第10話/彼が生まれて初めて「時間識(ときし)りの魔女」と邂逅したときのこと
過去回想が続いています。
そして最後は、また。
――座標軸:6年前/03月のその日
「行ってきたまえ」
「ですが師匠……」
「これまで君は道場以外の人との交流を持たなかっただろう? そろそろいい頃合いじゃないかな」
いたずらっ子のような茶目っ気のある表情を瞳に浮かべ、温かい笑顔で、師匠は彼にそう強くすすめてきた。
そこで彼は考えてみる。
彼が出所してからというもの、この道場の周辺を出歩く程度で、大したことは何もしていなかった。確かに師匠の言う通りである。とはいえ、それはまだ半月足らずのことだが。
「それに。彼女がいたからこそ、君は自分の道を見つけられたのだろう?」
そう言って、師匠は小さな弟子の肩を励ますように後ろから支える。その彼女は大きな笑顔を浮かべ、更に小さな女の子を抱きしめるかのように抱えていた。
「むしろ風見の家にご挨拶に行く、とでも考えたらいい」
なるほど。そういう考え方もできるものか。師を見つめ続けながら、彼は少しばかり考えを巡らせる。
しかし、どうだろう。
「次の稽古の時間、人手は大丈夫なのですか」
「それはなんとかなるよ」
微笑みを浮かべそう言い切ると、彼の師匠は「さあ」と彼を早くも追い出しにかかった。その声に合わせるかのように、彼よりも拳道の技量の高い門下生が道場に入ってきた。その技量であれば師匠の指導の補佐もできる、という程の腕前の持ち主だ。彼は安心と共に小さく頷く。
その表情を見て取った師匠は、
「道着ではなんだから、汗を拭いて、少しきちんとした服を着て行くといい」
そう彼に言うと、今度は手元の小さな愛弟子とその妹に、
「母屋まで彼に付き添って、そのまま家へと戻りなさい」
そう告げた。
姉妹ははきはきと礼儀正しく師匠に今日の礼を告げると、「失礼します」の声と共に道場を後にした。彼も道場の入り口で丁寧に目礼をし、その場を離れた。
外はまだ明るいものの、夕方の気配が大分近づいてきていた。
「ナミ、ヒカリ。ええっと……」
「レイジ兄ちゃん。兄ちゃんはこの神矢のおやしきに住んでるの?」
「ああ、ついこの間から、ここにお世話になっている」
「これからもずっと?」
「ああ、たぶん」
そう、彼とナミが話をしていると。
「ううん。お兄ちゃんは、新しいおうちをみつけるわ」
そう、小さな妹の方が声を出す。
それは細いながらも、どこか確信に満ちた、力のある声だった。
「ヒカリちゃん……『見えた』の?」
そう、姉が妹へと問いかける。それは質問というよりも、まるで「いつものこと」を確認するかのような、そんな声だった。
「うん」
妹は、更も確信をもった響きで、姉へと声を返す。
「……兄ちゃん、よその人なのに?」
「うん」
「それに、レイジ兄ちゃんは魔力無しの人だよ」
「でも」
見えたんだもの。そう、小さく、妹は姉に告げた。
彼は意味がまるで解らない。暫くそうして姉妹の不思議なやり取りを聞いているが、彼は何もことばが出せなかった。すると、彼が何かを不思議と思っていることに、姉の少女が気づいてくれた。
「あのね、兄ちゃん。ヒカリちゃんは『時間識り』なの」
そう、利発そうな目の色で彼を見上げ、当たり前のことのように告げた。
「『トキシリ』?」
彼の疑問の籠った一言に、暫く3人の間の声が止む。妙なその静寂が気になり、彼は改めて声にして問いかけた。その、初めて聞いた単語のことを。
「『トキシリ』って何だい?」
ナミに、そしてヒカリに、彼は瞳を向ける。
「うん。ヒカリちゃんの魔力」
彼は、それだけではまるで解らない。
元より、和語は彼にとっては外国語だ。この3年と数か月、すっかりこの和語だけで生活をしているが、それでも彼にはまだまだ語彙が足り年ない。
