第2話
その日、俺の夢見たスローライフは、開始五分で崩れ去った。
シルフィに案内されてたどり着いた王立図書室は、控えめに言って「ゴミ溜め」だった。
王城の一角を占めるその空間は、体育館ほどもありそうな無駄にだだっ広い吹き抜け構造になっていた。だが、その広さはすべて不要な紙屑に占領されている。
天井まで届く重厚なオーク材の書架には、本や巻物が無造作に突っ込まれている。ここ数年使われていなかったという言葉通り、広大な床の絨毯は一面羊皮紙の束で埋め尽くされ、はるか頭上の採光窓から差し込む陽光が、宙を舞う凄まじい量の塵をキラキラと照らし出していた。
古い羊皮紙が放つカビと埃の匂いが、肺の奥底まで突き刺さってくる。
「……何だこれ」
「ここ数年、専任の管理官がいなかったため、不要になった資料や古い書類の、捨てるほどではないが保管に困るものが、すべてここに積まれていたようです……」
シルフィが顔を赤らめ、申し訳なさそうに身を縮めている。
城の連中も、誰もわざわざこんな面倒な場所を掃除したがらないというわけだ。
「……まあ、いい。とりあえず、寝床までの道を開くか」
「ケイ様ご自身がですか!?」
「俺は埃っぽいのが嫌いなだけだ。ここで寝起きするんだからな」
俺はため息をつき、近くにあった長大な閲覧用の机に積み上げられた革表紙の本を引っ張り出した。この机もおそらく数人がけで本を読むための豪奢なものだが、今はただの物置と化していた。
机の上を片付けて、さしあたっての寝床、いや作業スペースを作ろう――そう考えた俺の目に、パラリと開いたその本の中身が飛び込んできた。
背表紙には『王国の会計記録・第五期』とある。
その瞬間、俺の全身の動きがピタリと止まった。
汚い。
物理的な汚れではない。情報の汚さだ。
日付が書かれていないのは序の口。金額の桁が揃っていないためパッと見で規模がわからない。費目の書き方がページごとにブレており、何に使ったのか全く不明な行が無数にある。あまつさえ、訂正印もなく黒く塗りつぶされている箇所すらある。
前世の経理部で、こんなものを提出すれば一週間は説教されるレベルの冒涜だ。
俺の眉間がピクリと引きつる。
見なかったことにしよう。俺はもう仕事をしなくていいのだ。勇者すら辞めたのだ。
俺は本を閉じようとした。
だが、右手が言うことを聞かない。
気持ち悪い。
どうしても、この数字のズレが気になって仕方がない。ここを直せばスッキリするのに。ここを揃えれば、このページの淀みが嘘のように綺麗になるのに。
「……くそ」
俺は呻き声を上げ、無意識のうちに近くの羽根ペンを引っ掴んでいた。
職業病のスイッチが入ってしまった。長年染み付いた数字への潔癖性が、魔王を倒した理性すらも凌駕する。
「ケイ様、何を始められたのですか? 掃除では……」
「少し書式を整えるだけだ。これを直さないと気持ち悪くて眠れそうにない」
俺は鬼の形相で帳簿の修正を始めた。
無造作に散乱した書類の山から関連する月別の記録を引っ張り出し、脳内で分散した数値を紐付けし直す。シルフィがオロオロしていたが、やがてそっと部屋を出ていった。
しばらくして、彼女は熱いカモミールティーを淹れたお盆を持って戻ってきた。
「ケイ様、お茶をお持ちしました……」
「ありがとう。そこに置いてくれ」
俺が手を止めずに答えると、シルフィは俺の手元を不思議そうに覗き込んだ。そして、彼女はぽつりと呟いた。
「すごいですね。あの淀んで濁った赤黒い色が、ケイ様の手にかかると澄んだ青に変わっていきます」
「え?」
俺は手を止め、シルフィを見た。
「ケイ様が今開いている記録の本、さっきは数字がドロドロの泥水みたいな色をしていたんです。でも、ケイ様が書き直した紙は、どれも秋の空のような澄んだ色をしています」
……なんと。共感覚というやつか。
前世でも聞いたことがある。数字や文字に色がついて見える天才の話を。
どうやら彼女の目には、計算が間違っている箇所や不自然な数字が濁った色として視覚化されるらしい。
最強の勇者の俺よりよっぽどすごい、チート級のバグ発見器ではないか。
「シルフィ。君の目には、数字ごとの正しさの色が見えるのか?」
「はい。間違った数字や、つじつまの合わない計算は、色が濁って見えるんです。でも、どこがどう違うのかは分かりません。ただ気持ち悪いというだけで……」
俺はニヤリと笑った。それは、有能な部下を見つけた経理課長の顔だった。
「シルフィ。君、俺の助手にならないか?」
「じょ、助手、ですか?」
「ああ。君が濁っていると見つけた書類を、俺が澄んだ色に直していく。この汚い部屋を、数字の淀みごと完全に綺麗に立て直すんだ」
シルフィはぱぁっと顔を輝かせた。
「はいっ! やります! 私も、綺麗な数字が好きです!」
