表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

そして、光が満ちる

作者: 久遠 睦
掲載日:2025/10/02

第一部:蝉の年


第一章:カレンダーの専制


洗面台の冷たい白が、朝のぼんやりとした光を反射していた。鏡に映る自分の顔は、三十八歳という年齢以上に疲れているように見える。佐藤灯里は、消毒用のアルコール綿で腹部の皮膚を拭った。ひんやりとした感触と、ツンと鼻をつく匂いは、もはや彼女の日常の一部だった。

冷蔵庫から取り出したホルモン注射のアンプルを指先で弾き、慣れた手つきで注射器に薬剤を吸い上げる。この小さなガラス瓶と針が、ここ数年の彼女の世界の中心だった。クリニックのスケジュールに支配された生活。毎朝の基礎体温、決まった時間の自己注射、定期的な採血と超音波検査。夫の優斗との夜の営みでさえ、排卵日という義務に縛られ、かつての自然な温かみは薄れて久しい 。

針を刺す。ちくりとした痛みは一瞬だが、薬剤が体内に入っていくにつれて、鈍い重さが腹部に広がる。この後には決まって、むくみや吐き気、理由のない気分の落ち込みがやってくる 。それが、妊娠判定日までの長く苦しい二週間をさらに耐え難いものにするのだった 。

「私のせいだ」

その言葉が、何度も胸の中で繰り返される。不妊の原因は男女半々だと頭では分かっていても、自分の体が思うように機能しないという現実は、「女性としての役割を果たせていない」という自責の念を容赦なく掻き立てる 。清潔で、どこか非人間的なクリニックの待合室に座っていると、まるで自分が不良品であるかのような気分にさえなるのだった 。厚生労働省の調査によれば、不妊治療をやめる理由の第一位は「精神面での負担が大きいこと」だという 。その数字を見るたび、灯里は自分だけではないのだと少しだけ安堵し、同時にこの見えないトンネルの中で同じように苦しんでいる人々の存在に胸が痛んだ。


第二章:静かな強さ


その夜、優斗が仕事から帰宅すると、灯里はソファの上で毛布にくるまって動かなくなっていた。彼は何も言わず、ただいま、とだけ呟いてキッチンに向かう。やがて、生姜の爽やかな香りが漂ってきた。

「灯里、お茶。飲めるか?」

差し出されたマグカップから立ち上る湯気が、冷え切った彼女の心を少しだけ温める。優斗は灯里の隣に腰を下ろし、腫れぼったい彼女の足首を優しく揉み始めた。気休めの言葉も、無理な励ましもない。ただ、静かにそばにいてくれる。それが、今の灯里にとって何よりの救いだった 。

治療を始めたばかりの頃は、こうではなかった。優斗もまた、プレッシャーと無力感に苛まれていた。「俺も辛いんだ」「仕事だって大変なんだ」という彼の言葉が、灯里をさらに孤独にさせた時期もある 。男性にとって、不妊治療はどこか他人事で、「女性の問題」だと思いがちだという記事を読んだことがある 。優斗も最初はそうだったのかもしれない。しかし、何度も話し合い、灯里の涙を見て、彼は変わった。

今では、クリニックの予約は共有カレンダーで二人で管理し、難しい専門用語が並ぶ説明会にも必ず付き添ってくれる。食事に気を遣い、週末には一緒にウォーキングに出かける。それは、不妊治療を「灯里の問題」から「二人の共同プロジェクト」へと捉え直すための、彼の静かな努力の表れだった 。

「ありがとう」

灯里がかすれた声で言うと、優斗は「いいんだ」とだけ答え、彼女の髪をそっと撫でた。この治療を通して失ったものも多いが、この人の優しさの深さに気づけたことだけは、唯一の救いかもしれない。治療が夫婦の関係を壊すこともあるというが、幸いにも二人の絆は、この試練を経てより強くなっているように感じられた 。


第三章:最後の約束


電話が鳴ったのは、師走の冷たい雨が降る午後だった。クリニックの看護師からの、いつもと変わらない事務的な、しかし優しい声。結果は、陰性。今年最後の体外受精も、実を結ばなかった。

受話器を置いた後も、灯里はしばらくその場から動けなかった。悲しいというより、虚無だった。まるで感情だけがどこかへ抜け落ちてしまったようだった。帰宅した優斗は、灯里の様子を見てすべてを察した。彼は何も言わず、ただ黙って灯里を抱きしめた。その腕の中で、ようやく堪えていた涙が溢れ出した。

その日の夕食は、ほとんど喉を通らなかった。食卓を挟んで、二人は長い間黙り込んでいた。沈黙を破ったのは、灯里だった。

「もう、やめたい」

絞り出すような声だった。

「もう、頑張れない」

それは怒りや絶望から出た言葉ではなかった。ただ、心と体が限界だと告げていた 。医師のスケジュール通りに治療を受け続ける、まるでベルトコンベアに乗っているかのような日々に、自分の感情は置き去りにされていた 。経済的な負担も、もう限界に近かった 。

