想い出シャーレ
真っ白な部屋の中、白衣を着た男が、まだあどけなさの残る青年に、透明な蓋付きのシャーレを渡す。
「レン。この匂いはどうだ? これは東アジア日本国の、ニクジャガという家庭料理だ」
シャーレの蓋を開けて、青年が鼻を近づける。すうっと吸うと、そのまま目を閉じた。
「ニクジャガ……んー、好きか嫌いかと問われれば、好きな方ですかね」
「そうか。では、この匂いは……6.5評価としよう。好き嫌いの他に、なにか思い出すこと、もしくは連想することはないか?」
「特には」
「わかった」
男はPCの画面にスラスラとペンを走らせると、その後画面を閉じ、電源を落とした。
「では、今日はこの辺にしておこう。ここ数日の診察では、君はやはり日本の四季の特徴的な匂いと、その料理に反応する傾向があるようだ。まあ、データベースを確認したから、君が『何者』であるのかは、わかっているんだけどね。日本人男性22歳。最低限の情報しか教えてあげられなくて申し訳ない。それ以上の情報過多は記憶を蘇らせる治療に邪魔になってしまうから」
「ハンジ教授、僕はこの失ってしまった記憶を、本当に思い出すことはできるのかな……名前すら、覚えてないなんて。教授が教えてくれたレンという名前、すごく気に入ってはいますが……」
「大丈夫だよ。そのために君はこの研究所へ来たんだから。焦らなくていい。いつか思い出せる日が来る。さあ、部屋へ戻ってゆっくり食事を取りなさい」
「はい。ありがとうございました」
レンは座っていた大きなイスから降りて、ドアへと向かう。背中に優しい声が掛かって、レンは振り向いた。
「よく眠るんだよ? それも治療には必要だから」
「……はい」
レンが表情を暗く翳らせた。その様子を不安と取ったのか、ハンジ教授がさらに優しい笑みを浮かべる。
「大丈夫。埋もれてしまった記憶は、様々な『匂い』によって掘り出すことが出来る。それは理論的に証明されているし、症例もたくさんある。それに、この『匂い』で記憶を呼びさます取り組みは、連合軍の各国政府が全面的にバックアップしている。君がすべてを思い出すまで、このプログラムが面倒を見るから、安心して」
レンはホッと胸を撫で下ろした。
ならばいつかは、すべてを思い出せるだろう、と。
「ありがとうございました」
ぺこと頭を下げ、レンは診察室を出た。
ただ。いつまでこれを繰り返さなければならないのか。
ずっとずっと永遠に思い出せなかったら?
ブレインフォグの頭を抱えて、身震いのする思いがした。
*
地球規模で行われている全面戦争の惨憺たる結果は、参加する国々が次から次へと送り出す、戦闘員に重くのしかかっていた。
戦場で使われる兵器によって、戦闘員、非戦闘員が毎日のように命の危機に晒されているのは当然ながら、怪我をし、手足を失い、そして頭を狙われた際、死線を彷徨い記憶喪失となった者たちが戦場から帰還し、そして病院やこの研究所へと送られてくる。
それはとても不幸で悲惨で慈悲のない世界、戦争の終結や平和に何ら思いが至らない愚かな世界でもあった。
「さあ、今日も始めようか」
ハンジ教授が画面をクリックすると、ウィーンと大きな音をさせて、診察室の中央にそびえ立つ大きな機械がうなる。
小窓から蓋付きのシャーレが突き出されてくる。中身はないが、蓋を開けるとふわっと良い匂いがした。
「……これって」
「ん? なにか反応が?」
「嗅いだことのあるような、ないような」
「いいね、その調子だよ」
レンが再度、鼻を近づけながら、吸った。すると、頭の中にどっしりと腰を下ろしていたブレインフォグが、さあっとひらけていくような感覚があった。
曇天の中から青空が覗いたような気がして、レンは何度も瞬きをする。
その様子を見守りながら、ハンジ教授がカルテの画面をペンで叩いた。
「これは日本の、ミソスープという部類の料理だね。ミソスープには色々な種類があるが、その中でもトンジルという料理の香りだよ……どう?」
「……はい、僕、この匂い知ってます……トンジル……もしかして僕のお母さんが……」
「おお、もう少しで思い出しそうだね。初めて10評価が付けられそうだ。良い傾向だよ、今後の治療方針だが、やはり日本の料理を中心に進めていくのが良いと思う。どうかな? ……レン?」
「あ、はい」
何か考え込んでいたレンが、名前を呼ばれて顔を跳ね上げた。
「あまり急速に進めても、混乱するだけだと思うから、とりあえずトンジルの匂いのサンプルを持っていくが良い。部屋でもじっくり嗅いでみなさい」
シャーレを取り、レンへと渡す。
「ありがとうございました」
レンはシャーレを受け取ると、頭を下げて、部屋を出ていった。
ハンジ教授は画面を操作しながらカルテを書き上げると、中央の機械にそっと手で触れ、撫でた。
「レン、君をまた戦場に送り込むのは、……嫌だなあ……」
独り言を呟くと、ハンジ教授はきつく目を閉じた。
*
