三席
食堂の奥、主の生活感が滲む管理人室。
壁に掛けられた古い振り子時計が、チクタクチクタク。
リノの落ち着かない膝と肩が、おろおろソワソワ。
ドリーはリノの後ろ襟をひっつかんで動きを制してます。
「あんたの心配もわかるけどね。一人で考える時間てのが必要なときもあるんだよ」
ドリーだってポメロを心配せぬではありません。
ですが彼女は年の功を重ねた分、多角的な見方を持っています。
(ポメロはまだ十五歳だ。何にだってなれる年齢さ。音楽の道以外ならね。今は放心してるといい。元気が出てきたらこの婆がやり場のない怒りをぶつけられてやろう。なあにアイツに死刑宣告したときからそんな覚悟は持ってたさ)
ドリーが下宿を開いてから30年近く。
累計すると両手両足の指では数えられぬ程の若人たちが住んでいました。
空高く羽ばたいた子もいました。
背中を丸めて退去していった子もいました。
どこかで未だにくすぶり続けているであろう子も。
──自ら命を絶った子すら。
不幸をランク付けするのも趣味の悪いことです。
でもポメロは下宿の流れを俯瞰すれば、全然不幸でもなんでもありません。
『早いトコ才能無いってわかってよかったね。次行けや、次』
そんなポジションに落ち着くのです。
出会い、別れ。繰り返し、繰り返し、繰り返す。
年齢も相まってドリーはある種の達観の域に達していました。
でもリノ十四歳はそうではありません。
♪―― (ポメロが泣いてる)
♪―― (なでなでする)
リノの即興のハミングから、ドリーに情念が伝わってきます。
「てい!」
ぺちん。
「!」
ドリーはリノの尻を平手で叩いて黙らせました。
「だめだろ、歌は」
はっとなったリノがしゅんとなって俯きました。
「何度も言ってることだけど。お前の魔法は効きすぎるんだ。ボウズを一人で挫折と向き合わせようとしていた私が、落ち込んだボウズを慰めてやりたいって気持ちが生まれるくらいにはね」
「…………」
「これはね、リノ。とっても残酷なことなんだ。人が思いたい思いを抱けない。お昼寝したいとか猫可愛いとかの気持ちを取り上げられたらいやだろ?」
リノの眉はへにょっとします。
ぺこりと頭を下げて謝罪。
「わかりゃいいのさ。覚えが悪いのはよくないがね」
などと、義祖母が義孫に教育しているところに。
!!!
二階から突如、暴力的とも言えるギターの咆哮!
(ああ、ポメロの奴、もう悲しみや脱力感を振り切ったのかい。リノが懐く位だからへにょっちい草食系の男かと思ってたけど──意外と根性座ってるのかもね。切り替えの速さってのはいいトルバドールの資質の一つだよ。こりゃもしかすると居残るかもだね)
ポメロを少し見直したドリーは、リノの抵抗がいつのまにか止んでいることに気づきました。
後ろ襟から手を離すと、リノはがばりとドリーの胸にしがみ付きます。
「? どうしたってんだいリノ。急に甘えんぼになっちゃったかい?」
リノは、ドリーの骨と皮ばかりの胸に顔をこすり付けます。
幼児がイヤイヤをするように、繰り返し。
「しょうがない子だよ、全く」
ドリーは赤ん坊にそうするように、リノの背中を優しくトントンと叩きます。
ポメロが発した熱情の余りの激しさに、リノが怯えたことに気づかぬままに。
トントン。トントン。
───── ♬ ─────
奏鳴荘二階の角部屋からは、深夜営業の商店が漏らす淡い光と、寝静まった宿屋の影が交互に並ぶ、静かな通りの境界が見下ろせます。
表通りの喧騒から三筋ほど離れた、山の手の端。
そんな景色をぼうと眺めながら、デッカは独り言ちました。
(急に元気出してきた)
隣室から聞こえてくるのは怒りに満ちた叫びと、苛立ちに満ちたギター。
(ま、若いんだ。眠れぬ夜を怒りで乗り越えてもいいさ)
大きな感情は、それがどのような感情であれ、人の虚無を埋める。
デッカは心中で達観じみたエールを、隣室のポメロに送ります。
チャラけた男であれどチャラけているだけではないのです。
(俺ちゃんなら女の柔肌に癒されに行くんだけどな!)
