三席
西日の差し込む奏鳴荘の二階、ポメロの城は、かつてないほどの静寂と、それに相反するような脳内の騒音に包まれていました。
机の上には、ドリーから渡された真っ白な原稿用紙が数枚。その横には、慣れない万年筆が転がっています。
「……書けない。あはは、笑っちゃうくらい、一行も進まないや」
ポメロは、茹で上がったロブスターのような三つ編みを、むんずと掴んで自嘲しました。
ドリーから命じられた社会見学の感想文。
見たことをそのまま書けばいいと言われたはずなのに、いざペンを握ると、記憶が万華鏡のようにくるくると回り出し、どれもが目を引いて、ひとつに留まってくれないのです。
目を閉じれば、あまりに濃密な外の世界の残像が網膜を焼いています。
十四番舞台で見た、己の技術を切り売りする【セリ市】。デッカ先輩の圧倒的なプロの【くすぐり】の技術。お尻への信仰を歌った自分の未熟さを、鮮やかな手際で救済に変えてみせたあの手腕。
エピタフ。アイツの誇り高き伝統と、【音叉脳】を生まれ持ったことによる葛藤。【伝統派しぐさ】という武器を手に正しく戦う雄姿。カツラの下に隠された、意外なほど必死で人間臭いてるてる坊主のような横顔。
エレクトラさんと過ごした、超一流のおもてなしと一流しぐさ。水槽の底で歌われた【よくわからなくて怖い】シャンソン。香水の香りと、【唇に残った】暴力的なまでの夜の苦み。何度も思い出すという予言、あるいは呪い。
そして──リノ。
ふわふわした日常。お散歩探検隊。痛ましい過去。【クレオパトラ】三番舞台という檻の中で、世界を塗り替えるほどの眩しさを放っていた、あの無垢で素直な才能。身勝手で純粋な楽曲変更。【ねこかわいい】。
一つ一つが、ポメロという小さな器から溢れ出すほどに巨大な質量を持っていました。それらをどう咀嚼し、どう言葉という型に流し込めばいいのか、今の彼には全く分かりませんでした。
いつもなら、心がざわめけば熱情が吹き上がり、勝手に指がギターを弾いているはずなのに。今のポメロの胸にあるのは、創作の炎ではなく、重たく湿った消化不良の塊だけでした。
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頑張って書いてます。
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今しばらくお待ちを。
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ドリーさんに提出しました。
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「おわったあ!」
数時間後、ポメロは咆哮にも似た溜息を吐き、最後の一行を書き終えました。
達成感など微塵もありません。あるのは、全神経を使い果たしたことによる、底なしの疲労感だけです。
だから、もう何もしたくない気持ちで一杯なのに。
あとは寝るだけなのに。
ポメロは目線に気づいてしまいました。
自身の胸の奥で、ぐんでり横たわってこちらを見上げている熱情に。
今のポメロには、それと戦う気力すら残っていないのに。
「悪いけど、今は相手をしていられないよ。僕は、とにかく……疲れたんだ」
ポメロは熱情から目を逸らし、寝台に倒れ込もうとしました。
すると、その熱情がよじよじと心の壁を登ってくると、牙を剥く代わりに、ぽん、と彼の肩を叩きました。
同僚をねぎらうように。
残ったのは、やはり逃れようのない――
「あー、そー来たかぁ」
わかってしまった。看破してしまった。
「汝の名は――――【疲労感】。」
熱情は抵抗することなく、お先に失礼とばかりに手を振って、すうっと消えてゆきました。
そして真実の名を得た表現者としてのポメロは。
疲れていても、眠たくても、音を鳴らさずにはいられません。
ポメロはギターを手に取り、宥めるように弦を弾きます。
ため息を一つ。
曲の輪郭がヒーリングソングとなって現れました。
ぼん、ぼん、ぼん、と低音弦が振幅するに任せ、ポメロの歌声は敢えて喉を使わずに口蓋で籠らせます。
発声学的には論外。素人の陥りやすい失敗。
でも遠くの誰かに届けるわけでなし、正しさなんて背負ったらただでさえ重いこの体がもっと重くなってしまう。
肩の力を抜いて歌いたい。
さもなくば疲労感なんて癒せない。
素敵なチルタイム。
午後の太陽。
デッキチェア。
ボッサのリズム。
喧騒も会話も無い、リラックスした午後の紅茶。
ああ、なんだか喉が渇いてきたなあ。
『ここらで一杯、茶が欲しい。』
自分の肩をぽんと叩き、一息入れなよと耳打ちしてあげる。
そこで始めて疲労してよれよれになった自分に気づく。
そういう、優しい自己管理、いや、優しい自己おせっかいの歌となりました。
いつかハルモニアさんにも歌ってあげてくださいね。
「お疲れ、僕の【疲労感】。今度会ったら果実水の一杯でも奢るよ」
そこに産みの苦しみはありませんでした。
疲れていたので。
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