「お母さーん、今日のご飯、なあに?」
「レン、まずは手を洗っていらっしゃい!」
「はーい」
バタバタと洗面所に走り込み、石鹸の泡で少しだけ遊んでから、洗い流した。
リビングへ戻ると、良い香りが漂っている。
帰ってきたときには出汁の芳しい香りが漂っていたが、手を洗っている間に、それは味噌の匂いへと変化していた。
お腹がぐう、と鳴った。
コンロの前まで進み、中を覗き込むと、大きな鍋のなかで豚汁の上澄みと味噌が、混ざり合ってゆらゆらコトコトと踊っている。
「美味しそう!」
レンの母は笑いながら、「美味しそう、じゃなくて、美味しいから!」と言って、レンの頭を撫でた。
「食べる?」
「うん! 食べたい!」
おたまを斜めに入れて、底から掬い上げる。たっぷりの豚バラ肉と、大根、人参、そして蒟蒻に牛蒡。それをお椀に入れ、レンへと渡す。
レンはそれを受け取り、両の手のひらに熱を感じながら、そしてほわりとした湯気を顔に感じながら、テーブルへと運ぶ。
「いただきまあす」
箸を引っ掴んで握ったまま、お椀を持ち上げて、汁を啜った。味噌の甘さ、出汁の味わい、野菜や豚肉のエキス、すべてが詰まっている。
鼻腔へと抜ける味噌の香り。
その後、唐突に始まった世界規模の大戦争で、戦場へと駆り出され死んでしまった父も、この豚汁が大好きだったっけ。
「んー……おいし」
舌の上でとろける大根や人参。豚バラ肉の甘さ。牛蒡の土臭さは味噌でやわらいでいて、蒟蒻には優しい味が染み込んでいる。
お、い、し、……。
記憶の中の唇が、スローモーションのように動いた。
突然。
涙が溢れてきた。
父と母と囲んだ食卓。そこには確かに、肉じゃがもあった。ほかほかの白いご飯もあった。パリパリと食感が良い大根の漬物の塩気。そして、温かい豚汁。
パーフェクトだった。パーフェクトな家族の団欒だった。
美味しい食事に弾む会話。時には高らかな笑い声。料理をシェアし、美味しさを分かち合う幸せ。
カチャカチャと茶碗や皿に箸が当たる音は平和の象徴。マグカップからはほんのり、香ばしいお茶の香りと湯気がのぼる。
涙が溢れて止まらなかった。レンは、ハンジ教授から渡されたシャーレに蓋をし、ベッドの側のサイドボードへと置いた。ティッシュで鼻をかみ、そして涙を拭う。
診察室を出る時、ハンジ教授が言った。
「レン、すべてを思い出しそうになったら、この『非常ベル』で連絡して。『匂い』を日本の家庭料理に絞って、加速的に治療を追加しよう。そうすれば、より早く記憶を取り戻すことができるかもしれないし、なにより君の精神の安定もはかれるからね」
監視カメラに背を向けたハンジ教授はそう言って、レンの手に緊急用の『非常ベル』握らせ、診察室から追い出した。
いや。違う。それは、『非常ベル』ではなく、『カギ』だった。今、レンが住んでいる住居棟と外の世界を繋ぐ出入口の。
そして。
レンはベッドに座って、そのカギを側に置く。
もう一つ渡された『手紙』。
丁寧に折られた紙をゆっくり開いていく。
逃げろ。
込められた意味はわかった。
記憶を完全に取り戻し、精神が安定したのなら、また戦場へと強制的に連行される。だからなのだろう。
「……思い出したよ、父さん」
確かに父は脳神経関係の研究者だった。ただ、他の徴兵された人たちと同じように、普通に家に赤紙が届いたから、戦闘員として徴兵されたと思っていた。
その数ヶ月後、戦死広報が届き、父が亡くなったのだと母が泣いたことを覚えている。
「ハンジ教授……父さん、生きていたんだね」
思い出す。自分の名が、判治 蓮だということを。
涙がまた溢れてきた。
「と、うさん……」
だが、これは父から貰った、勇気を振り絞るためのカギ。そして、父がこのカギを持っているのに、自分は逃げることなく長年この研究所にいるということは、この仕事に使命感を持っているからに違いない。
(父さんは……きっと一緒に来てはくれないだろう)
涙をぐいっと袖で拭う。
家には母がひとり、孤独に耐えながら生きている。
蓮は、政府がくれた負傷兵への補償金と小さなナイフ、そして父から貰った手紙だけをポケットに入れ、貰ったカギを握りしめて、部屋のドアを開けた。
廊下の先、まぶたを開き、睨むように見据える。
そこには常時、頑丈なカギがかけられ、閉ざされているドアがあった。格子のついた小窓から、太陽の光が、ちらちらと漏れている。
その光が、この冷ややかな廊下を、暖かく照らしてくれているように、レンには思えた。
「父さん、ごめん。母さんが待ってる。僕は行くよ」
蘇った記憶を抱きしめて、蓮は泣きながらその一歩を踏み出した。
*
『戦争が終わったら、必ず帰る。それまで元気で』
思い出して欲しい。
あなたにとっての、その特別な匂いで。
一緒に笑い合い、穏やかに食事を共にできる、温かな家族の団欒を。愛する人の、匂いを。
それがどれだけ愛しく、大切なものだったのかを。
戦争の終結をただ、願う。