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第01話/8年前の過去に立ち、昔の名前を宛がわれる

(微調整を入れました;

・タイトルの後半変更

・本文の一部誤字訂正)


――座標軸:「黒」の現在


 クローアー・ロードック。


 死刑。




――座標軸:「黒」の現在/2


 被告席の彼に、隣の英語通訳が英話で彼にそう伝えてくる。

 しかし、彼にもそのくらいの和語ならば理解できていた。


 目の前に立つ3人の裁判官、その中央は女性だった。女性の少ない和国の法曹界では珍しい。20分程前の初見でそうした感想を浮かべたことを思い出せない程、彼は混乱していた。彼にそのことばの意味がはっきりと理解できたが故に。

 通訳は、固まったまま動かない彼に、もう一度同じことを英語で告げてくる。彼にその内容が通じていなかったと思ったのだろう。

「求刑通り、死刑です。そう、あなたは言い渡されました」

 最初とは違い、どこか事務的な二度目のことばを言う通訳のことを、彼は無視する。

 それよりも。

 なぜ。

 何故なにゆえに。


 自分はここに立っているのだろう。




――座標軸:「黒」の朝(約半日前)


 クローアー・ロードック。

 懐かしいとすら思わない。それどころか、唾棄すべきものだ、と。その程度にしか感じない、彼のかつての名称だ。


 昔のパスポートに記載されていた名前。今のパスポートには載る筈の無い名前。


 血を分けた親から与えられた、クローアーの呼称。その親たち、親族が名乗っていた、ロードックの姓。捨て去ることができて、清々した筈の、その名前。今はその名を捨てて久しい。

 そう、久しい筈だったのだ。今朝、目を覚ます迄は。


 今朝、彼が呼ばれたのはナンバーだった。番号で、呼ばれた。呼んだのは、彼の記憶に無い男の声だった。そして、名称を確認された。彼が今の自我として持っている筈の「風見レイジ」ではなく、「クローアー・ロードック」として。


 彼がその名前を捨てたのは、二十歳になる直前の春のことだった。

 もう8年近く前のことだ。


 更に言えば、「あれから」9年。それだけの時間が過ぎている。彼の和国暮らしの年月と、ほぼ同一だ。そう、彼の自意識が、時間認識が訴える。記憶も、きちんとある。

 尤もその9年間の和国在住の内、3年以上が牢獄の中で罪を償いながらではあったのだが。

 しかしその後の6年近くは市井の市民として、比較的平々凡々と暮らしてきた筈なのだ。

 そう。本来の自分は、27歳と11カ月。あと1月程で28歳になる。今更、そんな8年前に決別した名で呼ばれるとは。知らない男の声による呼称を認識した途端、彼の中にそれまで想像したこともなかった大きな不快感が生じる。

 だが。その不快感など些末な問題だと、彼はすぐに思い知らされることになるのだが。




――座標軸:「黒」の朝/2


 そういえば。今日の夢見はえらく悪かったのだ、と彼は思い返す。


 からだの全てが悉く、ドロドロに溶け、冷えて固まり、また熱く煮えたぎり、鍋の中でかき回された後に出鱈目に再構成された。ドロドロに溶けたものだから、手も足も、頭も、内臓も、本来のその位置には無い。ただ体裁だけを辛うじて整えただけで、中身はまるでバラバラ。本来の位置とは程遠い。そんなことがこの身に起きた。そうした夢だ。

 その他に何かが起きたわけではない。ただ、身体的に、そうやって弄りまわされている。寒くて、熱くて、痛くて、辛い。そんな夢だった。

 「嫌な夢を見た」。

 彼自身、目覚めの直前にそれを夢だと自覚する程だったのだ。どこか、その身体感覚は「他人事」のようだった。


 夢見が強烈だった為だろう。目覚めたとき、自分の衣類がいつもの肌触りの良いパジャマではなく囚人用の服だったことに、彼はまるで気がつかなかった。ただ、目覚めた瞬間の、煎餅布団の冷たさにはびっくりしたが。

 そう。驚いたと言えば、暖房の入っていない部屋の寒さの厳しさもそうだった。それと、否定しきれない臭気。恐らくは、排泄にまつわる界隈の。


 そうやって目を覚ました彼は、ここ数年ずっと暮らしてきた、冬でも温かくて快適な風見家の、1階の自分の部屋のつもりで起き上がったのだ。

 しかし。気がつけば、そこは昔収監されていた監獄の中とよく似ていた。否、それよりも状況は悪かった、と言ってもいい。

 前は大部屋で仲間もいた。比較的犯罪程度の軽い外国人ばかりの獄だったから。しかし、ここでの彼は。


 死刑を求刑された、大量殺人犯、だった。


 少なくとも、看守は、そう口にした。




――座標軸:「黒」の朝/3


 看守が驚いていたのは、彼がいきなり和語を標準的にしゃべり出したかららしい、ということに彼が気づいたのは、大分経ってからのことだった。


 彼は、話のまるで噛み合わない看守に、自分が「風見レイジ」であること、既に「クローアー・ロードック」の名を廃して久しいこと、そしてこれは何かの間違いであること、殺人などは犯しておらずそれは冤罪に等しいこと等々、それらを和語で滔々と看守に訴えた。

