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恋愛もの

バカな彼女と

作者: 腹黒ツバメ



〈バカな彼女と〉



 春うららな午後の日差しを背中に受け、俺は103号室の扉を開けた。

 敬愛せし隣人の部屋に鍵はかかっていなかった。相変わらず部屋の中で翻訳の仕事に精を出している証拠だ。

 安物のサンダルを脱いで玄関に上がり、俺は狭い廊下に声を響かせる。

「ハッピーエイプリルフール!」

 すると、奥の扉から女性が顔を出した。きょとんと首を傾げ、困惑の表情で出迎えてくれる。俺の不法侵入にはお咎めなしで、彼女はどこかずれた問いかけをしてきた。

「え? もう今日って四月一日だっけ?」

「ああ、あらゆる嘘が許される――つまり俺の日だ」

「しんちゃん、普段からあたしのこと騙しまくってるくせに……」

 低い声で俺の名前を呼びながら非難の視線を突き刺す彼女、本名が桃子なので俺はもっさんという愛称で呼んでいる。

 頭のネジが二・三本抜けているため、適当な嘘を真に受けて大慌てする様子が滑稽で面白い、天性のユーモアセンスに満ち溢れた女性だ。同じアパートの隣同士で暮らしていることもあって、今さら他人行儀な態度はない。

