第4話
特命財務官という、いかにも偉そうな肩書きと共に、俺はこの国の本当の財布の中身を堂々と覗き見る権限を手に入れた。
図書室の寝床は確保され、三食昼寝付きの生活は保証された。シルフィという優秀な部下もついた。あとは、適当にハンコを押して、シルフィに実務を丸投げするだけの優雅な天下り生活が待っているはずだった。
だが、その甘い目論見は、財務局から運ばれてきた分厚い帳簿の束を開いた瞬間に打ち砕かれた。
「……おいおい、嘘だろ……」
図書室の机に広げられた『ギルド補助金明細』と書かれた分厚い羊皮紙の束。
それを見た瞬間、俺の目の前が真っ暗になった。
「冒険者ギルドの『死亡見舞金』ならびに『遺族への年金』だ。魔王軍との大戦を機に制定されたらしいが、年間で金貨四千二百枚。いや、もっと増えるかもしれない……国の税収の約一割が、たった一つの制度に持っていかれている」
ガモンの横領が年に三百六十枚。それすら可愛い雑魚に見えるほどの、絶望的な数字だった。
魔王との大戦中、国のために命を懸けた冒険者や兵士への補償なのだろう。制度の趣旨自体は正しい。だが、今のボロボロの国庫状況でこんな巨大な固定費を抱え続けていれば、三年……いや、二年で国庫は完全にショートする。
国が破産すれば、当然俺の年金も、この図書室という快適な寝床もすべて消え去る。
「このままだと、俺の静かな老後が終わる……! 何としてでも、この支出を劇的に抑えつつ、かつギルドの不満を買わない新制度を作らなきゃいけない……!」
俺は頭を抱え、さらに古いギルドの記録を貪り読んだ。
現状のままで「金がないから見舞金を減額する」などと発表すれば、確実に大規模な暴動が起きるだろう。血の気の多い冒険者たちが黙っているはずがない。最悪クーデターに発展し、俺はまた剣を握って防衛戦をするハメになる。それだけは絶対に避けなければならない。
何か、抜け道はないか。荒くれ者たちが納得しつつ、国の負担を激減させるカラクリが。
――その時、五年前の端切れのような記録が目に留まった。
大戦初期、まだ国からの見舞金制度がなかった頃、ある冒険者パーティが仲間を亡くして路頭に迷う遺族のため、ギルド内で「香典のカンパ」を募ったという記録だ。多くの冒険者が銅貨数枚ずつを出し合い、結果としてかなりの大金が遺族に渡っていた。
「……これだ」
俺はバチンと指を鳴らした。
「シルフィ。この見舞金の巨大な支出を国庫から消し飛ばす方法が見つかった」
「えっ! 冒険者への支払いをなくすんですか? 暴動が起きますよ!」
「国の出費は消す。だが、冒険者たちへの支払い額はそのまま、いや、むしろ今よりお得にするんだ」
俺の言葉に、シルフィは信じられないものを見るように目を丸くした。
「そんな魔法のようなこと、できるわけが……魔法でも無理ですよ!」
「魔法じゃない、数字のマジックだ。……シルフィ、お前、さっきのあのギルドのカンパ記録を見たよな。あれを思い浮かべてくれ。例えば、王都にいる冒険者五千人が、全員で毎月銅貨二枚ずつ貯金箱に入れる」
「はい……毎月一万枚の銅貨、つまり金貨百枚ですね」
「誰かが怪我をしたり死んだりしたら、そこから治療費や見舞金をドドンと出す。どうだ? 一人の物理的な負担はたった銅貨二枚で済むのに、いざという時はとんでもない大金が保証される」
大勢の数を利用したリスクと負担の分散。「保険」と呼ばれる、俺のいた世界の知恵だ。
「はっ……! それなら、国がお金を払わなくても、冒険者たちがあらかじめ自分たちでお金を出し合っているから……」
「そういうことだ。しかも集まってプールされた金を運用して少しずつ増やせば、掛け金をもっと安く還元できるかもしれない。これを実現するために、国からも冒険者ギルドからも独立した、新しい団体を作る。名付けるなら『保険ギルド』だ」