 「ワタシの罪はもう、数年前に償いが済んでいる」、と。

 パスポートの偽造による密入国、そして武器の不法な持ち込みとその携帯、等。それは3年間の刑期を済ませ、罪を償った。それを6年前に自分は終えているのだ、と。彼は和語で、きちんと、とはいえ焦りながら看守に延々と訴え続けた。


 しかし看守は頑なに、英語通訳を連れてくる、それまでは待て、と英語と和語がちゃんぽんの訳の分からないことばで彼を制し、慌てて引き返していった。


 看守が戻るまでの間、再び一人になった彼は、何度も自問した。そして何度も確かめた。これは夢の中の出来事で、今改めて目を覚ませば、元通りの風見家の自分の部屋に戻る筈なのだ、と。毎朝の風景、父さんの鼻歌、母さんの作る味噌汁と玉子焼きの香り、そして起こしに来る歳の離れた妹の、凛とした、しかしどこか生意気な声色。その、平素の、平凡で平和な世界に戻れるのだ、と。

 頬を叩き、殴り、頭を振り、布団をひっくり返してみた。何度も、何度も。

 しかし、何度試しても、ままならない。


 彼がそうしている内に、3人の同僚と思しき看守を連れて、最初の看守が戻って来た。彼は改めて自分の立場を訴えた。即ち、「自分がなぜ、どうして、ここにいるのか」と。昨晩まで寝ていた筈の、「風見の家ではないのか」と。

 「風見」の名前が出た時に、看守のうち2人程が大層怪訝な顔をしたのを彼は目に留める。うち一人は怪訝、などというものではない。まるで彼という存在そのものが大きな罪、それ自体であるような、冷たい瞳で彼を見遣ったのだ。もしも視線に声があったら、それはそう言っていただろう……地獄に落ちやがれ、と。

 それでも彼は看守たちに、身に覚えの無いこの間違いを是正して貰おうと、何度も自分の「本来の立場」を訴えた。訴え、続けた。


 恐らく、彼の「気が触れた」というのが、看守たちの合意だったのだろう。


 同時に、看守たちのやりとりする和語、その殆どを彼が理解しているとは、看守の誰もが思いもよらなかったらしい。彼が、それまで和語を流暢に話していたにもかかわらず。

 4人の看守は、目の前に立つ彼の存在を一切認識することの無い目線と声色で、早口の和語で意見交換を始めていた。

「そりゃ今日が判決の日ですから。ひょっとして」

「やはり神経がイカレちまったんでしょ」

「あんだけの事件を引き起こしておきながら」

「いやでも、他人には残虐非道な仕打ちをできたとしても、自分が同じような目に遭うのは誰だって嫌だろうよ」

「でも、昨日までの反省の素振りが一切無くなってしまったのは、なんなんだ」

「模範囚も、やはり目の前に『死刑』がチラつけばここまで気が狂うのも早いのかね」

「これまでに無い例ですか、先輩」

「いや、結構何人もいるよ。っていうか、気が触れちまった振りをして刑をやり過ごそうとして失敗した奴が殆どだけどね」

「でも96号は今迄そんな素振り、全然無かったじゃないですか」

「確かに、大量殺人犯としては信じがたい程の反省を示していたもんだし、償いの意志を見せていたのに、なんでいきなりこんなことを言い始めたんだか……」

「余計、裁判での心証が悪くなるだけってのに」

「だよな」

 彼の目が驚きで見開かれていることを、目の前の看守たちは誰も気がついていなかったようだ。

「でも、急にこう気が狂ったってのも、拙いよなぁ」

「今日の判決の先延ばし狙いですかね」

「まったく、事務所に通訳が詰めてない日に限ってこういう……」

「弁護士は?」

「通訳含めて裁判所控室で合流」

「鍵崎さんだっけ?」

「ああ。あの人、やる気ないでしょ、この案件」

「まー面会回数からして手ぇ抜いてるよねぇ」

「国選だからね。この事件だったら仕方ないんじゃないの。勝ち目は一個も無いって。難しすぎるもん。弁護士から見たら分が悪すぎ」

「そりゃあねぇ。負け戦な上に、金にはならん、名前も売れん、得るものゼロの案件だもんな」

 彼は、口を噤む。看守たちは、やはり、彼が看守たちの話す和語の殆どを理解していることに、気づいていない。

 だから彼はそれに便乗し、黙って、4人の看守から情報を取れるだけ取ることにする。

 驚きが過ぎて声が出なかった、ということもあった。だがそれ以上に、彼はこの状況を正しく把握したかった。ここでは何が正しいと思われていて、彼が何に間違われているのかを。