凄くチャラけているのです!
しねばいいのに。
ですが、まあ。彼にもいろいろあったのです。
【表現】の恐怖に膝を折り、挫折する前に諦めて。
以後の彼は「毎日が躁ハッピー♪」と吹っ切れて。
今やどこにお出ししても恥ずかしい、ラテン系その日暮らしのフーテン者となりました。
その気楽を選んだ彼の目からして。
『あ、こいつ挫折するわ』
ポメロ少年は世間知らずの裸の大将。
夢見るワナビー。
そう予感せざるを得ないほど、出来が悪そうに映ったのです。
すぐに馬脚は現れました。
自信満々に披露した駄作を、ドリーおばさんが一言の下に切って捨てたのです。
その時の少年の表情と言ったら。
『あ、こいつ挫折したわ』
ですが身の振り方を変えるなら早いに越したことはありません。
挫折から立ち直るのもまた同じ。
イシシと歯を剥いてデッカは笑います。
(明日目覚めたら女抱かせてやっかなー。アイツどう見ても鞘に納まりし初太刀(格調高い隠喩)だから、一発で勃ち治るだろうけどな! 一発で済むか知らんけどな!)
しかし。その安っぽい未来予想図は、今、二階から響いているノイジーなギターに一撃で砕かれました。
ジャキジャキ!
続いて聞こえる「嫌だ!」という、魂を絞り出すような絶叫に、未来予想の砕けた破片が吹き飛ばされました。
「おりょ?」
音は止みません。
叫びも途絶えません。
時間を重ねる毎に、音に確信がこもっていくのが分かります。
ポメロは現実に、惨めな自分自身に、必死で抵抗しているのです。
「折れてたんじゃねーの?」
ポメロは拙くとも最初から、表現という名の荒野を歩む者だったのです。
初めてギターを手に入れたあの日から、ずっと。
「なんだよ……」
どん底に叩き落され、心はぽっきりと折れ、一睡もしていないはずなのに。
あいつはもう、立ち上がっている。
あいつはきっと、立ち直るだろう。
「できる子かよ」
フヒ、と歯を剥かずデッカは笑います。
つまらなそうに。
───── ♬ ─────
一分の隙もなく整頓された二階の書斎。
山の手から吹き下ろす夜気が窓を叩きますが、そんなものは向かいの部屋から聞こえてくるノイズに比べれば些細なものです。
「全く迷惑な限りだ、田舎者が。人の眠りを妨げるとは、マナーがなっていない!」
エピタフはベッドの上で大きく舌打ちします。
深夜に大声でがなり、ギターをかき鳴らす。
古典的マナーと共同生活常識の違反。
それは伝統派音楽のエリートである彼にとって許せぬ蛮行でした。
「が……」
ですがエピタフはポメロの部屋に注意しにいくことはなく、ピントのズレた音の暴力を我慢することを選択しています。
二つの理由から、エピタフはベッドの上でじっと我慢しているのです。
彼にとって整合性ある、「正しい」我慢を。
一つは、音楽の都カーネギーの掟。
いつだってどこだって音楽が鳴りやまぬ都市。
例え深夜であってもほとばしる音楽を止めることは誰もしてはいけないのです。
音楽が全てに優先されるルール。
もう一つは、後ろめたさ。
彼は歓迎会の折、ポメロに向かい「啓蒙してやる」と思いやりからの慈悲を与えたのです。
ええ、思いやりです。本当です。
しかし、かの田舎者の自信満々な箸にも棒にもかからぬ駄曲を聞いただけで、エピタフは匙を投げてしまったのです。
アカンわコレ、と。
それは自らが科した職務の放棄にほかならず、ポメロに伝わってはいないけど、なんなら悪意を持ってマウンティングされたと思ってすらいますけど、エピタフはこの事に負い目を感じていたのです。
ですからエピタフは常識を弁えぬ手前勝手な輩の凶行を我慢してあげていたのですが。
「……ん?」
数時間に渡った無秩序なアパッショナートが唐突に途切れたのです。
(流石に疲れ果てたか)
などとほっと一息つき、ナイトキャップを被りなおしたエピタフ。
ところが、今度は様子が変わり、断続的な音に変わったのです。
しばらく鳴らして、沈黙。
しばらく鳴らして、沈黙。
そして鳴る音が徐々に輪郭を伴ってきます。
(これは……)
さらには音声まで聞こえ始めます。
メロディに対する意識が感じられました。
(曲を為そうとしているのか!?)