シルフィの真ん丸な翠色の目が、尊敬と驚嘆でいっぱいになった。
「すごいです、ケイ様! それなら誰も損をしません! 割り勘のすっごい版ですね!」
「……まあ、分かりやすく言えばそんなところだ」
俺が苦笑すると、シルフィは自らの胸の辺りをぎゅっと握りしめ、少しだけ潤んだ目を見せた。
「……でも、素晴らしい案です。私、全力で協力します。少し思ったのですが、独立した『保険ギルド』なら、冒険者だけじゃなくて、王宮の文官や兵士も加入できるんじゃないでしょうか? 父のような悲劇を少しでも減らせるなら」
「シルフィのお父さん?」
「……はい。私の父は王宮の文官だったのですが、数年前に働きすぎで倒れまして……。当時の遺族への補償はありましたが十分とは言えず、母も病気で。私がメイドとして働くことになったんです」
ふうん。この子の教養の高さは、そういうことだったのか。
「任せろ。この制度ができれば、急な不幸で路頭に迷う遺族はいなくなる。俺のスローライフのついでにな」
「はいっ! ぜひやりましょう、ケイ様!」
こうして、結果として俺の「スローライフのための国家経済改革」の実質的な第一歩が幕を開けた。
すべては、自分の安眠と二度寝の未来を守るために。
次に立ちはだかるのは魔王軍ではなく、頑固なギルドの幹部たちだ。だが問題ない。剣ではなく、一切の情を挟まない圧倒的な数字のロジックで黙らせてやる。
◇
翌日。俺とシルフィは、王都の中心部にある冒険者ギルドの本部を訪れていた。
スローライフを宣言して図書室に引きこもるつもりが、わずか数日で外回りの営業に出るハメになっている。人生とはままならないものだ。
「……で? 王宮の『特命財務官』様が、我々ギルドに何の用ですかな。勇者ケイ殿」
ギルドマスターの執務室。
分厚い一枚板のデスクを挟んで俺を睨みつけているのは、歴戦の戦士特有の威圧感を放つ初老の男、ギルドマスターのバルドだった。
俺が勇者であることは知っているため、一応は敬語を使ってはいるが、その声には明らかな警戒と敵意が混じっていた。
「単刀直入に言おう。国からの『死亡見舞金』の制度についてだ。このままでは近い将来、国庫が破綻して銅貨一枚も払えなくなる。だから、新しい制度に移行してもらいたい」
俺がそう切り出した瞬間、バルドの顔に青筋が浮かんだ。
「……やはり、見舞金の打ち切りですか。国を救うために血を流した冒険者たちを、用済みとして切り捨てるおつもりか。恩知らずな王宮らしいやり方だ。勇者殿とはいえ、到底看過できる提案ではありませんな」
今にも立ち上がって剣を抜きそうな気配だ。だが、俺は慌てず手元の資料を一枚、彼の方へ滑らせた。
「打ち切りじゃない。むしろ、冒険者にとってもっと割のいい、そして確実な制度への移行だ」
「割のいい制度……?」
「ああ。今の見舞金制度は、国が全額を負担している。だが国には金がない。支払いが遅れたり、いずれ減額されたりするのは目に見えているだろう?」
バルドは渋い顔で頷いた。実際、彼らも城の厳しい懐事情は肌で感じているはずだ。
「そこで、我々が新設する『保険ギルド』への団体加入の提案だ。簡単に言えば、冒険者たち自身に毎月少額の掛け金を出してもらい、一つの巨大な独立した財布を作る」
「冒険者から金を毟り取るというのですか! ふざけないでいただきたい!」
「最後まで聞け。冒険者が払うのは、月に銅貨二枚程度だ。酒場のビール一杯にも満たない。だが……もし誰かが死んだり、重傷で引退を余儀なくされた時は、その巨大な財布から即座に、現在の見舞金と同額か、それ以上の金が支払われる仕組みだ」