優斗は静かに頷いた。

「わかった。よく頑張ったよ、灯里。本当に。…今年が最後だって、約束したもんな」

二人の間で交わされた、暗黙の約束。もし今年ダメだったら、きっぱりと諦めて、二人だけの人生を考えよう、と。その決断は、途方もない葛藤の末にたどり着いたものだった 。

「諦める」という言葉は、敗北のように響く。けれど、その言葉を口にした瞬間、灯里の心を縛り付けていた重い鎖が、ふっと軽くなるのを感じた 。カレンダーの専制から解放される。ホルモン剤の副作用に怯えなくていい。期待と失望のジェットコースターに乗らなくてもいい。その解放感は、喪失感と同じくらいの大きさで、彼女の心に広がっていった 。


第二部:印のない日々


第四章:再び呼吸を始める


年が明けると、世界から色が戻ってきたようだった。ホルモン剤が体から抜け、灯里は久しぶりに自分自身の体のリズムを取り戻した。週末に予定がない、ということが、これほど自由だとは思いもしなかった。

二月のある週末、二人は思い立って箱根の温泉へ向かった。これまでなら、治療のスケジュールを考えると絶対に不可能だった、気まぐれな小旅行。雪見風呂に浸かりながら、優斗がぽつりと言った。

「こんな時間、久しぶりだな」

灯里は黙って頷いた。治療以外のことを考え、治療以外のことで笑い合う。そんな当たり前のことが、ひどく新鮮で、かけがえのないものに思えた 。

治療をやめた後の心のケアが重要だと、何かで読んだ 。二人は意識的に、これまで後回しにしてきた「楽しみ」を取り戻そうとしていた。一緒に映画を観たり、少し遠くの美味しいと評判のパン屋まで散歩したり、ただリビングでだらだらと本を読んだり。その穏やかな時間は、傷ついた心と体をゆっくりと癒していった 。

街で妊婦や小さな子供連れの家族を見かけると、今でも胸の奥がちくりと痛む。けれど、その痛みは以前のような鋭いものではなく、鈍い、諦めに似た感傷に変わっていた。子供のいない人生。その現実を、少しずつ受け入れ始めていた。


第五章:いつもと違う遅れ


桜が満開になった四月。灯里の月経が遅れていた。

いつもは驚くほど正確な周期が、一日、二日とずれていく。最初は気にも留めなかった。何年もの間、ホルモン漬けだったのだ。体が正常なリズムを取り戻すには、時間がかかるだろう。そう自分に言い聞かせた。

しかし、遅れが一週間を過ぎた頃、灯里の心に小さな、しかし無視できないさざ波が立ち始めた。まさか。そんなはずはない。奇跡なんて、そうそう起こるものではない。何度も何度も自分に言い聞かせ、かえってそのことばかりを考えてしまう。

体に微かな変化があった。口の中に、まるで金属を舐めたような奇妙な味がする。そして、説明のつかないだるさ。治療中に何度も経験した症状に似ている。だが、それを希望と結びつけることを、灯里は頑なに拒んだ。期待は、これまで何度も彼女を裏切ってきたのだから 。

そのことは優斗にも言えなかった。この穏やかな日常を壊したくなかった。二人で築き始めた、新しい平和を。もしこれがただの勘違いだったら、彼をがっかりさせてしまう。その恐怖が、灯里の口を重く閉ざさせた。


第六章:二本目の線


さらに数日が過ぎ、灯里はもう無視できなくなった。仕事帰りにドラッグストアに寄り、誰にも見られないようにそっと妊娠検査薬をカゴに入れた。

自宅のトイレで、一人、説明書を何度も読み返す。心臓が早鐘のように鳴っていた。結果を待つ数分間が、永遠のように長い。

そして、現れた。

判定窓に、うっすらと、しかし確かに浮かび上がる、二本目の線。

灯里は息を呑んだ。信じられなかった。何度も目をこすり、角度を変えて見てみるが、線は消えない。喜びよりも先に訪れたのは、深い困惑だった 。

その夜、帰宅した優斗に、震える手で検査薬を見せた。彼はそれを受け取ると、灯里と同じように、ただ黙って見つめていた。やがて、彼の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

数日後、二人はあのクリニックの門を再びくぐった。かつては絶望の象徴だった待合室が、今は祈りの場に変わっていた。診察室に呼ばれ、内診台に上がる。モニターに映し出された、小さな黒い影。

「…心拍、確認できますよ。おめでとうございます」

医師の穏やかな声と共に、トクトクトク…という、力強く、そして速い音が診察室に響き渡った。その瞬間、灯里の目から涙が溢れ、止まらなくなった。隣で手を握る優斗の肩も、小刻みに震えていた 。