「結局は大量殺人犯なんだし。まあ、確かに不憫な境遇だったとは言われてるけど。でも、だからって狂った真似なんか急にされても……」

「他の連中と比べたら情状酌量の余地があるからって、そこに付け込んで芝居を打ったんじゃ……」

「じゃあ昨晩までの反省の態度は一体どこに消えちまったんだよ、コイツから」

「いやそれ、むしろ俺が知りたいって……」

「所詮は人殺しだ。やっぱり自分のことが一番大事なんだろうよ、コイツも」

「大量殺人犯の癖にか」

「だからじゃねーの?」


 何度もことばが出てきている「大量殺人犯」の語句。やはり彼が間違われているのは、その立場らしい。

 だが、先程看守が一人のときに散々言い募った「冤罪」について、4人の看守は誰も気に留めていないようだ。

「ともあれ、朝の食事、いつものルーティーンを徹底させよう」

「了解」

「了解」

「他の囚人たちに影響があると困るぜ、まったく……」

 そうして、彼が黙ったのをいいことに、4人の看守はそれぞれの持ち場に戻ったらしい。一人、最初に彼を起こした看守が、彼にきつめに「静かにしろ、騒ぐな、面倒を起こすな」とたどたどしい英語で彼に言い放つと、「すぐ朝食を持ってくる」と型どおりの英語会話で彼に告げる。

「歯磨きは仕方ないとして、洗顔も食事の後かね?」

 思わず、彼は和語で平素の如く会話を返す。すると立ち去ろうとしていた看守が体を止め、ぎょっとした顔で彼を振り返った。そうして暫くことばに詰った後、今度は和語で、

「96号、顔は先に洗え」

 そう言い渡し、鍵を開けて彼の独房へと入室してきた。

 既にというか最初の時点で扉の外に用意してあったらしい洗顔用の一式の道具を持ち込むと、看守はそれを彼に渡しながら、顔を洗うよう身振りで提示する。


 大部屋のときのように、洗面所へ向かって一斉に行動をするわけではなさそうだ。そう、彼は過去の経験との違いを理解する。

 同時に彼は、生まれて初めて体験する独房での孤立したやりとりに、どうするべきなのかが分からずに、部屋の中央に突っ立っていた。看守は困った、と言わんばかりの身振りと表情で、再度、顔を洗うように彼に促す。

 独房の水場はあるので、看守が持ち込んだ洗面器とタオルで洗顔ができることは彼にもすぐに理解ができた。しかし、鏡が無い。

 彼はいつもの朝のように、手で頬をさすり、髭の伸び具合を確認する。普段は、家の洗面台の鏡を前にしてやることだ。

 彼はそこまで毛深い体質ではない。今日も、やり過ごしてしまえと思えばやり過ごせなくはない範囲の伸び具合だ。

 それでもこういうときは、顔はきちんと剃った方がいい。そう彼は判断する。特にこの、わけのわからないシチュエーションが続く状態にあっては。次にいかなることが起きるとも限らないし、そのときにこうした髭を剃れるような機会が得られるとも限らない。少なくとも、身ぎれいにできる余裕があり、身だしなみを整えられる機会があるのであれば、それに便乗した方がいい。

 そう、彼は半ば諦めるようにして、看守の差し出す洗面器を受け取った。


 そういえば。

 「父さん」は髭が濃い。濃くて、太いのだ。だから朝は必ず顔をきちんと剃りきって、洗顔も歯磨きも何もかもキッチリと済ませてから、彼に朝の挨拶を告げてくれる。その頬に、ナミが……妹が、頬ずりをして、「よーし、今日は及第点よ、父さん」と合格点を与えるところまでが、朝の、我が家の習わしなのだ。そんな2人を見ながら、「母さん」がナミの頭に手を置いて、「はいはい」と優しくナミの長くて綺麗な髪を撫でるのだ。気持ちよさそうに目を細めてナミが母を見上げて、そしてワタシはそんな3人の笑顔を見ながら……


