性の方がより強力であるとされている。
だから家督やコミュニティの指導者といった面でも、女系を軸とする魔女の家族やコミュニティは多い。和国も、彼の付き合いのあるコミュニティはどこも例外無くそうであった。皆の話ぶりや報道などから判断して、世界的にもそうなのだろうと彼は理解していた。
そうした信者側の事情がむしろ神を女性性を持つ何者かを神へと祭り上げていった、といったことなのかもしれない。それが千年、二千年、あるいはそれよりも前といった長い経験に基づくものであれば、そうした面がイリスウェヴなどという一神教の唯一神に反映されない筈もない。
だから、イリスウェヴ神は同時に女神であり、より親しく「神姉様」と慕われ続け、宗教の骨格を担ってきたのだろう。それが、彼のこの宗教に対する理解だった。
そのイリスウェヴ教の教えで言えば、人の身体は精神の入れ物に過ぎない、ということが、他教と比べても比較的強調される場合が多かった。
精神性に重点を置く、それを重視する。それは、魔力を揮うという行為そのものが、精神性によって左右される事柄だからかもしれない。
実際のところ、魔女の揮う魔力とは物理的な行為の延長そのものが大多数なのだが……彼の知る限り、「時間識り」「時間詠み」の事例を除いたほぼ全ての魔力行使は、物理面への干渉だった……それを為し得る源が精神面ということが大きいからだろう。
一般的な教義としては割とルーズな面も多いイリスウェヴ教だが、心の在りよう、精神が高みへと向かうようにあることを重視しその道を目指すように諭すこと、そういった事柄への拘泥は意外と強い。そう、彼は感じることもあった。
その一環なのか、それとも和国の土着の物語との融合なのか。「とりかえばや物語」に相当する話は、イリスウェヴ教の教義では、幾らでもあった。
多くは、双子の姉妹が立場を入れ替わる、あるいは外見がそっくりで立場が違う2人が入れ替わる。そして世の中をより良い世界へと変えていく、といった話だ。世界的に有名な『王子と乞食』に近いような内容の物語もある。
それらの物語では、全て、入れ替わった相手が、元の相手の持つ能力や記憶といったものを自由に使いこなすことができる、といった展開ばかりだったのだ。身体はそのままで立場だけ入れ替わるもの、中身ごと交換すもの、両方の話を、彼ですら複数ずつ聞いたことがあった。
その手の話は彼の知る限り、全てが最後はハッピーエンド。そして元に戻る場合もあれば、そのままそれぞれ別の役割を担い続けるというものもある。しかしどれもが、入れ替わった双方に精神的な成長や実質的な実りといったものをもたらしており、周囲も社会も平和になる、そんな、やや教条的な話ばかりだった。
教条的なのは、それは宗教における寓話なのだから必要なのだろう、と彼は思っていたのだが。
……自分に今、起こっているこの事例。それについては、彼はこれまでイリスウェヴ教の教義から分析しようなどとは思いつくこともなかった。入れ替わった状況が悪すぎるということもあったが、そのくらい、彼はかたちだけの教徒でしかなかったのだろう。
かたちだけの信徒ということで言えば、ナミもその辺りはどっこいどっこい、いい勝負かもしれないが。
ともあれ。当人が気づいていなかった、しかし一番弱いと思う部分に疑問が突きつけられたからこそ、彼は何も答えることができなかった。
同時に。
彼は、自分の、この借り物の身体がどうしてそのようなことが可能なのかについて、強く知りたいと思った。
――座標軸:「黒」の刻/02月24日/午後~夕刻における午前中の回想、続き
しかし、彼がそうやって落ち着いて自分の疑問を振り返ることができたのは、全てが終わってからのことだった。
最初に。彼は弁護士味方につけるべく、とにかく相手を説得しようとあたった。
特に、先の判決の日の感覚から、彼は和語を控えて英語で話を始める方がいいだろう、と。そうやって作戦を立てて、話し始めたのだ。
語り出しも、他人事としての話からだった、筈だ。
「ひょっとして、もしかしての話ですが……」
SFのような話で、あり得るとは限らないけれども、先生、あるいは通訳の和佐田さんも、そういった事情は知らないでしょうか、と。最初は他人の事例のようにして、その可能性を引き出してみたのだ。27年と11カ月しか生きていない彼が知らないだけで、世界的にはどこかに彼と同じようなケースがあるのではないか。そんな僅かな希望を抱いて。
しかし弁護士も、通訳も、どうにも不味い飲料を飲み込んだ、といった表情で彼を見返してくるだけだった。
「まさかと思いますが」
そう、どこか大仰な様子で前置きを置いて、彼の話を聞き終えた弁護士は先を続けた。
「あなたがそのような事例の一つ、などということを主張するわけではありませんよね」
「それは……」
彼は言い淀む。通訳が英訳を差し挟む前に和語で呟かれた彼の反応を見て、弁護士の視線が妙に棘のあるものへと変化する。
「他人の身体に意識だけが乗り移る? しかも世界が丸々別の世界? 莫迦なことおっしゃい。確かにTVのドラマやSF映画か何かならばそういう設定もあっていいでしょうがね。あなた、大の大人がそのような作りごとめいた話、信用すると思います?」
そして。彼が結局のところ、そのドラマや映画のようなことがこの身に起こっているらしい、ということをたどたどしくも和語で訴えたのが、彼の負け戦の始まりだったのだ、と。そう彼は振り返る。
時折挟まれる和佐田通訳の、彼への通訳を止めての弁護士とのやりとりがだんだんとエスカレートしていき……あとは、弁護士から弁護の解任要求へと話が繋がる迄そう時間はかからなかった。