彼の理解では、魔女・魔力持ちの実施する魔力行使とは、せいぜい魔力無しの人間の出来ることの延長でしかない。そう、聞いている。
たとえば、かつて5歳だったナミが見せてくれた「傘の呪文」などがいい例だ。雨を避ける、弾く。あるいは、転びそうになれば体をブロックする。更には、身体の力を一時的に向上させる魔力を行使する。視力、筋力その他諸々を。あるいは逆に軽量化を図るといったベクトルでのさじ加減もできるという。いずれも物理的なものだ。
そうはいっても、魔力の可能な範囲はほんの些細なことで、時間や距離も非常に短い。SF小説等で描かれている「超能力者」の能力よりもはるかに貧弱で、滑稽な程微弱だ。
だが、今の単語は一体どういった意味があるのだろう。
妹の方は何も言わない。その先を、「トキシリ」ではない方、姉の小さな魔女が引き取って、説明を始めた。
「時間がね、かってに見えちゃうんだって」
予知、予見に近いことなのだろうか。彼は漸くそこに思い至り、姉妹に根掘り葉掘り、問いかける。
そうして判ってきたことは、やはり彼の読み通り、「時間識り」とは漠然とした予知・予見に近いものらしい、ということだった。
「魔力持ちの揮える魔力には、そうした……未来の時間を見通せるような能力はごく当たり前のものなのかね?」
「ううん、ほとんどないよ。ヒカリちゃんみたいな人は、すっごく少ないんだって」
「少ない、というと……10人に一人くらい?」
「ううん。もっといないよ」
「そういえばこの中野町の魔女コミュニティは確か、大体……」
「うん、100人よりちょっとだけ少ないくらい。でも、ヒカリちゃんしか時間識りはいないよ、中野町には」
どこか誇らしげに、「トキシリ」の姉は告げる。
「そんなに少ないのかい?」
「うん。そうみたい」
わたしにはできないもの。そう、あっけらかんと、非当事者たるナミは続けた。
「魔力的には、とっても珍しい、ってことでいいのかな、ナミ、ヒカリ」
「うん」
当事者でない姉のナミははっきりとした声で。当事者である妹のヒカリは頷きだけで、その返事を返す。
「中野町だけじゃなくって、この西乃市の魔女コミュニティを合わせても、ほかの時間識りはいないって。お母さまも、大婆さまも言っていたわ」
東乃市にも、いないんじゃないかしら。尚もそう付け加えて、時間識りの魔女の姉は、どこか無邪気な声で彼へと伝えてきた。
そんなに少ないものなのか。彼は小さく驚きながら、姉と妹の顔を交互に見ながら質問を続けた。
「ナミもだし、君たちのご両親もその……『トキシリ』の魔力は使えないのかね」
「うん。持ってないよ」
返事を返すのは、又もナミだ。
「もう亡くなられたわたしたちのおばあさまもおじいちゃんも、時間識りの力は持ってなかったって。お母さまも父さんも、だからびっくりしていたもの、ヒカリちゃんの魔力のことは」
そう言って、姉の小さな魔女は、小さな妹を優しく見遣った。
「風見の家から『時間識り』が出たのは、たぶん初めてなんじゃないか、って。お母さまが」
言っていたわ。そう、ナミは続けた。
当の「トキシリ」の当事者たるヒカリは、そこまで口を挟まずに、どこか掴みにくい表情を浮かべて、時折確認するかのように彼を見上げるだけだ。
話は尚も、ナミが続けてくれた。
魔女、魔力持ちの中でも希少であるというその能力。しかしまだ年が若すぎるからなのか、ヒカリのその魔力の発動はかなりブレがあるのだという。
魔女、魔力持ちの中で「時間に対して働きかけの出来る魔力」は大きく2つのタイプがあるという。
その一つがヒカリの持つ「時間識り」で、無意識に、身近な人の未来を予見するらしい。らしい、とついたのは、話し手であるナミが当事者ではないからだ。当事者のヒカリは、その辺りの説明を、一切合切姉へと任せていた。7歳という幼さもあり、語彙も少ないからだろう。そう彼は納得して姉の説明に頷きを返し続けた。