 彼の思考が、「いつもの朝」の自分の習慣へと持っていかれる。だが、気がつけば、彼の目の前にはコンクリートの剥き出しの流し場があり、冷たい水の入った洗面器が置かれ、硬くて小さい質の悪い石鹸と、粗悪品のカミソリと、氷のような目をした看守がいる。


 いつもとはまるで違う朝。


 しかし。

 過去に密入国と武器の密輸と携帯で逮捕された際には、こういった扱いに近いことはあったのだ。その事実を苦い思いで彼は意識する。

 まるで、10代の最後へと8年か9年分、時間が巻き戻ったかのようだ。


「タオルだ」

 看守が、忘れていた、とばかりに慌てて彼にタオルを差し出す。部屋にタオルまで置けないとは、どういった収監の基準なのだろう。彼は訝しく思いながら、看守を見遣る。

 そこで彼は思い出す。

「鏡が無いと」

 そう、はっきりした和語で、看守に要求をする。

 うむ、と看守は頷くが、どうやらタオル同様、彼に差し出すのを忘れていただけのようだった。

 彼が看守をよく見ると、その目には、僅かな不安とそれ以上に恐怖の色が見え隠れしている。

 彼はそれを怪しいとばかりに盗み見ながら、とにかく、看守が差し出してくれた鏡を手に取った。飾りも何もない、無骨で実用一辺倒の、大ぶりな四角い鏡を。

 そして。


 鏡の中に現れた彼の顔は。


 少しどころか数年分、しっかりと若返っていた。


 恐らくは、10代終盤頃の、顔へと。




――座標軸:「黒」の朝/4


 彼は叫び出さないよう自制した。とにかく、自制だけはした。どうやらそれは、成功した、ようだ。

 だが、驚きは隠せない。ことばにしない分、彼は動揺し、とてもではないが鏡を持ち続けることができなかった。思わず、鏡を取り落とす。

 しかしすぐに、彼は手に鏡をもう一度取った。看守がその行為を邪魔する時間を持てない程に、素早く。


「なんだ、これは」

 

 叫ぶ代わりに、彼は低い声の和語で呟いた。少数民族に属する自身の母語でも、出生国の公用語たる英語でも無い。この9年間、慣れ親しんだ、彼の第二の、しかし真の故郷の公用語で。

 驚いて固まるだけの彼に、看守は、身構えはするものの介入はしてこなかった。暫くの後に、

「96号、お前、和語がそこまで解るのか」

 そう、尋ねただけだった。

 そうして胡乱な目で彼を見つめる看守に、しかし彼は気を割くことができない。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も鏡を見返して、見直して、穴が空くまで見て、洗顔も髭剃りも歯磨きもせず、飽きもせずずっと鏡を見て、それからその鏡の中の自分の目から水が流れていることを意識して、漸く周囲に目を向けた。

「96号、和語が、解るのか」

 看守が再び彼に問い掛ける。しかし彼の耳にはそんな音は何の意味もなさなかった。

 彼は涙を堪えることができなかった。

 

 どうしたことが自分に起きたのか。彼には、わからなかった。


 時間が巻き戻ったのか。

 あるいは、別の空間にでも飛ばされたのか。

 それとも……これまで経験してきたと思った和国での時間が、実は彼の夢または願望で、これまでの9年近くのことが全部存在しないのか。


 わからない、ワカラナイ、wakaranai……


 彼は混乱する己に、涙を流すことしかできなかった。

 看守は、まあ涙を拭けと言わんばかりに、タオルを黙って彼の顔へと押し付けてきた。意外と、優しい仕草で。




――座標軸:「白」の夜


 昨夜、眠る前のことは、彼はよく覚えていた。


 その「結論」は、彼女にはきちんと伝えた。その前の数日間、考えに考え抜いて、更に考えを巡らせた、その後で。

 そうして伝えた結果を、「けれどもそれが本当に良いことなのか」「それがナミの為になるのか」「風見の両親に恩を仇で返すことにならないか」「風見家の魔女仲間、魔女コミュニティのアレコレの面子が、その件に関して口を挟んでこないか」等々。彼はやはり昨夜はよく寝つけなくて、延々と考えを繰り広げていたのだ。