どうせ時間はたっぷりあるし、他にやることもない。暇つぶしに経理の仕事をやってしまうのは社畜の名残だろうかね。
◇
強力な助っ人を得て、作業は倍速で進んだ。シルフィが色で仕分けし、俺がロジックで矛盾を解消していく。
やがて夕暮れ時。西陽が図書室を赤く染め始めた頃、俺はこの王国の面白い事実を発見した。
「……おい、シルフィ。ここを見てくれ」
「はい?」
「この『臨時雑費』と書かれた行だ。毎月月末に入っている。お前の目には、こいつはどう映る?」
シルフィは覗き込み、小さく悲鳴を上げて後ずさりした。
「……そこだけ、ドブみたいに真っ黒で……底が見えない穴みたいな色をしてます」
「そうか。やっぱりな。横領だ」
「オウリョウ……ですか?」
「ああ。帳簿の隙間を利用して、悪い奴が国の金を盗んでいる痕跡だ。誰かがこっそりポケットに金貨を忍ばせているだけだ。」
毎月月末、決まって計上される臨時雑費。金額はきっちり月「金貨三十枚」。
他のズサンな記載に紛れているが、ここだけ妙に規則的だ。本来、『臨時』の費用が毎月寸分違わず同じわけがない。手口としては三流以下だが、誰も監査しないから見逃されてきたのだろう。
その時、図書室の重厚な扉がドカドカと喧しく叩かれた。
息を切らしながら入ってきたのは、仕立ての良い豪奢な服を着た恰幅の良い男だった。脂ぎった顔を紅潮させており、その目は部屋の惨状ではなく、俺の手元の書類を探して泳いでいる。どこか酷く焦っているように見えた。
「私は財務局次長、ガモン子爵です! 勇者様、こんな所で一体何をしているのですか!」
へりくだってはいるが、言葉の端々に剣しか振れない世間知らずの若造と見くびっている冷ややかさが透けていた。
誰も立ち入らないはずの廃棄書類の山に、突然居座った新任の元勇者の管理官。もし過去の記録を漁られたら、と念の為に様子を見に来たのだろう。
「何って、掃除ですよ。部屋と、帳簿の」
俺がそう言って手元の束をトントンと机で揃えると、ガモン子爵の顔色が一気に青ざめた。
「帳簿だと!? 勇者様とはいえ、勝手な真似をされては困ります! それは国家の重要機密です、ただちに私にお返しください!」
ガモンは必死の形相で、俺の机から書類の束をひったくろうと手を伸ばした。
その拍子だ。整理を手伝っていたシルフィの肩に、ガモンの巨体が思い切りぶつかった。
「あっ……!」
「ふんっ、メイド風情がウロチョロと立ち回るな!」
ガモンがシルフィを突き飛ばした。
少女の軽い体が宙を舞い、俺たちが数時間かけて山積みにした書類の束へと突っ込む。
派手な音を立てて、ようやく整理し終えた帳簿の山が、再び無惨に吹き飛び、床一面に散乱した。
「ふん、粗忽な娘だ。さあ、その書類は私が持ち帰らせていただきます」
ガモンは鼻を鳴らし、散らばった紙の海を靴の底で踏み躙りながら、強引に奥へ進もうとする。
俺の中で、プツリと冷たい音がした。
俺は倒れたシルフィに駆け寄り、手を貸して立たせた。怪我はないようだ。
そして、床に落ちた一枚の羊皮紙を静かに拾い上げた。
「……おい。片付けろよ」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。怒声ではない。底冷えする零下の静けさだった。
「は、はあ? お言葉を慎んでいただきたい。勇者様とはいえ、財務を預かる私に向かってどういう口の利き方ですか」
「お前の肩書きなんか知らないな。だが、お前が今踏みつけているその紙……『臨時雑費のまとめ』を、この足で国王陛下に見せに行ってもいいんだぞ?」
ガモンの動きがピタリと止まった。まるで石化の魔法を受けたように。
俺は拾い上げた羊皮紙を、ヒラヒラと見せつけた。そこにはガモンの直筆と思しき、毎月定期的に引き出された痕跡を示す承認印が押されている。
「月三十枚。年間三百六十枚。この国が借金まみれで兵士の鎧も買えない時に、ずいぶん美味しい思いをしてたんだな」
「な、なんの……何のことだかさっぱり……!」
「しらばっくれるなら構わない。これを見た陛下がどう判断するか、試してみるか? それとも、俺が直々に監査の素振りだけでも見せてやろうか」
俺が一歩前に出ると、ガモンはひっ、と喉の奥で悲鳴を上げ、後ずさりした。
腕力に訴える気など毛頭ない。だが、俺が数字の矛盾を正確に理解し、致命傷となる証拠を握っている事実が、この男にはどんな暴力よりも恐ろしく映ったのだろう。
「元通りに片付けてから、ここから消えろ。二度と俺の視界に入るな」
ガモンは顔面を蒼白にしながら、這いつくばって書類をかき集め、逃げるように図書室から転がり出ていった。
嵐が去った図書室で、シルフィが小さな息を呑む。
大戦を終わらせた昼行灯の勇者が、ただの一度も剣を抜かず、本性を見せた瞬間だった。