ヒカリの場合で言えば、その「時間識り」の魔力の発動の多くが両親と姉のナミ、3人に関するものだけで、自身に関する予見も無いらしい。近所に住む仲の良い母方の叔父叔母、いつも一緒に遊ぶ年上の従姉妹にも、一切発動しないという。
自身の未来が見えないということは多くの占い師でもよくあることだから、彼女たちもそう不思議とは思っていないようだ。彼もまた、そういうものなのだろう、と受け止める。
むしろ、小さな姉妹2人は、血縁者でも何でもない「彼」の未来を見たといった事実の方に首を傾げ続けていた。仲良しの従姉妹や叔父叔母の未来のことは一切見たことが無いにもかかわらず。その点で2人の姉妹は、「どうしてだろうね」「ふしぎだね」「でも見えたんだものしかたがないね」「そうだね」と、不思議と思いながらもどこかほのぼのと会話を続けている。
ヒカリに限らず、「時間識り」の行い得る魔力行使は、望んだ未来を選択して見に行けるものではないのだという。母の明日、来週の父、2年後の姉、といった時制も、相手も、選べない。気がつくとただ向こうから勝手に情報が飛び込んで来る、といったものが殆どだという。多くは、夢見の時に訪れるのだと言うのだが。
ナミが母から聞いた話では、他の「時間識り」もそういったものらしい。
「ヒカリちゃんにはないんだけど、『過去識り』もできる『時間識り』の魔女もいるんだって」
なるほど。人間の認識のできる時間とは、過去から未来の流れだ。ならば、そうした魔力行使が可能な魔女もいることだろう。この世の中の、どこかには。とはいえそれもまた随分と数奇な能力であり、そこまで行くと彼の想像の範疇を越えてくる。
そこで彼は、未来のみ、自分を除く家族3人に限って予見のできる魔女としての、風見ヒカリの能力を思い浮かべる。相手も選べず、限定された相手のみ。時制も選べず、しかも勝手に情報が向こうから飛び込んで来る。全てが受け身で、能力というにはあまりにも不便で、自律し難い。そしてその内容はまるでSF小説や映画のようだ。少しばかり不思議な思いを抱いて、彼はそんな連想をする。
そうやって当のヒカリを見てみるが、今、彼女の頭は地面へと向けられたままだ。彼の視線はその表情を捉えることが叶わなかった……姉に繋がれた右手が、少し縋るように見えたのは、彼の気のせいだろうか。
一方、利発な姉はきはきと、尚もその説明を続けてくれた。
「あと、よのなかにはもっとめずらしい『時間詠みの魔女』もいるらしいわ」
わたしは、知らないんだけど。お母さまもよ、とナミは続けた。
「トキシリ、と、トキヨミ、か……」
要は、能動的に未来の情報を取る能力がある魔女は「時間詠み」ということで、魔女文化の中では厳密に区別されているのだという。能動的ということもあり、消費する魔力量も大変で、相当な魔力量の持ち主である魔力持ちでないと無理だとのことだ。希少性というのは、そういった素質の面で更に要求されるものが多いからなのだろう。
この時点では、ナミの話、そして時折助け船のように話を挟むヒカリのことばを総合して、彼はそのような理解で飲み込む。
しかしというか、やはり多くの場合、「時間識り」がせいぜい、らしい。
「ほんっとごくごくたっまぁーに、生まれついての『時間詠み』の魔女もいるらしいけれども。いたとしたら、ものすごい魔力のもちぬしよね、きっと。でもお母さまも、スズノハの姐さまも、これまで知り合ったことはないんだって。あれだけいろいろとお友だちのいーっぱいいるスズノハの姐さまでも、よ」
そこで彼は、スズノハという懐かしい名前を耳にする。
スズノハは、彼が刑務所にいた間に面会に来たことのある、数少ない人間の一人である。この中野町から大分北にある、同じ西乃市の「北の魔女コミュニティ」の女性指導者だ。見た目は若いが年齢不詳。綺麗だが棘が良く見える。アクの強い女魔女だと、彼は思い起こす。