 けれどもそれは平和で、安全で、幸せの範疇ではあったのだ。


 昨夜。2月20日。妹のナミは、15歳になった。


 その数日前。2月14日。

 世のチョコレート会社の陰謀によって仕組まれた「バレンタインデー」なるお祭りに煽られるかのように。


 ナミが、彼に、求婚をした。




――座標軸:「白」の刻/02月14日


 求婚である。

 求愛、ではない。

 いや、正確には求愛込みの求婚である。

 たかだか14歳、とはいえあと数日で15歳の「半成人」になる、風見ナミ、彼の義理の妹が、である。


 そう。

 風見ナミは、「魔女、魔力持ち」である。

 この地球に住む人類の、少数派に属する。

 風見の家の、父も母も、同じく魔力持ち。


 そして。彼は、只の魔力無しだ。


 全てが全て、異例のことである。



 魔女、魔力無しは、人類の中では少数派に属する。

 まず人類の大前提として、魔女、魔力持ち同士で結婚、正確には生殖をしない限り、子どもは魔女としては生まれない。

 つまりは、風見ナミが魔女であるということは、その父と母も、それぞれのその父母も、祖先も、皆が皆魔女である、ということにほかならない。

 どちらかが魔力無しであるならば、子どもにその能力が遺伝することは無い。その子どもは、魔力無しとしての一生を送ることになる。

 人類の中で魔女が少数であること、更に数を減らし続けているという理由は、そこだ。

 だから魔女、魔力持ちの一族は、次の血縁に関して大いに気を配る。つまりは、出生が少なくなってきている魔女、魔力持ちの血筋を絶やさない為にも、次なる結婚相手はやはり同じく魔力持ちから選ばなければならない、そして魔力持ちの子どもを無事に産まねばならない、という無言のプレッシャーに常に晒されるものなのだ。男も、女も。

 魔力無しと違い、15歳で半成人として扱われ、その歳になれば同族同士の婚姻も可能だとされる文化も、もとはそうした同族を絶やさない為に生まれてきた。

 そんなプレッシャーを跳ね除けて、14歳と11カ月と3週間という風見ナミは、13歳も年上の、魔力無しの彼へと、求婚をやってのけたのだ。

 世の、バレンタインデーなるイベントを活用しながら。



「兄ちゃん、はい」

 最初に渡されたものは、ここ毎年の恒例となった、年間行事そのままの、そっくり同じことの繰り返しだった。

 今年のブツは、白銀色に輝くラッピングペーパーをピンクの薔薇の飾りと紅のリボンで綺麗に結び留めたものだ。それを、彼女は両手で差し出していた。

 今年のラッピングはまた随分と綺麗に拵えたものだ。要領だけはいいが本質的にはあまり器用ではない、それどころか、この手のことに関しては大雑把な彼女にしては、大した頑張りである。そう思いながら、彼は受け取った。

「ああ、昨日の夜に作っていた奴か。ありがとう」

 台所に籠り、我が家の男性陣を追い出して彼女が母と2人で何かを作っていたこと、それが香ばしいチョコレートの香りを漂わせていたことを、彼は思い出す。母子2人のその様子は大層微笑ましく、温かい。そう思いながら、彼は自然と頬を緩め、手中の義妹からのプレゼントを温かい目で見つめた。

 恐らく母は父の為に、やはり同じようにチョコレートを拵えたわけだろう。この二人は、とても仲の良い夫婦なのだから。そしてその両親の娘たるこの妹だって、大好きな父に、そして義理の兄である彼に、家族の親愛の情として、チョコレートの小さな欠片をくれるのだろう。そんな風に思いながら。

「うん、それと」


 兄ちゃん、少し、しゃがんで。


 そう、彼女は毎年とは違うことばを付け加えてきた。

 彼は改めて毎年のように丁寧に礼を言おうとしていたが、彼女がそう言ったからには何かそういう事情があるのだろうと理解する。そして言われるままに膝を小さく折って、彼女の背丈に並ぶくらいの高さにまで肩を落とした。

 因みに彼の身長は180センチ台の後半と、この国の平均的和国人男性の身長と比べると大分高い。父さんよりも、10センチ以上は身長が高い程だ。

 一方の女子中学生、和国の少女である妹のナミは、平均的な和国少女の14、5歳の平均と似たような、大体160センチ未満といったところだった……彼は詳しくは知らないが。本人の申告によれば。

 そうして体の大きな彼が、30センチに近い落差を埋めて、彼女の顔の近くまで己の顔を近づける。どうせ風見の母が彼によくするように、あるいは彼がナミによくするように、大方髪でも撫でて、「よしよし」するのだろう。そう思って。