結果的に、彼らの関係は破局を迎えたのだろう。彼にとっては3日間程度の付き合いでしかなかったが。
次の弁護士を、と大層冷たい声で言われたが、当然だが彼には当てもない。またどうせ和国の当番制の弁護士を当たるしかないのだろう。そう考え直す。
元のクローアー・ロードックであったとしたら、流石に1年以上の付き合いはあったろうから、この決裂は結構痛いことだったろう。
とはいえ、「彼」の場合は、死刑判決を受け入れていたという話だったから、そこまで弁護士や通訳に対しての感情は持っていなかったかもしれない。他人と言っても過言ではない「彼」の感情など、彼には想像もつかなかったが。
しかし。一つ、彼は、「クローアー・ロードック」たる「彼」とは違う決断をした。
つまり。控訴、である。
「彼が……この世界のクローアー・ロードックが行ったことは、確かに、5、6回は死刑になってもおかしくはない。そうワタシも思います、ですが……」
ワタシには時間が必要なのです。そう、彼は拙い、弱々しい声で続ける。
「もしもワタシが元の世界へと戻るチャンスがあるのだとしたら、少しでもその為の時間をつくりたいんです」
「もう、そんな作り話は沢山ですな!」
忌々しい、といよりは憎々しいと言いた気な声色で、弁護士はことばを放つ。
しかし彼は、その、禍々しいものを見るような弁護士の視線を受けて立ちながら、声が掠れながらも、和語で尚も「控訴」の要求を重ね続けた。
どうせ我々の雇用と被雇用、犯罪者とその代理人たる弁護士、という関係は崩れ去ったのだから。最後の最後くらいあがいてもいいだろう、と。
彼は粘り強くそれを要求し……対する弁護士は、最後にその判断を裁判所に伝える旨を述べると、彼へと自身の解任を強く要求した。通訳は、合間あいまに「いやこれは精神鑑定が必須でしょう」などと話を挟んだが、彼も弁護士も、その言い分には殆ど耳を貸さなかった。
独房へ戻る直前。
彼は、彼を独房へと連れ戻していた刑務官がぼそりと呟いたことを思い起こす。
「まー鍵崎センセも、口実が欲しかったんだろうなぁ」
それは明らかにその刑務官の独り言で、彼が聞いているといった意識も無しに呟かれた声色の、小さな声だった。しかし彼は、だからこそ悟った。
元からやる気の無かった弁護士は、何等かの口実でもってこの任を解かれたかったのだろう、と。そういった心持ちの弁護士にしてみれば、彼の言い始めた「SFのような出来事」という妄言は、好都合だったに違いない、と。
身体が、空腹を訴えている。しかし彼は、気持ちの整理もままならず、食事を摂る気にはなれなかった。
そのタイミングで、夕食が届く。
「96号、食事だ」
この刑務官とは、2度目の顔見せだったろうか。珍しいことに、和語で彼へと話しかけていた。
よく見ると、どこか風見の父を彷彿とさせる。そんな立ち姿の刑務官が、英語ではなく和語のみで食事を渡してくる。まあ、似ているとはいえ、背丈が「父さん」と同じくらいであることと、顎の形と髭の濃い顔立ちが似ている、その程度の共通点だが。
「今度は残さず食えよ」
本来は規則違反であろう。そんな、彼へのメッセージまで添えて、刑務官は食事を渡すと去って行った。
そして彼は、思い出す。
この世界には、風見の父さんは、もはや存在しないのだ、と。
父さんだけではない。あのとびきり可愛らしい女性であった母さんも、ナミの愛した小さな妹も、彼とも風見とも仲の良かった魔女コミュニティの大勢の人びとの全てが。いないのだ、と。
涙ぐみながら、それでも彼は食事を始めた。
――座標軸:「黒」の刻/02月24日/夜
食事を下げに来たのも、先の刑務官だった。恐らく今晩の当番なのだろう。
朝の新聞の購入の際の担当は別の人間で、昼間、昼食のときのことははっきりと思い出せなかったが、それも多分違う人間だった気がすると、彼は思い起こす。
それに流石に3日もこの場に拘束されていれば、ここの人員交替のルールなど直ぐに把握できる。もとより、この辺りの勤務時間の配分は、彼の居た世界の刑務所とも違いは無いようだった。特に何も無ければ明日の朝はまた別の刑務官の担当の時間となる筈だ。
「96号、間もなく就寝だ」
眠る前の用意をせよ、という声掛けが、同じ刑務官からなされる。それまでぼんやりと新聞を確認しながら「この世界から逃れる術」「元の世界へと戻る術」を考えては涙ぐんでいた彼は、ハッとして顔を上げる。
声質はまるで違うが、やはり立ち居振る舞いが似ている。彼は改めてそう思った。立ち居振る舞い、というよりもむしろ背丈やら体格やら、そういった辺りの類似かもしれないが。
そうして、彼は風見家の父に少しだけ似た刑務官に就寝を促され、床に着くこととする。
床の中で、懐かしい父のことを思い出しながら。
(つづく)
今までで推敲が一番少ないので、粗いことは承知、ですが「先に進める」「何とか完結まで少しでも近づける」ことを優先してのアップとなりました。
後ほど、何か変更があれば、お知らせします。
特に、入れるタイミングを考えあぐねていた「イリスウェヴ教」の話。
逆にもう少し前でも良かったか、早すぎたか……と、なかなかにさじ加減が難しいところです。
展開如何では、遡っての訂正 (したくはないですが)も、と覚悟をして、今の話での投入となりました。
今回の引きは、「風見の父さん」ということで、次回はこの「父さん」に関する過去(白の刻)の話となります。
更新は、そこまで滞らない……と思います。
どうしても、年内に辿り着いておきたい地点があるので、そこまでいけたら、ということで。頑張ります。
お読み頂き、ありがとうございます。
ではまた、次回。(只ノ)