バルドの目が大きく見開かれた。
「月に銅貨二枚……それで、遺族に金貨が手渡されると?」
「そうだ。一万人いる冒険者全員が毎月銅貨二枚を出せば、それだけで金貨二百枚になる。全員が毎月死ぬわけじゃない。金は常にプールされ、本当に必要な奴のところにだけドカンと降りる。俺の故郷にあった、保険と呼ばれるシステムだ」
「毎月五千人の冒険者様が銅貨二枚ずつお支払いして頂ければ、過去の死亡率から計算すると、保険の運営は十分可能です」
と、隣で聞いていたシルフィが補足を入れる。
俺はさらに言葉を重ねる。
「国の金庫から出る金じゃないから、支払いの遅延もない。ギルドが独自でプール金を管理すれば、誰にも文句は言わせない。どうだ? 金もない国に首根っこを掴まれてビクビクするより、ギルドの自治機能として、自分たちで互助の仕組みを見直してみる気はないか?」
バルドは食い入るように、俺の提出した計画書の図を見つめていた。
歴戦のギルドマスターだ。情に厚いが、頭も回る。俺が提示したシステムの不気味なほどの合理性に気づき始めているはずだ。
「……確かに、計算上はそうなるのでしょう。だが、勇者殿。理屈は分かりますが、宵越しの金は持たないのが冒険者という生き物です。彼らが素直に、起きるかどうかも分からない未来の不幸のために、毎月銅貨二枚を払い続けると納得すると思いますかな?」
バルドの指摘はもっともだった。死への恐怖より、今夜の酒代を優先する連中から「掛け金」を定期的に徴収するのは至難の業だ。
「ああ、普通に説明しても誰も払わないだろうな」
「では、どうするおつもりか?」
俺はニヤリと笑った。
経理担当をなめるな。人を動かすのは、いつだって得をしたいという欲望と、損をしたくないという危機感だ。
「簡単なことだ。本来、怪我なく一年を無事に過ごせた加入者には、年末に掛け金の一部を還元する『無事故ボーナス』という仕組みを作るんだ。ただし、今月中に加入した初期メンバーに限り、一年後のその『無事故ボーナス』を受け取る権利が貰える」
「えっと、つまりどういうことですか?」
「冒険者は、自分が死なないと思ってるなら今月中に保険に入ると得、死ぬと思っていても入ったほうが得という状況が生まれる」
「なるほど!ただ、さっき国には全くお金の余裕がないと言ったばかりではないですか!この仕組みでは、元手がいくらか必要でしょう。どうなさるのです?」
バルドが困惑の声を上げる。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「決まってんだろ。前任のガモンから全財産と不動産を没収した。あいつが溜め込んでいた私財と横領金、すべてこの保険の元本として突っ込む。国庫から見れば手元に残らない一時金だが、将来の数千枚の赤字が永遠に消えるなら安い投資だ」
悪党の金を使って、国家の赤字を消滅させ、民を救い、俺の安眠を守るシステムを作り上げる。
ガモン子爵の私財没収。それが俺の用意した、最初の錬金術の種銭だった。
「……勇者殿。本気ですか」
バルドの表情から敵意が消え、底知れぬ化け物を見るような畏怖の念が浮かび上がっていた。
俺はただ、スローライフを守るための経理的判断を下しているだけなのだが。
「二・三日後に、王都の中央広場で大々的に発表を行う。そこで冒険者たちの大衆を納得させてみせよう。ギルド側の協力、頼めるな?」
「……承知いたしました。特命財務官殿のそのお手並み、拝見させていただきます」
バルドが深く頭を下げた。
よし、これでハードルは一つ越えた。次は、一癖も二癖もある王都の大衆に向けた特大のプレゼンだ。
俺の平穏無事な年金生活までの道のりは、まだまだ遠そうだった。