 そう気を張ることも無く普段通りの視線をナミへと向ける。

 一方、どうしたことか、彼女は一瞬強い目線で彼を見遣るが、次の瞬間、きつく目を閉じ、そして。


 彼の頬に、唇を、寄せた。




――座標軸:「黒」の朝/5


 何も間違っていなければ、今日は2月21日の筈だ。

 彼はあと一月そこらで28歳になる。丁度一週間前に彼に求婚をした彼の義妹は、15歳になった翌日ということになる。


 そう、「何も間違っていなければ」。


 そして。何かが間違っているのかどうか、その確認をしなければいけないというのに、彼は流れる涙を止める術を持たなかった。和国内の、どことも判らぬ監獄の、独房の中で。

 昨晩までの幸せな日常、父の温かい声、母の素敵な料理、義妹の柔らかい掌……それらが、一切、全て、失われてしまった、この場所で。


 彼は、途方に暮れていた。



 散々泣いた後、看守は彼のタオルを引き上げた。彼の涙が漸く止まったからだ。


 今。彼は一人、監獄の中に取り残されている。


 徐々に、彼の中に嫌な想像が持ち上がる。

 それまで看守たちが、彼は和語が解らないと考えていた理由。それを、彼は想定してみたのだ。

 恐らく、約8年分あるいは、9年。彼は「時間を間違えて」存在している。

 もしもこれが、夢で、現実……ワタシはもうすぐ28歳になるオッサンなのだ……ならば。彼は何年か、恐らく10年足らずといったところ、時を遡って存在している、ということになる。

 そうとしか、言いようがない。

 先程繰り返しくりかえし、何度も見返した鏡の中の顔を思い起こし、彼はかぶりを振って、途方に暮れる。


 だが。

 もしもそうした摩訶不思議な事態が起きているのだとしても、自分の知る過去とその中身、様相がまるで違う。

 なぜ、独房などにいるのか。

 なぜ、看守から「大量殺人犯」などと軽蔑の目線を向けられているのか。

 なぜ、当時彼を担当してくれた弁護人の名前も違うのか。

 とりわけ彼は、その罪名に驚いていた。身に覚えのない罪名に、彼は慄くしかない。


 そして本当に、彼はそんな、「時間を越えて」、過去の牢獄へと囚われにやってきてしまったのだろうか。



 彼は、かつて刑務所に収監されていた当時の自身の立場を、改めて思い起こした。



 彼が初めて、というよりも、人生で初、そして最後の監獄暮らしをしたのは、この和国でのことだ。

 和国の囚人として暮らした9年前、18歳の頃には、彼はたどたどしい、カタコトの和語が喋れるかどうか、といったところだった。勿論、読み書きなどはできもしなかった。

 もしも今この状況がそれと同じであるとするならば。彼は確かに、看守からは「和語のよく解らない褐色の肌の外国人の犯罪者」扱いだろう。最低限の挨拶と、旅行会話のようなたどたどしいカタコトの和語が使える程度の。


 しかし、彼は既にその当時の罪を償っている。3年間、彼は和国で収監され、刑期を勤め上げて、その後は神矢家と風見家の支援を受け、雨音地方の西乃市で和国市民としての暮らしを6年近く続けてきているのだ。


 そうして矛盾点を一つひとつ洗い出して、彼は頭の中でそれらを筋道立てて考えようとする。

 そのさなか、足音が響いてきたことに彼の意識が向いた。同時に看守が、彼のドアの前で何かを言っている。どうやら、食器を下げに来たらしい。

 彼はそれまで、食事がドアの中に差し込まれていることも気づいていなかった。空腹などは感じなかった。それ以前に、彼は混乱の極みにあった。

 看守は、鉄製のドアの下についている小さな窓口から食器のトレイを返すよう、やはり和語と英語がちゃんぽんの不思議な、単語の羅列で、彼に訴えかけてきていた。ドアを開ける気は無いらしい。あるいは、それは独房ならではの規則なのかもしれない。独房初体験の彼には、判らないことではあったが。

 彼は力無く、手を付けることの無かった食事のトレイをそのままドアの下の窓口へと差し込み、外の廊下側へと押し出した。

 押し出しながら、彼は看守に声を掛けてみる。

「すまない、ワタシがここにいるのは、やはり何かの間違いでは……」

 何を言っているのだ、96号。そう、看守は感情を抑えた抑揚の無い声で返事をするが、鉄格子越しのその目線は、まるで怪しいものを見るかの如く、といったところで彼を見返してくる。

「先程チラリと言っていたが、今日はワタシの裁判があるのかね?」

 彼は尚も、丁寧に和語を使って、看守に語り掛ける。

 看守からは、昨日確認した通りだ、今日の昼間、裁判所への移動を行うからそれまで静かにしておけと、やはり英語と和語が混在する言い回しで指示が出る。しかしその目には、段々と恐れの色が滲み始めていた。先程よりも、更に強く。

 彼はその目線を不思議に思いながらも、ワタシの昨日までの認識とは大きな祖語があるのだが、と散々訴えた最初の状況を尚も言い募ろうとした。だがそこで、彼はことばをぴたりと止める。