神矢の師匠が偶に彼女を連れて面会に来るときは、魔女の人権拡大の為に関する実務的な話がある場合が殆どだった。
獄中にいる彼の参加が不可欠となるキャンペーンでは、彼のできることは専ら獄中からのアピールとなる。その文案の大元を、このスズノハと師匠、彼の3人で拵えたことが何度もある。面会時間の全てがそれらの戦略会議となったことも多々だ。
そのスズノハが、風見の家と仲が良いということは聞いていた。彼が気にかけていた風見家やナミ個人に関する話も、獄中の短い面会時間で、彼女を相手に話をしたこともあった。
個人的には「魔力無し」があまり好きではない、といった態度を隠すことも無く、彼に対してもそう遇していた姉魔女は、しかし風見家の母や娘たちの話に関しては、彼に対しても結構饒舌だった。その話しぶりから、この魔女もまた風見家の人たちが大好きな様子が垣間見られて、彼はどこか心が温まる気持ちがしたものだ。特に風見家の若い母親のことを、まるで自身の妹のように愛おし気に話をするその瞳や声の色は、温かく優しかった。そしてその小さな子どもたちは、まるで彼女の息子たちと兄弟姉妹であるかのような扱いであった。だから、魔力無しとして、否、むしろ魔女狩人であった存在として彼自身が彼女からかなり嫌われていることは知っていても、風見に関心を寄せるという点では彼女との相性は決して悪くは無かった筈だ。そう、彼はスズノハのことを捉えていた。
なので、彼はそこまで不思議に思うことはなく、ナミの声からは「懐かしい名前だ」と思い起こしただけだった。そういえば暫く会っていない。最後に会ったのは、冬の始まりの頃、4カ月程前の面会、実質は打ち合わせとなったときだった。あれから半年弱だが、どうしているだろうか……と。そんなことが彼の頭を過る。とはいえ、あの勝気な魔女のことだ。元気どころかアグレッシブに活動をしていることだろうが。そう思い、彼の頬は自然と綻んだ。
「あ。レイジ兄ちゃんもスズノハのお姐さまのことはごぞんじなの?」
「ああ。何度かね、お話をしたことがあるよ」
「ステキでしょ」
「ああ」
特に思うことも無く、彼は少女の言い分を微笑みと共に肯定する。少女の言う素敵な姉魔女との面会場所が刑務所の中であったことは、今は言わなくてもいいだろう。そう思いながら。
「それでね。スズノハのお姐さまが言っていらしたのは、『時間詠み』の人はね、自分でそれを知りたいという人を選んだり、その人の時間まで選んで、未来を知ることができるんだって」
あるいは、過去も、かもしれない。そう、彼はナミの説明を心の内で補足する。ナミはその点については何も触れていなかったが。
「でも、『時間識り』に、そんなことできないよ」
どこか。掠れた声で、小さな妹が姉の説明にことばを添えた。
「でもね。ヒカリちゃんがとてもめずらしい『時間識り』であるだけでも大したことだって。お母さまも言ってたでしょ」
姉は、彼にというよりもむしろ妹に、そう強く言い切る。励ますように。それを誇れ、というように。
そうしたナミの口調で初めて、彼は、妹のヒカリがその能力自体を疎ましく思っている可能性を連想する。しかし、ヒカリの表情からも身振りからも、その本心は彼には判らない。なにせ、「トキヨミ」も「トキシリ」も、彼が今聞いたばかりの概念であり能力なのだ。想像をするにも材料が少なすぎる。
魔女の中でも希少な「トキシリ」。それを誇れ、と姉が妹を優しく見つめ、強く、その繋いだ手をブンブンと振った。
微笑ましい。仲の良い小さな姉妹の様子を見て、彼は自然と頬が緩む。
「しかし、勝手に家族の未来が見えてしまうのか……」
と、彼。
