第3話
図書室の扉が閉まり、ガモン子爵の慌ただしい足音が完全に遠ざかってから――俺は椅子に深く沈み込み、盛大に頭を抱えた。
「……やってしまった」
スローライフ計画、一日目で重大なつまずきである。
財務局次長などという、金庫の鍵を握る厄介な相手を完全に敵に回してしまったのだ。ガモンに報酬や予算を止められれば、俺の静かなスローライフは終わってしまう。
平穏無事に本を読んで暮らす夢が、音を立てて崩れていく。
「意外ですね。ケイ様はもっと冷静な方だと思っていました」
シルフィが不思議そうに覗き込んでくる。
「いや、あいつが悪いんだ。せっかく二時間かけて揃えた書類を靴で踏んで崩しやがって……」
「そ、そこですか? 普通は国のお金を横領していたことに怒るのでは……」
「横領なんてどうでもいいんだよ。あの野郎、せっかくページ順に直した書類を……もう、順番わからなくなっただろ……」
だが、このまま泣き寝入りするわけにはいかない。ガモンからの報復を防ぎ、俺の寝床と飯の保証を守るためには先手必勝。奴の息の根を経済的に完全に止めるだけの材料が必要だ。
「シルフィ。徹夜確定だ、手伝ってくれるか?」
「はい! もちろんです!」
俺はガモンが残していった『臨時雑費』の紙を指で弾いた。
「明日、これを陛下に突きつけてガモンを失脚させるのは簡単だ。だが……これだけじゃ奴の言い逃れを許すかもしれない。どんな卑劣な弁舌も通じないよう、この国の財務状態の全貌と奴の不正の『完璧な証明書』を今夜中に作り上げるぞ」
俺とシルフィは、図書室の奥底に眠る古い帳簿を次々と引っ張り出し、一枚一枚精査を始めた。
夜が更け、月明かりとランプの灯りだけが頼りになっても、俺の職業病による集中力は途切れなかった。シルフィもまた、驚異的なペースで数字の色を識別し、俺がそれを強固なロジックと計算式へと翻訳していく。
それはかつて魔王の城で徹夜の強行軍を行ったときよりも、遥かに熱を帯びた、そして静かなる死闘だった。
◇
翌朝。
王城の小会議室では、国王と数名の重鎮を前に、ガモン子爵が大げさな身振り手振りで熱弁を振るっていた。
「陛下! 勇者ケイ殿の振る舞いはいささか度を越しております! 図書室の貴重な資料を無断で破棄し、あまつさえ注意を促した私に暴言を吐く始末! 魔王討伐のストレスからか、精神に異常を来しているとしか思えません。ただちに彼を城から追放すべきです!」
ガモンの額には脂汗が浮いていた。昨晩の内に勇者を精神異常の不審者に仕立て上げ、図書室ごと封鎖してしまう腹だ。
王は困惑したように眉をひそめ、隣の宰相と顔を見合わせた。
「しかしな、ガモン。ケイ殿は魔王を討った英雄だぞ。いくらなんでも昨日の今日で……」
「今ならまだ穏便に済みます! 放っておけば、次に彼が刀を向けるのは我々かもしれませんぞ!」
「――刀なんて向けませんよ。暴力よりよっぽどスマートで確実な武器がありますから」
バン、と控えめに扉が開かれ、俺は会議室に足を踏み入れた。
後ろには、分厚い羊皮紙の束を抱えたちょっと寝不足気味のシルフィが続いている。俺自身も目の下に少し隈ができていたが、足取りは羽のように軽かった。徹夜明け特有の、あのランナーズハイに似た状態だ。
王と重鎮たちが息を呑む中、俺はシルフィから受け取った書類の束を、ドサリと円卓の中央に落とした。美しい青インクで整然と書き直された、完璧な『裏付け資料付き告発状』だ。
「陛下。この男が昨晩、図書室の廃棄書類を探りに来た理由をお持ちしました」
「な、何を馬鹿な! それは私の管理する財務機密だ! 陛下、でたらめです!」
「でたらめかどうかは、数字を見て頂ければ一目瞭然です。……シルフィ」
「はいっ」
シルフィが淀みない動作で、一枚のまとめ紙を王の前に広げた。
「ガモン子爵が財務局次長に就任してからの三年間。『臨時雑費』という名目で、毎月きっちり金貨三十枚が引き出されています。そのすべてが、実在しない架空の幽霊商会への支払いとなっています」
「なっ……!?」
「くっ……それは、大戦時の極秘の物資調達ルートで……!」
ガモンが咄嗟に言い訳を口にするが、俺は冷たく鼻で嗤った。
「その幽霊商会の登記先は、王都の裏路地にある廃屋でしたよ。しかもご丁寧に、商会の代表者印と、ガモン子爵が使っている印が完全に一致している。ついでに言うと、その金貨が毎月どこに流れたかも洗いました。子爵の愛人が住む別邸の購入資金と、毎月の維持費ですね。見事に三十枚、ぴったり合致しています」