 やはりというか、どうやら看守は彼が急に和語が達者になったことを訝しみ、恐怖を覚えているらしい。

 鉄格子の先にある目の色からそう読んで、彼は言い方を変えてみることにした。

 とはいえ、今更母語や、英語に切り替えるのも逆に怪しまれるだろう。そう思い、彼は和語で……この9年間ですっかり馴染み、語り、読み書きすることができるようになった、この和国の公用語で……看守に、今日の新聞を要求してみることにする。読めなくてもいい、和語の印刷物で構わない、だから今日の新聞を、どうか法廷に向かうまでの僅かな時間、少しでもいい、目にさせてほしい、と。

 本来ならばそれなりの面倒くさい手順が必要とされるその要求を、看守は珍しくも短時間でクリアーしたらしい。「かつて」の収容時には考えられなかった速さで、彼に和語の新聞が差し入れられた。


 そうして、黒塗りの部分が幾つもある、『検閲済み』という印のある……この漢字も、彼は今なら読み、意味を掴むことができる……新聞で、日付を確認する。


 

 間違い無い。年代が、8年。丸々8年分、遡っている。



 しかし、日付は変わらない。

 今日、この日は、2月21日。ナミの、義妹の、誕生日の次の日だ。



 だがしかし、この年月表示、この日付が正しいのだとすれば、彼は、本当に19歳と11カ月、ということになる。鏡に映った彼の容貌との整合性だけは合致する。

 そして、彼女……彼の義妹の年齢は、7歳ということになる。

 「あのとき」から、つまりは彼と彼女が出会ってから1年と3カ月しか経っていない、ということだ。


 しかし彼は、その後の8年間を生きてきた。凡そとはいえ、その間の8年間が、すっぽりと抜け落ちてしまったのだ。あるいは、本当に彼が、何かしらの記憶違いをしていたのだろうか。それとも、今ここにあるこの状況がやはり本当の現実で、彼が記憶していることは妄想の範疇で、本当に気が触れてしまったのだろうか。

 だが。


 彼は、忘れない。彼の頬に触れた、彼女の唇の柔らかさを。




――座標軸:「黒」の朝/02月21日/8年前?


 ともあれ。そんなことが、実際に起こり得るのだろうか。

 丸々8年分、過去に時間が遡る。

 しかも事実関係が肝心なところで異なっている。


 彼は、頭を振る。解らない。解る筈も無い。


 そういえば「昨年」の秋口。ナミが、受験勉強に邪魔だからと、読みかけのSF小説を渡してくれたことがあった。ジュール・ヴェルヌ程ではないが、和国でもかなり有名どころの和国人作家の時間旅行ものだという触れ込みだった。平行世界。タイムリープ。タイムスリップ、エトセトラ。本の帯の紹介にはそんな単語が躍っている。彼女らしくないチョイスのその本は、どうやら中学のクラスメートたちからの影響らしい。

 時代劇や剣劇は好きでもSFをはじめ和国の現代文学にあまり興味の無かった彼は、結局、その本は冒頭の1章辺りを読んだだけとなった。貸してくれたナミ自身も、そのくらいしか読んでいなかった筈だ。和国の現代文学に興味が無いというその一点では、2人は似た者兄妹でもあった。彼はその本をそのまま部屋に置きっぱなし、ナミから借りっぱなしの状態にしていた。実際、どのような話だったのかも、彼もよくは思い出せない。

 まさか、その内容にでもカブレたか。頭を振る。だが、彼には解らない。


 考えても、考えても、答えなど出る筈が無い。何よりここには余分な「物」が無く、情報を取ることができない。外に出ることもままならない鍵のかかった牢屋の中なのだから。こうして新聞の差し入れがなされたというだけでも、とてつもない僥倖だろう。


 彼は、脱出の可能性は最初から諦めていた。現状を把握したいという欲求は強くあるが、脱獄及び自由の獲得は、また別のことだ。

 そもそも、和国の監獄からの脱獄は至極難しい。それはとても有名な、世界的によく知られた事実でもある。彼にとっては9年前からの3年間、6年前に終了している過去の体験を振り返っても、とてもではないがその成功の可能性は薄いと思えた。

 大体、今彼が収監されている刑務所が和国内のどこにあるのかも、彼は判らない状態なのだ。首都圏なのか、それとも彼の住まう雨音地方なのか。更に別の、彼には馴染みも土地勘も無い地方刑務所の可能性もある。逃げ出したところで、ではその次にどこへと向かえばいいのかもわからない。地形や地名が彼の認識とは違う可能性もあるし、正しい地図を入手するのも無銭の彼には難しいことだろう。