諦めたはずの奇跡が、今、確かにここにあった。治療のストレスから解放されたことで、心身がリラックスし、自然な妊娠に至るケースは稀にあると聞く 。自分たちに起きたことがそれなのかは分からない。ただ、この小さな命の音は、これまでのすべての苦しみを洗い流してくれる、何よりの祝福のように聞こえた。


第三部:希望の器


第七章:つわりの海


妊娠の喜びは、すぐに壮絶な身体的試練へと姿を変えた。灯里を襲ったのは、想像を絶するほどの「つわり」だった。

それは「モーニングシックネス」などという生易しいものではなく、一日中、絶え間なく続く吐き気の波だった 。特に苦手になったのは、炊き立てのご飯の匂い。日本人である自分から、最も基本的な食の喜びを奪うその香りは、灯里を何度もトイレに駆け込ませた 。

家の中は、彼女が唯一受け付けられるレモンやミントのアロマオイルの香りで満たされた 。優斗は一切の料理を引き受け、匂いの立たない冷たいそうめんや、酸味の効いたトマトなどを食卓に並べた 。

灯里のつわりは、複数のタイプが混在していた。食べても吐いてしまう「吐きづわり」、かと思えば、空腹になると猛烈な吐き気に襲われる「食べづわり」 。夜中に気持ち悪さで目が覚めることも多く、枕元にはクラッカーと炭酸水のペットボトルが常に置かれるようになった 。

年齢とつわりの重さには直接の関係はないと医師は言ったが、三十代後半の体には、この終わりの見えない不調と疲労が重くのしかかった 。それでも、お腹の中にいる小さな命を思うと、不思議と力が湧いてくる。この気持ち悪さは、赤ちゃんが元気に育っている証拠。そう思うことが、唯一の支えだった。


第八章:計測される心拍


三十八歳での初産。灯里は自動的に「ハイリスク妊婦」のカテゴリに入った。定期健診は、喜びと不安が交互に押し寄せる、感情の綱渡りのような時間だった。

健診のスケジュールは、妊娠初期は四週間に一度、中期に入ると二週間に一度、そして後期には毎週へと変わっていった 。毎回、血圧、体重、尿検査、子宮底長の測定が行われる 。そして、何よりも待ち遠しく、同時に恐ろしいのが超音波検査の時間だった。

暗い部屋に、エコーの機械音が響く。モニターに映し出される、我が子の姿。最初は豆粒のようだった命が、少しずつ人の形になり、手足を動かしているのを見るたび、愛しさが込み上げる 。そして、心音を確認する瞬間。規則正しく力強い心拍音が聞こえると、張り詰めていた全身の力が抜け、安堵の息が漏れる 。

しかし、安堵と同時に、医師からの説明には常に「年齢によるリスク」という言葉がついて回った。妊娠高血圧症候群、妊娠糖尿病 。そうした言葉を聞くたびに、ようやく手にした幸福が、指の間からこぼれ落ちてしまうのではないかという恐怖に襲われる。流産の不安は、安定期に入っても心の隅から消えることはなかった 。この、天にも昇るような喜びと、地の底に突き落とされそうな不安が同居する奇妙な精神状態は、おそらく長い不妊治療の末に子どもを授かった者に特有のものなのだろうと、灯里は思った 。

第九章:名前を選ぶ


妊娠後期に入り、灯里のお腹は目に見えて大きくなった。胎動が、ぽこぽことした可愛らしいものから、ぐにゃり、どすん、という力強いものに変わる。赤ちゃんの存在が、日に日にリアルになっていく。

そうなると、二人の間の会話は自然と赤ちゃんのことで満たされるようになった。ベビーベッドを組み立て、小さな肌着を水通しする。そして、一番の楽しみは、名前を考えることだった。

週末の夜、二人はリビングのソファで、名付け辞典やウェブサイトを眺めながら、ああでもない、こうでもないと話し合った。それは、彼らが未来を描く、最も具体的で幸福な時間だった。

灯里は、気に入った名前をノートに書き留めていった。それは、二人の願いと希望のリストだった。

漢字

読み

選んだ理由

美桜

みお

「美しい桜」。決して来ないと思っていた春の象徴。二人の新しい始まりを表す名前 。

陽葵

ひまり

「ひまわり」。暖かさと光、そして常に太陽の方を向く姿。二人が持ち続けた希望の光のように 。

結菜

ゆいな

「縁を結ぶ」。この子が家族の絆を完成させてくれる。そんな願いを込めて 。


このリストを眺めていると、まだ見ぬ我が子への愛情が、胸いっぱいに広がっていくのがわかった。


第十章:オフィス最後の日


妊娠三十四週。出産予定日の六週間前を迎え、灯里は正式に産前休業に入ることになった 。

最終出社日、部署の皆がささやかな壮行会を開いてくれた。「元気な赤ちゃんを産んでね」「待ってるからね」。同僚たちの温かい言葉に、何度も頭を下げた。上司に「産前産後休業届」を提出し、後任への引き継ぎも無事に終えた 。

