二席
「うわーい!」
音楽の都へと辿り着いた馬車から、ポメロは弾かれたように飛び降りました。大きく腕を振り、去りゆく行商人親子へと、全力で別れを告げます。
その足取りはどこまでも浮かれています。くりくりと動くライトグリーンの瞳は、初めて目にする光景を、むさぼるように捉えていました。
そこには、音楽がありました。
石畳を叩く馬の蹄は、勇壮なマーチのドラムを刻みます。広場の噴水から噴き出す水飛沫は、繊細なハープのアルペジオを奏でています。
あの辻からは朗々たるテノールの歌声が響きます。あの窓からは、練習中とおぼしきフルートの、震えるような旋律が漏れ出してきます。屋根の上では、掃除中の職人が煙突を叩き、リズムを取っています。
♪―― 俺たちゃ街の 血液さー ホイ!
広場で荷を解く荷役たちが、汗を拭いながら、そんな労働歌を合唱しています。
街のどこを歩いても、そこには音楽が溢れている!
街をひとつのホールと見立てた、終わりなき一大ジャムセッションのよう!
「良いのかな? 良いんだよな!」
ポメロは堪えきれず、ギターをケースから引き抜きます。そして、おもむろにかき鳴らしました。
じゃかじゃかじゃん!
鳴り響くのは、混じりけのないメジャーコード!
「お、生きのいい新人さんだね」
それは、抑えきれない興奮と喜びの現れでした。ポメロからこの巨大な都への、精一杯の挨拶でもありました。
「ほらあ、いいんだよ! どこで弾いても! どこで歌っても!」
全く、ポメロの推測は正しいものでした。
大通りのど真ん中を浮かれ歩きながら、浮かれた様を奏で、歌う。溢れ出すパトスのままに身を任せ、ギターをかき鳴らしても、衛兵なんて寄ってきやしません。
『音楽を止めるな』
それは音楽の女神ミューズ唯一の神託。
「いついかなる時も、公の場であれば、歌い奏でる権利を認める」
それはカーネギー憲章の第一条。
なぜならここは音楽の街カーネギー。信仰と法、その両輪で支えられた街。どこにどんな音楽が在っても、それが音楽である限り、街はすべてを許容してくれるのです。
♪―― 昨日の夢は 昨日の風に 今日の小銭は 今日のワインに
ポメロのすぐ脇を、バイオリンを抱えた年老いた弾き語りが通り過ぎます。彼のCコードに合わせ、陽気な酒場歌を口ずさみながら去っていきました。美しいオブリガートを添えて。
ポメロは有頂天でした。
彼はそのまま、スキップともダンスともつかない足取りで、大通りを練り歩きました。
♪―― 真っ赤なリンゴ 甘い蜜 噛めば広がる 恋の音
露店の果物売りが、リズミカルな呼び込み歌を歌いながら、リンゴを磨いています。焼けるパンの匂いさえ、ポメロの鼻腔には、甘いハミングのように感じられました。
彼は道ゆく人々に、見境なく笑顔とギターの音色を振りまきました。
♪―― 高い塔から見下ろせば、恋も悩みも豆粒みたい
窓辺で洗濯物を干すご婦人が、鼻歌混じりに抒情的なフレーズを空へと放っています。
都会の喧騒、馬車の音、人々の話し声。そのすべてが、自分を祝福するオーケストラの一部であるかのような、万能感に包まれていたのです。
(この街は僕の到着を祝福してくれてる!)
そうかな? 違うよ!