会議室が水を打ったように静まり返った。
王の顔色は驚愕から、やがて静かな怒りへと変わっていく。
「ガモン……これは、本当か?」
「へ、陛下! 誤解です! これは罠だ!」
「罠? 面白い冗談だ」
俺は机に両手をつき、ガモンを真っ直ぐに見据えた。
「お前が捨てたつもりの過去五年分の領収書、請求書、稟議書のすべてを紐付けし、金の流れを完全に追えるように丁寧に整理してやった。完璧な芸術品だ。お前程度の三流の細工が入り込む隙間なんて、一ミクロンも残ってない」
「ひっ……!」
ガモンは尻餅をつき、口をパクパクと開閉させた。言い逃れの余地など最初から一つも与えていない。経理の怨念を舐めるな。
「……衛兵! このガモンを連行しろ。直ちに屋敷を捜索し、全財産を差し押さえるのだ!」
「へ、陛下ぁぁぁあっ!」
王の冷酷な命令が下り、ガモンは衛兵に引きずられながら退場していった。
静けさが戻った会議室で、俺は一つあくびを噛み殺し、「これでやっと心おきなく寝床が作れる」と安堵の息を吐いた。シルフィも隣でコクリと頷いている。
よし、帰るか。
「待たれよ、ケイ殿」
踵を返そうとした俺を、王の凄まじく真剣な声が引き止めた。
振り返ると、王も宰相も、会議室にいる他の重鎮たちも、まるで救世主を見るような……いや、飢えた狼が極上の肉を見つけたような目で俺を見つめていた。
「その……昨晩一晩で、あのゴミの山からこれほど完璧な帳簿を組み上げ、金の流れを暴き出したと言うのか?」
「ええ。まあ、俺だけじゃ無理でしたけどね。シルフィの計算能力と色覚のおかげです」
「素晴らしい……凄まじい才能だ! まさに神の恩寵!」
「あの複雑怪奇な王国の財務を、たった一晩で……!」
重鎮たちがざわめき始める。彼らの目が「この男を逃がすな」と同調していくのが分かった。
俺は一歩後ずさりした。
「ケイ殿!」
王がガタッと立ち上がり言った。
「頼む! 我が国の財務を……特命財務官として、この国の財政を立て直してはくれまいか!? そなたのその知恵があれば、我が国は救われる!」
「イヤです! 俺はスローライフを送るって決めたんです! 図書室で本を読んでうたた寝するんです!」
俺は断固として拒否した。ふざけるな。魔王を倒した後にブラック企業に再就職させられるなんて、何の罰ゲームだ。
「だが、ガモンが失脚し、今や財務の責任者が不在なのだ! どうか頼む、給与も望むままに出そう!」
「金庫カラッポの国が何言ってるんですか! 払えないでしょ!」
押し問答が続く中、シルフィがそっと俺の袖を引いた。
「ケ、ケイ様……。あの、図書室のままでいいなら、お引き受けしてもいいのではないでしょうか」
「なっ、シルフィ? お前、俺を売る気か?」
「違いますっ! その……財務官という立場になれば、誰も私達の図書室での暮らしに文句を言えなくなりますし……それに、実作業は私が全部やります。ケイ様は、あの、ちょっと指示を出してくださるだけで……後はご自由に本を読んでいただいて構いませんから!」
必死に提案するシルフィ。
……なるほど。言われてみれば、今の俺はただの居候だ。だが「特命財務官の執務室(兼居住区)」という名目になれば、絶対的な不可侵領域になる。
実務をシルフィや他の官僚に丸投げし、俺はハンコを押すだけの天下りポストに収まる。悪くない……いや、前世で夢にまで見た最強のポジションではないか。
「……仕方ありませんね。お引き受けしましょう」
「おおっ! 本当か!」
「ただし、条件があります。俺の執務室はあくまであの図書室です。本棚とベッドも完備します。そして、実務の人員としてシルフィを筆頭財務補佐官に任命し、彼女に十分な権限と給与を与えてください。俺はそこから一歩も動きません。よろしいですね?」
王は破顔一笑し、激しく首を縦に振った。
「もちろんだとも! 好きにするが良い! ああ、これで我が国の未来は開けたぞ!」
こうして、俺の安眠の地は守られたかに思えた。
ガモンという小悪党を排除し、特権階級の引きこもりポジションを手に入れたのだから。
しかし、権限を手に入れた俺が、国の深部の帳簿……本当の負債を目にするのは、まさにこの直後のことであった。