会社の自動ドアを抜け、外に出た瞬間、不思議な感覚に襲われた。社会人になってからずっと、自分は「会社の佐藤さん」だった。明日から、自分は何者になるのだろう。ただひたすらに、出産という大仕事の「時」を待つ存在。それは、大きな解放感と、ほんの少しの戸惑いを伴う、人生の大きな転換点だった。

夕暮れの道を、大きなお腹を抱えてゆっくりと歩く。これからは、この子のことだけを考えていい。その事実が、灯里の心を穏やかな期待で満たしていた。


第四部:最初の音


第十一章:予定より早く


予定日を二週間後に控えた、深夜。灯里は、下着が濡れるような感覚で目を覚ました。トイレに行くと、おりものに血が混じっている。

「おしるし…」

産院の母親学級で習った、お産の兆候の一つだ 。灯里は隣で眠る優斗をそっと起こした。

「優斗、始まったかもしれない」

彼の顔に緊張が走る。しかし、二人は慌てなかった。おしるしがあっても、すぐに陣痛が来るとは限らない。まずは落ち着いて、陣痛の間隔を計ることからだ。不規則な、生理痛のような痛みが時折やってくる。まだ前駆陣痛の段階らしかった 。

「シャワー、浴びておこうかな」

灯里がそう言って立ち上がった、その時だった。

ばしゃり、と生温かい液体が足元に広がる。破水だった 。

こうなると、話は別だ。感染症を防ぐため、すぐに入院しなければならない 。

「病院に電話する!」

優斗の声が飛ぶ。灯里がお産用パッドを当てている間に、彼は事前に登録しておいた「陣痛タクシー」を呼び、玄関にまとめてあった入院バッグを掴んだ 。準備しておいてよかった、と心から思う。車に乗り込むと、本格的な陣痛の波が、ついに灯里を襲い始めた。


第十二章:産声


分娩室の時間は、現実とは違う流れ方をしていた。

規則的に響く、赤ちゃんの心拍モニターの音。そして、数分おきにやってくる、体の内側からすべてを押し出そうとするような、原始的な痛み。灯里は、時間の感覚も、羞恥心も、何もかもを失っていた。

その中で、唯一確かなものが二つあった。一つは、お腹の赤ちゃんの力強い心拍。もう一つは、ずっと手を握り、汗を拭い、声をかけ続けてくれる優斗の存在だった。

「灯里、上手だよ!」「もう少しだ、頑張れ!」

彼の声が、遠のきそうになる意識を何度も引き戻してくれた。

助産師の声が響く。「はい、次でいきんで!」。

灯里は、残っているすべての力を振り絞った。長い、長い、息を止める時間。そして。

ふっと、体が軽くなる解放感。

次の瞬間、部屋中に響き渡った。

「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ!」

力強い、生命力に満ちた赤ちゃんの最初の叫び声。「産声」だった。

「生まれましたよ、元気な女の子です!」

涙で視界が滲む中、温かい小さな体が灯里の胸の上に置かれた。小さいけれど、ずっしりと重い、命の重み。何年もの間、焦がれ続けたこの温もり。注射の痛みも、終わりの見えない治療の絶望も、つわりの苦しさも、すべてがこの瞬間のためにあったのだと、灯里は悟った。隣で、優斗が声を上げて泣いていた。


エピローグ:新しい朝


数日後、灯里は病院のベッドの上で、新しい生活のリズムを学んでいた。日本の産院では、経膣分娩の場合、産後六日間ほど入院するのが一般的だ 。その間、助産師が授乳の仕方、おむつの替え方、そして沐浴のやり方まで、手取り足取り教えてくれる 。眠れない夜が続き、体は疲労困憊だったが、腕の中の小さな存在を見つめているだけで、心が満たされていった 。

退院から数ヶ月が過ぎた、ある朝。

かつては静まり返っていた二人のマンションは、今やベビーベッドやベビーカー、山積みのガーゼやおむつといった、新しい家族の存在を主張するもので溢れていた 。

灯里は、ぐずり始めた娘を抱き上げ、優しく揺する。あの日、ノートに書き留めた名前の中から選んだ、「美桜みお」という名前。

キッチンからは、優斗が淹れるコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。

それは、どこにでもある、ありふれた朝の光景だった。

しかし、灯里と優斗にとって、それは長い冬の果てにようやく訪れた、奇跡のように眩しい、幸福そのものだった。腕の中の美桜の寝顔を見つめながら、灯里は静かに微笑んだ。

私たちの春が、ようやくやってきた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