 今日も今日とて、彼女に嘘八百を並べて楽しもうと、わざわざ隣室から訪ねてきた次第なのだが――

「いつももっさんを騙してばかりで悪いからな、お詫びに菓子折りを持ってきたんだ」

「えっ! 本当⁉」

 おもむろに俺が取り出した小箱を見て、瞳を輝かせるもっさん。

 感激にバンザイをした拍子に、二の腕がぷるぷると震える。食い意地が張っているだけあって、彼女は少し肉づきがいい。

「ほれ」

 普段の彼女からは想像もつかない俊敏さで駆け寄ってくるもっさんに、俺は小箱を手渡した。

「わぁい! ありがとう!」

 成人女性とは思えない無邪気な笑顔が花咲く。俺も自然と口角が上がる。

 そして彼女は、豊満な身体を弾ませながらその場で包装を破り、蓋を開け、


 飛び出たばね人形が、もっさんの鼻面に激突した。


「あいたっ!」

 瞬間、必死に堪えていた笑いが爆発する。

「ぶっ……ぶわははははは! もっさん最高だよ! 話の流れでわかるだろ普通! 直撃はしないだろ普通! いや騙し甲斐あるわー」

 つい指差して爆笑してしまう。あんな見事にぶつかるとは、さすがに俺も予想していなかった。コントかよ。

 もっさんはしばし呆然とばね人形(むかつく顔してる)を眺めていたが、不意に我に返ると、目に見えて落胆して項垂れた。

「……酷い」

 菓子折りと聞いてよほど期待していたのか、心底から悲嘆に暮れている。ちょっと罪悪感。

 俺は指先で頬を掻き、あらためて肩に提げたバッグを右手で漁った。

「まあ、そう落ち込むな。差し入れは本当さ。友達から旅行土産でクッキーの詰め合わせをもらったから、お裾分けに」

「本当⁉」

 再びもっさんの表情が華やぐ。

「嘘だよ」

 俺はバッグをひっくり返した。埃ひとつ落ちてこない。空っぽだ。


 ――必殺・二度突き落とす。


 もっさんの顔が絶望と激昂に引き歪み、両頬を膨らませ、さらに裸足で地団太を踏み始めた。ここが二階だったら床が抜けているところだ。

 さすがに二回もぬか喜びさせられては堪忍袋の緒が切れるのか、彼女は双眸を憤怒に燃やし、両手を振り回して俺に抗議した。

「もおぉぉう! 信じられない! なんでそんな嘘つくの⁉」

「はははだって面白いんだもーん」

「絶対に許さない! 食べものの恨みは恐ろしいんだからね、覚悟しなさい!」

 奥歯を食いしばり、両眼から火花を散らすもっさんは、威嚇する子犬を連想させた。微塵も怖くはないが、噛まれるとちょっと危険。

 ――そんな反応が俺の悪戯心を着火するのだ。

 表面上は悠然とした態度を崩さず、胸中では嗜虐心をそそられながら、次なる言葉の刺客を放つ。

「そんなこと言って、もっさん少し太ったんじゃないか? 間食は控えた方がいいぜ」


「は」


 途端、もっさんの頬が引き攣る。

「そ、それも嘘なんだよね……」

「なに言ってんだ、本気に決まってるだろう!」

 無論口から出まかせなのだが、正面から彼女を見据えて否定する。

 もっさんは元がぽっちゃりとした体型だが、決してここ最近で太った様子は見られない。あくまで彼女の怒りを煽るための方便だ。

 の、はずだったのだが、

「うぅ……」

 呻きと同時に、もっさんが膝から崩れ落ちた!

「はぁ⁉」

 俺は慌てて玄関扉を閉めた。この状況(玄関先で四つん這いになるもっさんと仁王立ちの俺)、ご近所さんに見られたらどんな誤解を招くのか、見当もつかない。

 さすがに彼女の周囲を取り巻く空気が変貌したのを感じ取る。この反応は想定の埒外だ。いったい彼女になにが起きたのか。

「え、えーと……」

 当惑しながらも現状打破のため紡ごうとする言葉を、両手で顔を覆ったもっさんが遮った。涙を呑み、悲痛な声音で語り出す。

「慰めないで、自覚はあったの……。いつも手が無意識におやつに伸びてた……でも、お正月のお餅ラッシュとか度重なる真冬の鍋パーティーとかを乗り切ったからって……。油断、してたんだね……」

 ――どうやら地雷を踏んだらしい。

 確かに女性にとって体重や体型はデリケートな話題だ。自分がいささか無神経だった感は否めない。

 憤激すると想定していただけに拍子抜けした、という事情も相まって、ここは素直に励まそうと決意する。意気消沈したもっさんをからかっても、張り合いがないのだ。

 俺は屈み込み、精神を打ち砕かれたもっさんの肩を優しく叩いた。

 緩やかに顔を上げた彼女の瞳は充血していて、今にも大粒の涙が零れ落ちそうだった。

 ――また、彼女に笑ってほしい。

 そんな感情を精いっぱい込めて、俺は笑顔で告げる。

「大丈夫、ハムスターみたいでかわいいから」

 季節外れの紅葉が、俺の横顔に輝いた。



 結局おやつは食べるらしい。向き合うふたりの間に置かれたテーブルには、もっさん秘蔵のカステラがふたり分並べられていた。さっきの話題を引きずっているのか、気持ち俺の方が多く切り分けられている。

 自宅のPCが商売道具のもっさんと違って、俺は片道一時間かかる職場に勤める会社員だ。けれどこうして俺が休暇の日は、彼女の部屋で一緒にお茶会もどきをしている。アパートでの近隣住民の中では珍しく年代が近かったこともあり、親しい間柄になるまでに、さして時間は要さなかった。

「そういえば」

 雑談の節目にもっさんが発した台詞に、俺は紅茶と耳を傾けた。

 いつも俺が好き勝手しているような関係だが、日常会話においては、むしろ俺は聞き役に徹している。円満なご近所づきあいのコツだ。

「今日はエイプリルフールだから、あたしが嘘をついても許されるんだよね」

「そりゃそうだ」

 頷きながら、同時に呆れてしまう。もっさんの中では自分がすっかり騙され役として定着しているらしい。普段から俺が嘘の大盤振る舞いなのだから、彼女にだって騙す権利くらいあるだろう。まあ単細胞生物だし仕方ないか。

「ふっふっふ……覚悟してね、しんちゃん」

 唇の端を歪め、大胆不敵に微笑むもっさん。愛嬌がある顔立ちのせいで、迫力は露ほども感じられないが。

 とはいえ大見得を切ったのだ。さぞ立派な嘘を披露してくれるのだろう。

 もっさんに騙される側の立場になるのは前代未聞だ。期待半分不安半分で続く彼女の言葉を待ち構え――

「あっ」

 不意に、もっさんが俺よりさらに後方、窓ガラスの方を指差して叫んだ。迫真の演技。

 そして、


「飛行機が空を飛んでる!」


 ――たとえ本当でも振り向かないわ!