是非おいでください、なんて言ってません。
居てもいいよ、というだけのこと。
都の住人たちにとって、道端で騒ぎ立てる若者は、風景に紛れ込んだ一羽の喧しい雀のようなものです。
そこをどうか、勘違いしないでいただきたい。そこのエビ髪の田舎者みたいに。
さて、そのポメロ。
一時間あまり、街を散策したり、ギターを弾いたり。それを反復していました。
完全に舞い上がっていたポメロの足が、ようやく止まったのは、大通りの喧騒を少し外れた、古い時計塔の見える空き地でした。
ぽっかりと長方形に切り取られた空間は路面に対してレンガ一個分高く作られていました。まるでステージでもあるかのように。
「おじさん、ここ何?」
「辻ステージさ。名の売れていないアーティストは、みんなここでステージの経験を積んでいくんだよ」
「じゃあ僕も―― あ!」
出来立てほやほやの『おのぼりさん、北へ』を披露しようかと一歩踏み出した、そのときです。ポメロはふと、致命的な現実に行き当たりました。
『勇んで飛び出したはいいけれど……。
ああ、なんてこった、
母さん特製お弁当、持ってくるのを忘れてる!』
歌の歌詞が、現実となって、自分の胸を刺しました。
気づいたのです。
ポメロは、今日の宿すら決めていないということに。
「あ、あの! そこの綺麗なお姉さん!」
「なあに、ぴちぴち前後に跳ねてそうな髪の男の子」
「このへんで、安くて、こう、僕みたいな将来の大スターが泊まるのに相応しい宿屋ってないですかね?」
「ふふっ、大スターさん。それなら、この道を真っ直ぐ行って、噴水を右に曲がった先にある地区へ行ってみなさいな。君くらいのポッケの中身と相談できるくらいの宿が、たくさん並んでるわよ」
「噴水を右、ですね! ありがとお姉さん! 出世したら、今の香水よりいいやつをプレゼントしちゃうからね!」
「あら、嬉しいわ。頑張りなさいよ、大スターさん」
初めて嗅いだ都会的な香水の匂いに、内心くらっときていたポメロでしたが、なんとか格好をつけて、その場を離れました。
思春期真っ盛りの彼にとって、それは演奏と同じくらいに、心臓を叩く出来事だった、ということにしときましょうかね。
───── ♬ ─────
教えられた地区へと、小走りで向かうこと、しばし。
突如として、ポメロの心に、ぽかぽかとした何かが広がりました。
本当に、唐突に。
あんなに焦っていたはずなのに、こんなに興奮しているはずなのに。
不思議と、心が落ち着き、温まったのです。
♪――
ぽかぽかの源は、二軒向こうの木造家屋、そのベランダにありました。
(天使……?)
少女がいたのです。鳥のように大きく手を広げ、くるくると回りながら歌っていました。異国の唄を。
それは言語ですらありませんでした。スキャットか、ハミングか、あるいはそれらが渾然一体となった「歌」。
逆光の中に立つ彼女の姿は、まるで天から降りてきたばかりの幼き使いのようでした。透き通るような白い肌、風に遊ばれる柔らかな銀髪。そして、こちらの魂を見透かすような赤い瞳と、無防備な笑顔。
♪――
意味は分かりません。しかし、届きました。
その調べは、丁寧に洗い上げられ、おひさまの匂いをいっぱいに吸い込んだ、ふわふわでほかほかの毛布にくるまれるような……そんな絶対的な安らぎのイメージとなって、ポメロの脳内を鮮やかに塗り替えてゆきます。なぜか。
心臓を締め付けていた宿無しの不安も、都会の鋭い緊張感も、すべてが温かなミルクに溶ける砂糖のように、跡形もなく消えてゆきます。なぜか。
昼下がりの寝室。
柔らかな毛布のぬくもり。
ただただ心地よい重み。
抗えぬ脱力感。
ふわふわ。
ぽかぽか。
このまま世界が止まってしまえばいい。
ポメロの頬は、自分でも気づかないうちに、ゆるりと綻んでゆきました。
頭の中はもう、おやすみしたい気持ちでいっぱいです。なぜか。
「そうだ、昼寝、しなきゃ」
ポメロがそう呟くと同時に、歌声はピタリと止みました。
少女は、自分を見上げるポメロを、じっと見つめていました。
ポメロは大きく手を振り、笑顔で挨拶を投げかけます。
「はじめまして! ポメロです!」
少女の反応は、ポメロの知る言葉ではありませんでした。
「■■■■?」
言語ですらありませんでした。
窓ガラスをひっかいたような、あるいは壺を二階の窓から投げ捨てたような。
人の神経を逆撫でて、自然と眉間にしわが寄る、明らかに壊れた何かの音。
「■■■」
「なんて?」
少女は悲しい顔をして、黙ってそっとうつむきました。
少女の歌は、ポメロに伝わりました。
でも。少女の言葉は、ポメロには伝わらなかったのです。
「えっと……」
ポメロは立ち尽くしていました。
耳に残る不快な残響。そして、それ以上に胸の奥に居座る、正体不明のざわめき。
熱情を鎮められたはずの心臓が、なぜ今、再び異なる熱を持って震え始めているのか。
その理由を、彼はまだ知らないまま。
ただ、うつむいた銀髪の少女から、目を逸らすことができないでいたのでした。