───── ♬ ─────
白み始めた街を、夜気をぬぐい切れない影がしずしずと歩いていました。
下宿に棲む妖艶な美女・エレクトラです。
本来彼女のディーバとしての仕事は、日を跨ぐ前には終わります。
しかし今日は、同僚のステージダンサーが男に捨てられて淋しくて震えるとかなんとか絡んできて、チーママに相手をしてあげて欲しいと頭を下げられて……明け方まで手前勝手な愚痴と自分を憐れむきったねえ涙に付き合わされてしまいました。
「なんで皆、私に寄りかかってくるのかしら……」
エレクトラは温かいか冷たいかで人を区分するのなら明らかに冷たい側に存在する女性です。
「氷の歌姫」「深海のディーバ」などと評されることもありました。
けれど、なぜでしょう。
彼女は身近に不幸を呼び寄せ易いのです。
考えてもしょうがないしね、と、自嘲の笑み。
下宿が見え始めた頃。エレクトラの五体に衝撃が走ります。
「知らない」
奏鳴荘の二階から、知らない響きの知らない音楽がまき散らされていました。
ギターは歌います。ヤダヤダヤダと。
ボーカルは歌います。やだやだやだと。
「うそ。あの子が、これを?」
一人と一本、そろって駄々を捏ねています。
癇癪です。
疳の虫です。
顔には出ていませんし、ポメロにも気づかれていないことですが。
おそらく下宿の住人で一番ポメロを歓迎していなかったのは彼女でしょう。
彼女はわりと苦労して生きているし、努力して今の地位にしがみ付いています。
だから何の苦労も知らず、けらけら笑ってきらきらした目をして、前だけ向いているようなポジティブ野郎は大嫌いでした。
いつだか付き合っていたDV彼氏なんかよりも余裕で嫌いでした。
死ねばいいのにと思っていました。
そんなイヤなガキのど真ん中ストレートなポメロです。
歓迎会の開始からずっと(出てけ出てけ)と、人知れず呪詛を送っていましたし、自信満々の滑稽歌がダダ滑りしたことに気づいた絶望の表情を見たときなんて(これは捗るわぁ♪)と、暗い愉悦を覚えていたのです。
本当はもっと、エピタフあたりの正しい講評に滅多切りにされるポメロを眺めていたかったのですが、残念。
その場を逃げる為の言い訳などではなく、本当に歌姫の時間に間に合わなくなりそうだったので、彼女は泣く泣く食堂を後にしていたのでした。
(私が帰ったときにはもういなかったりして)
だと思うじゃん?
どっこい彼はただの思いあがったいなかっぺ大将では無かった。
【表現者】としての資質を有していた。
がっかりでした。私の期待をよくも裏切ったなァ!でした。
でも。
「この歌には真実がある。無様だけど。真実しかない。笑えないけど」
エレクトラ。
下宿で最も【表現者】の資質を磨き上げている彼女は鋭敏に嗅ぎ取りました。
同類の臭いを。