 甘かった、彼女は真正の阿呆タレだ。

 あの綺麗な青空の上を飛行機が飛び交っているなんて、至極当然じゃないか! 渋谷で黒豚ばりのガングロ肌をした女子高生を発見して大騒ぎするのと大差ない。いくら現実的とはいえ、それなら飛翔する未確認飛行物体の方が嘘として何百倍もマシだ。

「うぐぐ……」

 激烈にツッコみたい衝動に駆られながら、しかし行動に移せない。

 もっさんの瞳がきらきらと輝いているのだ。確実に俺の反応を期待している……

 そうだ、実直で生真面目でとんちきな彼女が一所懸命に考え抜いた嘘である。ここは俺が大人な態度で優しく受け止めなければ。

 謎の使命感に拳を固め、俺は背後を振り向いた。無心で我武者羅に雄叫ぶ。

「な、なんだとー! どこだ飛行機!」

 窓に身を乗り出し、存在しない飛行機を左右に首を回して探す無様な俺。すこぶる馬鹿っぽいが、もっさんの笑顔を守るためだ。

 一言一句紡ぐごとに、社会人としての尊厳が如実に失われていくのを感じる。今どき、小学生でもこんなに飛行機で必死にならない。

「ふふっ、残念、嘘でした」

 もっさんの種明かしで、俺は悪しき呪縛から解放された。こんな真似、もう懲り懲りだ。

 大袈裟なリアクションで座布団に倒れ込み、失意を全身で表現する。この虚脱感に関しては、あながち演技でもないのだが。

「ちくしょう」

 俺の呟きは、きっともっさんには別の意味で捉えられただろう。

 得意げに微笑む彼女を眺めていると、ふと胸中に復讐心が芽吹いた。こっちは相当な苦労を背負い込んだのだ。同等の仰天を味あわせてやる。

 密かに舌舐めずり、俺はわざとらしく目を瞠って、もっさんの顔を凝視した。

「もっさん!」

「え、なにしんちゃん?」

「オデコにカマキリがついてるぞ!」

「ええぇぇぇぇぇ⁉」

 驚愕に飛び跳ねるもっさん。か弱い女性としては至極当然な反応だが、これを嘘と見抜けないのは成人女性として大問題だ。

「カ、カマキ、キリ、とと取って! 取ってぇ!」

 激しく狼狽して立ち上がったもっさんが、ロックバンドのライブさながらに頭を上下左右に遮二無二振り回す。短めの黒髪が獅子舞のように咲き乱れ、汗か涙か透明な滴が飛び散った。

