やさしいおさけ
お酒の味って、日々の積み重ねによって変わっていくのかもしれませんね。
コロンさん主催『酒祭り』参加作品です。
その居酒屋は、俺達二人が通っていた大学から一駅離れた、寂れた商店街の一角にあった。
商店街は当時からシャッター通りの様相を呈してはいたが、20年近い月日の流れはその色味をより深いものへと変えていた。
大学そばの、当時は田んぼだった土地は整備されて、今では商業施設が立ち並んでいる。そんな時の流れを今し方見て来たばかりだから、商店街のこの変化は素直に受け止められる。
それだけの時間が積み重なっている。
子供が育って、久しぶりの夫婦旅行。この懐かしい土地を選んで二人だけの思い出に浸っている事に、何だかむず痒い感覚を覚える。
まるで、妻と交際を始めたあの頃に戻ったみたいだった。
懐かしいこの居酒屋の店構えは、あの頃と大きくは変わらなかった。黒ずんだ木製の板で化粧した外観。でもその所々にヒビが目立ち、シミのような汚れが付着している。
妻と顔を見合わせた。きっと、俺たちの顔も同じように、ヒビやシミが目立ち始めているのだろう。妻に向かってそんな事を口に出せるわけないけど、俺がその変化を肯定的に捉えていることは、妻にもわかってもらいたい……なんて事を取り留めもなく考える。
予約していた個室に通される。
妻に想いを伝えたのも、妻に誕生日のプレゼントを手渡したのも、逆に妻からプレゼントされたも、この個室だった。
今思えばムードもへったくれもない大衆居酒屋の個室にすぎない。
でも大学生の俺たちにとって、ここは『大人』の住処だった。俺達が少し背伸びをして大人の世界を覗き見るには、おあつらえ向きの場所だった。
自然とお酒のチョイスも、あの頃の感覚に戻っていく。最近はプリン体を気にしてウイスキーや焼酎ばかり飲んでいるけれど、あの頃は甘ったるいお酒をジュースのように飲み、大人を気取って生ビールを傾けていたと思う。
「この、ゆずのお酒、飲もうよ」
お酒で頬を熱らせた妻が、メニュー表を指さしながら俺の顔を見る。俺は頷いて、食器を下げにきた店員の女性に注文する。
「あー、このゆず酒……ロックで2つお願いします」
あの頃、俺と妻は好んでこのお酒を頼んでいた。
ロックで味わうこの銘柄の『ゆず酒』は、当時の俺達にとってはあまりにも濃厚に感じられた。
口の中を痺れさせるアルコールと、舌を包み込むゆずの酸味と苦味。それはソーダやドリンクで割ったお酒しか飲んでいなかった俺達にとって、眉間に皺を寄せるような強烈な味として記憶されていた。
あれから20年経った。
酸いも甘いも知り尽くした――とは言えないけれど、人並みに人生の辛酸を舐め、それと同じくらい日々の微かな甘みを感じながら生きてきた。
そんな日々を共に歩んでくれた女性が、今目の前で頬杖をつき、シワが増えて少し太った俺の顔を眺めている。
お酒が運ばれてきた。
それは淡い黄色で、春の午後に居間のカーテンの隙間から差し込む陽の光に似ていた。
グラスを合わせて、口に含む。
あの頃あれだけ強烈だったゆずのお酒は、酸味や苦味の奥底に、微かな甘みを感じることができた。
「記憶より、やさしい味……」
妻がつぶやく。
「だね、やさしいお酒だ」
そう感じさせてくれる人の存在に感謝しながら、俺はもう一口、そのやさしいお酒を口に含んだ。
学生の頃を思い出しながら、感じ入りながら、朝のひと時に書きました。思い出をモチーフに書きましたが、創作を含んでるのでエッセイではないのです。夫婦で旅行行きたい……。
ちなみに本作に出てくるゆず酒は、銘柄を忘れてしまって……今でも同じ味のものを探してますが、見つけられてません。甘さ控えめで、すごく酸っぱかった記憶があります。思い出補正で元の味がわからなくなっちゃってるのかも……(^◇^;)