「うん、でもいまは、とくにだれもこまってないし……」
と、ヒカリ。
「そう、むしろ、助かっちゃってるかもね、わたしたち」
改めてにっこりと、姉は小さな妹へと満面の笑顔を向けた。
神矢の屋敷の母屋の前で、延々とそうした話をしていたことに気がついたのはナミだった。
そうしてはきはきとした姉の少女が、彼に、着替えてくるように告げる。9歳とは思えないしっかりとした采配だ。そう思いながら、彼は素直に小さな姉妹の姉の忠告に従って、着替えをしに母屋へと引込んだ。「すぐにここに来るから」と、2人に告げながら。
――座標軸:6年前/03月のその日、つづき
住宅街はぼんやりと、夕暮れの色に染まり始めていた。
生活道路には、車が通る気配がまるで無かった。
姉の少女は当たり前のようにして、彼の右手を取った。その彼女の右手には、小さな妹の手が繋がれている。道の左に3人が並ぶが、一番車寄りの位置になるのがヒカリだった。車が来たら危ないと彼は思ったが、右の端を歩く一番小さな少女は大丈夫だと小さく声を張った。
「だって、3人でぶじにおうちにつけるもの」
そう、少女は穏やかに言う。
不思議なその断言は、やはり彼女の言う「時間識り」の魔力のなせる技であり、物言いなのだろうか。彼には、よくわからなかった。
南に門を開く神矢の道場を出ていた。左、東へ。既に100メートル程、彼らは歩いていた。
やはり、神矢家の道場と家の敷地は広い。この辺りでもとりわけ広い家のようだ。延々と続く塀に、彼はそう連想する。
そうして道なりに東へ向かい、最初に出会った細い十字路を今度は左へと曲がる。北へ。進路が変わった。
道は、ゆったりとした坂道になった。
3人で手を繋いだまま、北へと向かうゆるやかな坂道をゆっくりと上り始める。
「ほら」
ナミが声を掛けてくる。どうやら、彼へ向けての声だったようだ。
どこか。見覚えがあった。
そう、どこか。
覚えのある風景が、目の前の道を伸びていた。
「兄ちゃん、おぼえてない? この坂道。いっしょに歩いたよね」
「……ああ」
ああ、そうか。彼は、右手に繋がる彼女からのことばで漸く思い出す。
この道は。かつて、3年半前の10月の末の日に2人で歩いた道、その一つだったか。そう、彼は感慨深く頭を振り、目を見開いて周囲を見渡した。
だが、少女にはそのような感傷はまるで無い。事実を指摘したまでだと言いたげな利発そうな瞳の色で、
「うちは、そこよ」
そう、一度だけ彼の手を放して、前方へと指をさす。そしてすぐにまた彼の手を取ると、ゆっくりとした足取りのまま3人揃って坂道を上り続けた。
左側にあたる西面には、未だに神矢の屋敷を示す長い壁が続いていた。間には、何本か電柱が立っている。彼女の指が示していたのは、その先にある小ぢんまりとした一軒家だった。再び彼は、神矢家の敷地の大きさを意識する。
「ところでナミ、ヒカリ」
「なあに、兄ちゃん」
「いきなりワタシが訪問しても、大丈夫なのかね?」
「それは……」
言い淀んだのは、ナミ。しかし。
「うん、だいじょうぶだよ、お兄ちゃん」
そう、その次を繋いだのは、妹のヒカリだった。
「今日のごはんは、みんなでわけられるものだから」
小さく澄んだ声で、より小さな少女が彼へと返事を返す。
「ヒカリちゃん、メニュー、何?」
すかさず、姉がたたみかけていた。
「わからない」
そう、あっさりと、妹は姉へと返事を返す。
だが、妹の少女は確信しているかのように、細いながらもしっかりとした声で、その答えを返していた。
これもまた、「時間識り」なる能力の為せる、何かなのだろうか。
長い壁が途切れた所に、先程から見えていた落ち着いた造りの家があった。
