第1話
魔王の心臓を貫いた剣を抜き放った瞬間、俺の脳裏をよぎったのは「世界を救った」という高揚感ではなかった。
ああ、これでようやく、泥のように眠れるという、ひどく現実的で、切実な安堵だった。
日本からこの世界に勇者として召喚されて三年。
血反吐を吐くような訓練と、いつ命を落としてもおかしくない魔物との死闘。仲間たちの離脱や死線を越え、俺はようやく魔王討伐という巨大なプロジェクトを完遂した。
凱旋の道中、王都の景色は俺の心をさらに重くさせた。
沿道で歓声を上げる民衆の表情はどこか虚ろで、着ている服は煤け、すり減っている。建物の壁は崩れかけたまま放置され、パレードを警護する兵士たちの鎧は手入れが行き届かず、刃こぼれした槍を持っていた。
長きにわたる大戦は、魔王という脅威を消し去った代わりに、この国の「体力」を完全に奪い去っていたのだ。
熱狂の裏に隠しきれない、底なしの疲弊。
嫌な予感がした。前世、日本のとある企業で経理として働いていた頃――業績悪化を隠しきれなくなった会社で何度も嗅いだ、あの死臭に似ていたからだ。
「――よくやった、ケイ殿。君はついに魔王を討ち果たした。まさに人類の至宝だ。人類を代表して感謝を伝える」
王城の最も奥、豪奢な装飾が施された玉座の間。
王の労いの言葉に、俺は重い鎧の胸当てを鳴らして一礼した。
周囲には、安堵の涙を流す文官や、誇らしげに胸を張る騎士たちが並んでいる。
これで俺の役目は終わりだ。最初の約束通り「金貨一万枚」の報奨金をもらい、このボロボロの国から少し離れた静かな田舎で、一生遊んで暮らす。温かい飯を食って、誰にも命令されず、気の向くままに本を読んで眠る。そんなスローライフが、もうすぐそこまで来ているはずだった。
「では、下がって良いぞ」
「あ、あの、陛下。金貨一万枚の件ですが」
俺が口を開いた瞬間、玉座の間に満ちていた祝祭の空気が、ピシッと凍りついた。
「ああ、それなのだが」
王は気まずそうに視線を逸らした。
背筋に冷たいものが走る。間違いない。この間の取り方、この視線の逸らし方。
前世で「今月のボーナスなんだがな、」と切り出してきた、あの無能な部長と完全に同じ顔だ。
「実は、ないのだ」
「……はい?」
「金庫が空でな」
玉座の間が完全な静寂に包まれる。騎士たちも文官たちも、一斉に床の木目を熱心に観察し始めた。
一国の王が、世界を救った最大の功労者に「金がないから払えん」と宣言したのだ。常識的に考えれば、勇者がここで激昂し、城の半分を吹き飛ばしても文句は言えない場面である。
「……陛下。『討伐後、即時払い』と聞いていたのですが。まさか踏み倒すつもりですか?」
俺の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
「いや、違う! 踏み倒す気はない! だが大戦の影響で、国庫は本当に空っぽなのだ。勇者一行の遠征費、復興支援、他国への援助……気づけば、城の金庫には蜘蛛の巣が張っておる。本当に申し訳ない」
王は深く、重いため息をついた。
嘘ではないのだろう。王都の惨状を見れば、この国に金などないことは小学生でも分かる。
俺はこめかみを揉んだ。
『ふざけるな! 命を懸けた約束だろうが!』と怒鳴り散らすのは簡単だ。だが、暴れたところで無いものは出ない。無い袖は振れないのだ。経理だった俺には、その残酷な事実が痛いほどよく分かっていた。
それに、もう疲れた。戦うことにも、声を荒げることにも。
「……はぁ。分かりました。無いものは仕方ないですね」
「お、おお! 分かってくれるか!」
「ええ。国が破産寸前なのは、街を見れば分かりますから」
俺が肩をすくめると、王も周囲の貴族たちも、目に見えて安堵の息を吐いた。
だが、俺とて慈善事業で魔王を倒したわけではない。タダ働きで野に放たれれば、今夜泊まる宿すらないのだ。
「その代わり、一つ条件があります」
「な、何でも言ってみろ!」
「住む場所と、三食の飯を保証してください。あと、この城で静かで自由な暮らしを」
「!?」
「ただ、毎日ブラブラしているというのも肩身が狭いので、図書室の整理係などに配属して頂けないでしょうか?」
玉座の間が再びざわめいた。
誰もが耳を疑った。最強の勇者が求める代替報酬が、あまりにも慎ましく、ちっぽけなものだったからだ。
「……そ、それだけでいいのか? 大臣の席のような権力も用意できるが」
「いりません。責任ある立場はこりごりです。適当に本でも読みながら、のんびり余生を過ごさせてください」
前世は過労で倒れ、今世は魔物と殺し合い。
俺はただ、静寂と、定時刻に供される飯と、柔らかいベッドが欲しいだけなのだ。
「よかろう! ケイ殿を王立図書室の特別管理官に任命する。衣食住は王家の食客として永代に渡り保証しよう」
「ありがとうございます。……あ、それと。図書室の奥に、住み込み用の管理室がありましたよね? 当面はそこを利用させてください」
「む……? 確かに以前、管理官が寝泊まりしていた部屋があるはずだが……あそこは何年も使われておらず、酷い状態だと聞いておるぞ」
「そこでいいんです」
俺は即答した。
「城から一歩も出なくて済みますし、誰にも邪魔されない。最高じゃないですか」
「し、しかしな、ケイ殿。あそこは……」
「家賃も浮くし、リフォーム不要です。決定!」
俺の勢いに押され、王は渋々といった様子で頷いた。
「む、むう……本人がそこまで言うなら……」
「あと、俺、もう絶対に戦いませんからね。魔王も死んだし、勇者は今日で廃業です」
「……長きに渡る忠義、感謝に堪えない」
王が手を叩くと、控えの扉から一人の少女が進み出てきた。
淡い亜麻色の髪を首筋で切り揃え、大きな翠色の目をした、小柄なメイド服の少女だった。
「ケイ殿。彼女はシルフィだ。貴殿の生活のサポートと、城内の案内を任せよう」
「よろしく、シルフィ。俺は面倒なことは何もしないから、君も適当に手を抜いててくれよ」
「は、はいっ! 王命により、誠心誠意お仕えいたします、勇者様!」
彼女はガチガチに緊張した面持ちで、折り目正しく九十度の礼をした。
真面目そうな子だ。まあ、適当にいなしてやればいい。今の俺の頭の中は、早く鎧を脱いでゆっくり休みたいという欲求で埋め尽くされていた。
「では、図書室へ案内します。こちらへ」
シルフィの先導で玉座の間を後にする。
背中越しに、重役たちがほっと胸を撫で下ろす気配を感じたが、どうでもよかった。
金貨一万枚は夢と消えた。だが、これでブラック労働からは永遠に解放されたのだ。
家賃ゼロ、通勤時間ゼロ、三食昼寝付きの公務員スローライフ。前世の俺が聞いたら血の涙を流して羨むような待遇である。
今日からは、ただ静かに、本を読んで暮らす。埃を払って、陽だまりの中でうたた寝をするのだ。
――この時の俺は、底抜けに甘かった。
長らく使われていない図書室。国の金庫が空っぽであるという事実。
それらが結びついた時、あの場所に何が吹き溜まっているかなど、思考が回っていなかったのだから。