 それに、8年もの時代を遡っているということがこの世界のことわりであるならば、彼の頼れる人物は片手の指、1、2本分しかいない。その人物が、この看守たちと同じ認識でいるならば、その知人が彼の為にどこまで助力してくれるか判らない。

 それにやはり、それ以前に、和国刑務所から脱獄できるような機会が得られるとは思えない。基本的に、そうしたシステマティックな仕事に関しては、和国警察は優秀なのだ。

 過去、彼が属した犯罪組織の中でも、和国警察の無能さと、それに反する和国刑務所の脱獄成功率の低さもしくはほぼそれがゼロに等しいこと、言い換えれば脱獄の失敗率の高さ、その可能性の無さは、散々言われていたことなのだ。

 和国警察は、火力が弱い。犯罪者に手を上げる確率も低い。だが、脱獄はまず難しい、と。


 そう、今では仲間とすら思うことの無い連中の物言いを少しばかり思い出しながら、彼は現状をどう把握すべきか頭を抱えていた。


 軽く、空腹を覚えた。

 ふと、半刻程前に下げてしまった食事のことを思い出す。食べずに返したその選択を、失敗したか、といった思いが、彼の脳裏に過る。

 けれども。同時に、その時、風見の家の温かい朝食の食卓の様子が目に浮かび……それはまるで目の前に直に存在しているかのように、はっきりと……父、母、娘の家族3人の笑顔、ほかほかのご飯、あつあつの味噌汁、薫り高い醤油味の煮物、ふんわりと柔らかい玉子焼き、そんな美味しそうな香りのする和食の数々と、柔らかな香りを漂わせる緑茶、そうしてそれらを給仕してくれる、あるいは彼へと手を差し伸べてくれる、風見の家の家族たちの柔らかい手を、声を、まなざしを……彼は思い浮かべて、また涙が流れ始めるのを止めることができなかった。

 

 


――座標軸:「白」の刻


 彼が風見家に養子として正式に迎え入れられたのは、約3年の刑期を務め終え、更に生まれ育った母国を捨て和国残留を決意して神矢家に厄介になってから暫く経ってからの頃だった。


 神矢家とは、元々は彼の裁判の支援をしてくれた、その矢面に立ち支えてくれた支援者でもある。和国の伝統武道の高名な伝承者で雨音地方の名士でもある神矢タカフミ老師と、その一家のことだ。

 この神矢家自体は、彼と同じく魔力無しの一族だ。つまりは、魔力持ちの血筋とは関係の無い、多数派に属する一般市民だ。

 にもかかわらず、神矢老師は魔女の人権の確立に奔走していた。いわゆる広義の人権派の人間であり、地域に政治的な影響力を持つ人物でもあった。


 彼は、確かに、罪を犯した。


 だがそれ以上に、彼の自首行為が、罪を止めるその抑止力ともなっていたのだ。そう、神矢老師は、彼との面会に何度も何度も丁寧に足を運びながら、和国世論の変革とその進捗を報告してくれた。そして彼もまた、その神矢師、そしてその背景にいる多くの魔女、魔力持ちの仲間の為に、何度も何度も裁判の証言台に立ったのだ。

 

 この世界から「魔女殺し」を撲滅させる為に。



 この世界には、2つの人類がいる。

 一つは、先程から何度も名前が挙がっている、「魔女、魔力持ち」という、少数派の変わった人種だ。生命力を糧に、ちょっとした魔力を揮うことのできる、そういう、ある種選ばれた人種でもある。

 世界的に見れば、人口比に占める割合はほんの僅か。3%にも満たない、せいぜい1から2%といったところ、とも言われている。地域によっては正確な統計が無いので類推からとなるが、そう大きく間違ってもいない数字だと言われている。

 生命力を魔力に転用する為なのか、寿命は短い、等とも言われている。当事者ではない彼には、その真偽はわからないことだったが。

 だから、多数派たる「魔力無し」……彼や、神矢老師などがこちら側の人間だ……から、当然の如く、「狩り」の対象とされていた。そういう時代があった。


 しかしそれは、もう徐々に過去のものとなる。いや、過去のものとしなければ、ならない。この、和国で。


 そう言われていた21世紀の初頭、彼が18歳の頃に、この和国で「事件」が起きた。



(1話ここまで)


(先日はアップするのもやっとで、まえがき、あとがきがありませんでした。

02話のアップで前書き、後書きを復帰したので、今後は事務連絡的なものは

こちら後書きにまとめたいと思います)


お目通し頂き、ありがとうございました。続きもぜひ、お読み頂けますことを。

(只ノ)

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