神矢家の隣というからには、ここがナミたち風見姉妹の家なのだろう。夕景の中でも明るい印象の残る薄青色の屋根。その一部には太陽光発電のパネルのようなものが敷かれている。それと、大きな窓が印象的だ。壁は木質なのだろうが、明るい色をしている。2階には広いベランダと思しき位置も確認できる。日当たりのよさそうなそこに、植木か何か、植物の緑も見え隠れする。結構な量で、その緑色が目に優しい。穏やかで、温かい。門の外からの眺めはそんな印象だ。
小さいものの意外としっかりとしたデザインの門をくぐり、玄関までの長い道を歩く。敷地内もまた緑が綺麗に整えられていた。奥には菜園のような造りも見える。定期的に庭師を入れているという神矢家程ではないにしろ、相応に広い庭だ。和国の一般家庭の標準をあまり知らない彼ではあったが、そこそこ良い暮らしぶりなのだろうということくらいは彼にも伝わってきた。
建物に近づくと、家の造りは洋風と和風が混在する小奇麗な折衷デザインの家だった。殆ど完全に和風の建築様式を取っている神矢の屋敷とは、大分趣が違う。クラシカルで重々しい神矢家とは対照的に、明るく若々しい印象だ。その家の扉が、開いた。
どうやら、2人の姉妹の内どちらかが、魔力で何かを施したらしい。あるいは、家の人間が帰ってくると勝手に開くような、何か魔力的な仕掛けがあるのかもしれない。
そう、彼が考えていると。
「ただいま」
「ただいま」
姉妹は2人して、嬉しそうに大きく、はっきりと声を上げた。
そして。
「おかえりなさい」
「おかえり」
中からもまた、大きな、温かい声が返ってきた。
女性と男性、2人分。2人の声が、2人の子どもを迎え、そしてその子どもが連れてきた異邦人を招き入れた。
「お邪魔します」
家につくと、夕方の早い時間ながらも風見の両親は既に在宅していた。
「はじめまして」
ネクタイをした姿だから勤め人だろうか。そう彼が見当をつけた風見家の父親が、「ようこそ」と大きな笑顔を浮かべながら、握手の手を差し出してきた。深い青緑色の瞳が温かい目線で彼を捉える。彼はその手を強く握り返し、やはり笑顔を返す。
男魔女らしく長髪を残してはいるが、その長髪は目立たないよう、落ち着いた髪型に整えている。表情は穏やかで、体格は多少ガッチリとしていて細くもなく太くもない。武道をしているという姿勢ではないが健康そうな様子で、彼は自然と微笑みが漏れた。背丈だけはこの国の平均的な男性と同じくらいなのだろう、彼から見るとやや見下ろすかたちとなる。
「ようこそ。よくいらっしゃいました」
そして隣に立つ若くて可愛らしい印象の女性が、彼の細君でありこの姉妹の母親だ。綺麗ではあるが印象としてはどちらかというと若々しさ、そして可愛いらしさが勝る。声も甘やかで、若々しい。子持ちとは思えない、独身と言っても通用しそうな外見で、まだまだモテそうだ。その彼女は、細身の体に水色のシンプルなエプロンをつけて、やはりニコニコと人懐こい微笑みを浮かべている。
彼女とは握手は無く、和国らしくお辞儀で挨拶を通す。エプロンの下の地味な服装から、在宅仕事か、あるいは主婦業なのかもしれないと、よく判らないまま彼はなんとなくの想像をつける。
そうあれこれ想像を巡らせていた彼の目が、風見家の母の顔を改めて目に留める。母親の瞳は、ナミと同じように綺麗な青色をしていた。
「神矢さんからお電話がありましたから」
そうして、神矢家の若い両親は屈託無く彼を歓迎してくれた。
先に、神矢師から連絡があったということだろう。そう言えば道場での送り出しも、神矢師はスムーズに送り出してくれた。きっと以前からタイミングを見計らっていて、彼に、かつての「運命の少女」の家への挨拶の機会をつくろうとでも思っていたのかもしれない。そう彼は勝手に解釈をすることにした。師匠はいつもいつも、実にこうした気配りが上手なものだ、と感謝の念を覚えながら。