 そんな彼女の極限状態を、俺はこっそり取り出したスマホで撮影した。眼前で繰り広げられる奇行に、意図せず笑みがこぼれる。

 最も映りのよい写真は待受画像に設定した。圧巻の迫力である。

 ――今度もっさんに見せるのが楽しみだ。



 大騒ぎしている間に、窓の外の景色はすっかり黄金色に染まっていた。

 これから月と太陽が一周する頃には、俺ももう出勤の時間だ。明日の準備をするためにも、今日はそろそろ退散しなくてはならない。

「じゃあまたな、もっさん」

「うん、また来てね」

 お隣さんでも、彼女はいつも俺を玄関先まで見送ってくれる。彼女らしいのだが、どこか過保護な母親っぽくもある。

 笑顔で手を振るもっさんに微笑みを返していると、不思議と胸の奥底から温かい感情が湧いてきた。緩やかに流れていたはずの情動はすぐさま勢いを増し、激流に変わった。

 熱い感情の波濤が、喉から溢れ出そうになる。

 そして、


 沈みかけの太陽が廊下を淡く照らすように。


 東から吹いた春風が前髪を微かに揺らすように。


 言葉は自然と衝いて出た。


「俺、もっさんのことが好きだ」


 刹那、場の空気が硬直する。

 彼女は瞠目して真剣な面持ちの俺を凝視し、互いの視線が絡み合った。

 しんと静まり返る空間。近隣住民が奏でる馴染み深い生活音も、今の俺の鼓膜には響かない。

 舞い降りた静寂を汚さないよう慎重に唾液を嚥下し、心臓の高鳴りを押さえつつ彼女の返事を待つ。

 相対する彼女の容貌を密かに観察するが、そこに嫌悪感などは一切窺えず、少なくとも拒絶反応はないようで僅かに安堵する。

 閉鎖された沈黙は長く、長く、

 やがてもっさんは引き結んだ唇をふっと綻ばせ、


「去年も聞いたよ、それ」


 と、呆れたように笑った。

 普段と変わりない天衣無縫のその表情に、緊張しきった全身の筋肉が弛緩する。張り詰めた双肩の力が抜け、世界が音を取り戻す。

「ははっ、覚えてたか」

 彼女につられるように俺も相好を崩した。先ほどまでの鉄火場の様相は、一瞬で和やかな色彩に様相を変えてしまっていた。

 ――そう、俺はエイプリルフールになると、その都度もっさんに告白していた。

 四月一日は、あらゆる嘘が許される日。

 けれどこの気持ち――胸に燻るもっさんへの恋心には、一片の偽りもない。紛れもない本心だ。俺はこのアパートに越して、初めてもっさんに出会った頃から彼女に片想いをしていた。

 四月一日は、予行演習の日。

 素直に想いを伝える度胸のない俺が、根性なしを克服するための告白練習をするのだ。

 狼少年の理屈も、逆手に取れば便利なもので。

 どうせ冗談なのだと予防線を張って、もっさんを、そして自分自身を欺いて。

 いつか俺に勇気が備わった日、本気の想いを伝えるために――

「今度こそ、じゃあな。休日にはまた遊びに来るよ」

 踵を返した俺は、早足で隣の自室へ戻った。最後まで満面の笑顔で手を振ってくれるもっさんの気配を背後に感じながら。

 ひとりの廊下をすり抜け、奥の部屋へ一直線に駆ける。彼女の部屋から帰宅した直後の室内はやけに広く思え、窓から斜に差し込む夕焼けの輝きに俺は双眸を細めた。

 そしてふと壁にかけられたカレンダーに視線を移すと、熱の籠もった溜息を漏らした。顔が熱い。鈍感なもっさんは気づかないだろうが、“好きだ”と言葉にすると、緊迫感と羞恥心でいつも頭に血が上ってしまう。

 けれど、今日の鼓動の昂ぶりは、それだけが原因じゃない。

「……さて」


 ――彼女はいつ気づくだろうか、最初の嘘に。


 地域のキャンペーンでもらった陳腐なカレンダーには、三月の日付が並んでいた。無言で手を伸ばし、その用紙を粗雑に破り取る。

 そう。

 今日は、三月三十一日。


 ――彼女は気づくのだろうか、最後の本音に。


 そう、俺は嘘偽り許されない日に告白をしたのだ。つまり、告げた思いの丈は、すべて本物。

 けれど――俺は自嘲的に唇を吊り上げた。

 もっさんのことだ。俺が今日の月日を間違えた――そう勘違いするかもしれない。彼女の性格を考えれば、その可能性は高い。こんな回りくどい告白に、目聡く気づくような奴じゃない。

「……まあ、それならそれでいいさ」

 ぽつりと呟く。

 俺だって、まだこんな捻くれた方法でしか気持ちを伝えられないのだ。彼女が俺の言葉を真実か否か憶測すらしないこと、嘘をついた張本人である俺に文句を言う資格なんてない。もう俺自身の肝っ玉が据わるのを気長に待つしかない。

 三月三十一日の告白がなにを意味するのか――真偽の判断は、もっさんに一任しよう。

 薄く翳り出した紅空を眺め、脳裏に彼女の顔を浮かべる。

 もっさんは鈍くて、阿呆で、ある意味すこぶる無神経で――


 ――でも、俺はバカな彼女が好きなんだ。


 カレンダーの四月の予定を眺め、俺は次の休日を探した。








 読んでいただきありがとうございます!


 気軽に嘘をつける相手というと、家族や友人など、とにかく親しい間柄の人が思い浮かびますね。

 ならば、拙作でも“あらゆる嘘が許される日”と書いていますが、どうせならお互いがちょっとでも幸せな気分になれる嘘を言いたいものです。

 私も、今日は愛しのカノジョと「唇に食べカスついてるよ……ぺろっ、ごめん、実はきみとキスしたかっただけなんだ」とか言っちゃったりして乳繰り合いたいと思います。


 ――まあ、カノジョがいるって嘘なんですけどね!



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