歳若い夫婦に笑顔で招き入れられ、2人の少女に「こっちだよ」と手を引かれ、彼はあれよあれよというままに、食卓へと導かれていった。
5人で食卓を挟む。ヒカリもわからなかったこの日のメニューは、食卓の上で温かく、とても良い匂いをもって、彼ら5人を出迎える。そこに明るく彩りよく並ぶのは、ホワイトシチューと洋風の炊き込みご飯、たっぷりの温野菜のサラダだった。
――座標軸:「黒」の刻/02月23日/昼
気がつくと、彼は寒々とした独房の中に突っ立っていた。
殆ど冷めたシチューと堅そうなパンが、机に乗っていた。サラダなどは無い。
彼は声も出せぬまま、ずっとそこに、その場に立っていた。
食事を始めるには、机に合わせて正座をするか胡坐をかくか、ともかく座高を合わせるしかない。しかし、食事のトレーを低い和式のローテーブルに置いたまま、彼はその後体を動かすことができなかった。
どうも、長いこと考えに耽り過ぎたのが良くなかったようだ。
シチューは、元から冷めかけていたものだったのか、それとも彼がずっとそうやって突っ立っていたから冷めていったものなのか、彼には見当がつかなかった。
胸の中から、何かがこみ上げてくる。
その何かが、胸というよりも喉を詰まらせる。彼は何も口にできそうにない。
だが。
強烈に、思い出に味覚と嗅覚を喚起され、その匂いの一つが目の前の冷めかけの食事と重なる。彼は、胸の中からこみ上げるものを無理やり飲み込むようにして漸く座り込む。なんとか箸を取り、手を合わせ、それから黙ってその食事を口に運び始めた。
味は、全く何も感じられなかった。ゴムを食べる方がマシだと思えるレベルだった。
朝の時点のことだ。
本来、この日は一昨日の裁判の後から初となる、弁護士との打ち合わせの予定が入っていた。
だが。朝食を終え、彼が弁護士とどう話をするか、あれこれと頭の中で戦略を練り始めてから割とすぐのこと。この日の担当の看守から、今日は弁護士がどうしても予定を開けられず、面会は明日に持ち越されたのだと告げられた。
この日の看守も、彼が和語を解らないと思ってのことだろう。最後に、彼には聞かれていないという声色で、「やる気ないよなあー、あのセンセイは」と小さく漏らして去って行った。
確かに。死刑囚との面接、それも控訴を視野に入れての話になるというのに、その面会日を先延ばしにするというのは、彼の感覚では理解できない話であった。
相手を説得し何らかの突破口を見出したいと思っていた彼は、落胆した。そのような弁護士が自分の代理人で大丈夫なのだろうか。そうした不安も過る。
だが、彼がこの世界に放り込まれてから、まだ日は2日程。大した情報も無いのだ。決断を下すには、もっともっと情報が必要だった。
だから彼は、この日も朝刊を手に入れ、情報を集め、方策を練り続けた。
そうして午前中は新聞を隅から隅まで目を通しながら……彼は自分が今、何処にいるのか、本当の自分が誰なのか、少しばかり自我に不安を覚え、恐怖に駆られそうになっていた。
自分がこのような調子で、あの弁護士を、こちらの味方につけることができるのだろうか。何より、彼が「クローアー・ロードック」とは別人であることを、理解させることができるのだろうか。
味のわからない食物を無理やり嚥下しながら、彼は途方に暮れていた。
(つづく)
はい、出てきました。「時間識り」の魔女です。
そしてもう一つ。「時間詠み」の魔女も、概念として登場しました。
そうして幸せな過去から一転、今(というよりも別世界線の過去、と言うべきか)の厳しい獄中へと戻っています。
弁護士のセンセ、それでいいのかよ、といったところで、次回への引きです。
年内にはあともう2話か3話くらい、話を進めておきたいんですが。どこまでいけるでしょうか。
不安はありますが、頑張ります。
お読み頂き、ありがとうございます。
ではまた、次回。(只ノ)